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管鮑の交わりって、現代日本じゃ知ってる人は少ないかな? 自分も、ここで読んで初めて知った^^ 轍・・・なんか、この文字使った諺あったような・・・ これに関係するのかな? 続きに期待しつつ、イイね!ヽ(*´∀`)ノ★非通知ポチ!
2012/7/4(水) 午後 7:34
イイね!押し、ありがとうございます! >轍・・・なんか、この文字使った諺あったような・・・ >これに関係するのかな? 「轍(わだち)」とは、車が通った後に残る車輪の跡の事です。 諺は「同じ轍(てつ)を踏む。」でしょう。「同じ失敗をする。」という意味ですが。これはこの故事とは無関係ですね。 >管鮑の交わりって、現代日本じゃ知ってる人は少ないかな?自分も、ここで読んで初めて知った^^ 恐らく少ないんじゃないでしょうか。後世の三国時代の劉備と諸葛孔明が由来の「水魚の交わり」と、ほぼ同じ意味でしょう。 管仲が晩年に述懐した、有名な名文があります。原文表記は面倒臭いので、現代語訳すると以下の通り。 ==================== 昔、鮑叔と一緒に商売をして、利益を分ける際に私が余分に取ったが、鮑叔は私を欲張りだと非難しなかった。私の家が貧しいのを知っていたからだ。
2012/7/5(木) 午前 9:01
また、彼の名を成さしめようとした事が逆に彼を窮地に陥れる結果となったが、彼は私を愚か者呼ばわりしなかった。 物事にはうまく行く場合とそうでない場合があるのを心得ていたからだ。 私は幾度か仕官して結果を出せず、何度もお払い箱となったが彼は私を無能呼ばわりしなかった。 私が時節に恵まれていないことを察していたからだ。 私は戦に出る度に逃げ帰ってきたが、彼は臆病者呼ばわりしなかった。私には年老いた母が居る事を知っていたからだ。 公子糾が敗れた時、召忽は殉死したが私は囚われて辱めを受けた。だが鮑叔は破廉恥呼ばわりしなかった。 私が小さな節義に恥じず、天下に功名を表せなかった事の方を恥としている事を理解していてくれたからだ。 この世に私を生んだのは父母なれど、真に私を理解する者は、鮑叔唯一人のみである。 ==================== そしてこの二人の友情は、生涯変わる事はありませんでした。だからこそ親友同士の模範・理想像と、後世まで称賛されているのです。
2012/7/5(木) 午前 9:04
おや、なんか前のブログで、この話を読んだ気がします。今まで気付かなかったのですが、突然思い出しました。 それにしても、敵も味方も、人材揃いですね。 管鮑の交わりという言葉は、何となくうろ覚えで聞いたことがあるような気もするのですが、イメージとしては寓話からのような感じがしていましたが(だってあわびって書いてあるからあわびと関係あるのかと)、こういう話だったのですね。 魯荘公は、戦は下手かもしれませんが、部下を信頼する気持ちとか誠実さがあるという面では、優れた君主と言えますね。だからこそ、曹沫はそれに答えたのでしょうから。
2013/2/1(金) 午後 1:47 [ さざんか ]
思い出してくれましたか!?(^^)b 旧ブログでもこの曹沫の故事を見て下さりましたし、また「管鮑の交わり」の話もしました。 「鮑」は氏ですね。鮑叔牙の祖先は杞(き)という国の公子でした。 「杞憂」という故事成語の由来となった国です。 経緯は不明ですが、この杞の公子が斉へ渡って、斉公室に大夫として仕えるようになりました。 その時に「鮑(ほう)」という名の邑(都市)に封じられて、以来鮑氏を名乗るようになりました。 この鮑氏の氏祖となった公子から、何代か経った子孫が鮑叔牙です。
2013/2/2(土) 午後 2:44
魯荘公は人柄は良かった部類ですね。 そんな際立った業績もなく、名君とまでは言えませんでしたが。 それでも信頼した臣下に任せ切るだけの度量はあったのでしょう。 この魯荘公の三人の異母兄弟たちが、魯における三桓氏(さんかんし)の氏祖となりました。 異母兄の公子慶父(けいほ)が孟孫氏(もうそんし)、次弟の公子牙(が)が叔孫氏(しゅくそんし)、末弟の公子友(ゆう)が季孫氏(きそんし)、それぞれの氏祖です。 この三氏族は魯公室から実権を簒奪して、長い時期国政を壟断するようになりました。
2013/2/2(土) 午後 2:45
管鮑の交わりの話も読んでいるのですね。こちらはあまり記憶に残っていなくて、すみません。 君主の人柄が悪いと使える方は、いつ扱いが変わるかヒヤヒヤですね。あまり人が良すぎて陥れられるのも困りますが、信頼出来る臣下を見抜くくらいの力量があって度量があれば、それだけで十分な気もしますね。 それにしても異母兄弟が氏祖になった三氏族に実権を簒奪されるようになるとは、やはりちょっと人が良すぎたのでしょうか。
2013/2/5(火) 午後 0:39 [ さざんか ]
どうも長らく御待たせして、申し訳ありませんでした。<(_ _)> >信頼出来る臣下を見抜くくらいの力量があって度量があれば、それだけで十分な気もしますね。 それが理想的かも。アウトライン(大筋)さえ確固としていれば、君主はディテール(細部)にまであんまり口煩く干渉したりしない方が良いかも知れません。 動乱期ならともかく、安定期とかは特に。 >異母兄弟が氏祖になった三氏族に実権を簒奪されるようになるとは、やはりちょっと人が良すぎたのでしょうか。 これは魯荘公の死後の事ですし、何世代か経った後の話ですからねえ。だから仕方ないかも・・・(^^;)。 さざんかさんは憶えていませんか?旧ブログでの叔孫豹と豎牛の話を? 叔孫豹は三桓氏の一角・叔孫氏の第5代当主で、叔孫氏の氏祖の公子牙の曾孫です。 ここからの話は他の書庫で記事にする予定ですが・・・・・この三兄弟が揃って実権を簒奪した訳ではないのですよ。
2013/2/10(日) 午後 7:48
公子牙は「叔牙(しゅくが)」、公子友は「季友(きゆう)」と呼ばれてまして。 一番上の慶父は、魯荘公の夫人の一人の哀姜(あいきょう)と密通していたり、その他問題のある傍若無人な恐い物知らずの公子でした。 魯荘公の死の直前に、世継ぎは誰がいいかを尋ねた時、叔牙は慶父を推薦しました。 しかし季友は魯荘公の庶子の公子斑(はん)を推挙しました。 叔牙が慶父を推挙していた事を知った季友は、兄である叔牙を粛清しました。 君命だとして叔牙を呼び寄せ、毒を飲ませて自害に追いやったのです。 有力な与党であった叔牙を失った慶父は、魯の君位に即き損ねて、公子斑が即位しました。 しかし不満のあった慶父は斑を、即位直後に殺してしまいました。 その後に慶父は魯荘公と、慶父の密通相手の哀姜の妹の子との間に生まれた公子啓(けい)を擁立しました。これが魯閔公(ろのびんこう)です。 この為に季友は身の危険を感じて他国へ亡命します。 その間は慶父が魯閔公の宰相として権勢を振るいます。
2013/2/10(日) 午後 7:50
魯閔公は内心では恐らく、この横暴で傲慢な伯父を嫌い、疎ましく思っていたのでしょう。 何せ亡命した叔父の季友に、魯へ帰国するよう要請した位ですから。 しかも魯閔公自ら季友を出迎えに行った位ですから。 これに慶父は激怒しました。 慶父にしてみれば、擁立して即位させてやった恩も忘れて、自分の政敵の季友を迎えようというのですから、到底許し難い事でした。 それで季友が魯に入る前に、自分で擁立した魯閔公を殺してしまいました。 今度こそ自分が魯の君主になろうとしたのです。 それを聞いて季友は、再び亡命する羽目になりました。 しかし二代立て続けに君主を殺した慶父は、国中の信望や支持を失ってしまい、今度は自分が国外へ亡命する事になりました。 それと入れ替わるように、季友は帰国して、魯荘公の子の一人である公子申(しん)を推戴して、即位させました。これが魯僖公(ろのきこう)です。 季友は魯僖公の宰相となり、国政を輔佐しました。 そして混乱の元凶である慶父を亡命先から強制送還させ、慶父を自害に追いやりました。
2013/2/10(日) 午後 7:52
このように三桓氏の氏祖たちは、御互いに殺し合っていたのです。 この季友は混乱した魯を立て直しました。 どうやら有能で誠実な宰相だったようです。 この季友が魯桓公(ろのかんこう)の子として生まれた時、掌(てのひら)の線が「友」という字の形をしていたようです。 それで「友」と命名されました。 そして卜占で占わせた所、「この子(季友)は魯の公室の柱石を担うようになる。この子がいなければ魯は栄えない。」と言われたそうです。占いは概ね当たりましたね。 だから三桓氏の専横は魯荘公と三兄弟の死から何世代か経った後の話で、魯荘公の責任でもないですね。
2013/2/10(日) 午後 7:53
魯荘公の時代の話ではないだろうとは思ったのですが、人の良さを子孫も受け継いだのかなと思ったのですが、支那では、そういうこともあまり無いようですね。親子兄弟で、ガラッと違うことのほうが多いようですね。 叔孫豹と豎牛の話は覚えています。印象的でしたからね。話は覚えていても、どこの国の話だったかとか、どこの一族かということは覚えてないのです。 それにしても悪辣な人間の一族の中に、誠実な人間もかならずいるものですね。兄弟でも母が違えばこれほど違うものなのですね。 君主も女性を見かけだけで選ばずにいろいろ性格や知性も考えて選べばいいと思うのに、そこまで考えないのでしょうね。
2013/2/15(金) 午後 2:05 [ さざんか ]
憶えていてくれましたか!それは光栄です!(^^)v 叔孫豹と豎牛の話は明治だか大正の作家・中島敦の小説『牛人(ぎゅうじん)』としても紹介されています。 これは魯の国の話で、孔子の生まれた国です。孔子はこの三桓氏とは政敵の間柄で、対立していました。 支那はどうも、血族内の善良な人間と悪辣な人間とのギャップが大きいですね。 王侯貴族でも庶民でも、立派な親から劣悪な子が生まれたりとか。 反対に劣悪な人間から立派な子が生まれたりとか。 君主クラスで言うと、君主の弟、従兄弟、叔父なんが立派でも、君主がろくでもなかったりとか。 それで結果殺されて、弟や従兄弟や叔父なんかの傍系に君位が移ったりします。 そして君主が立派で、その夫人も立派でも、そんな両者の間から生まれた子が、出来が悪かったりする場合もあります。
2013/2/16(土) 午前 9:20
そういえば、中島敦の話もその時にありましたね。叔孫豹と豎牛の話は、歴史のイメージよりも奇譚としてけっこうインパクトの有る逸話でしたね。そのせいで、何の戦略の話だったかは忘れてしまいました。 それにしても君主も婦人も立派でもおかしな子が生まれるとは、結局先祖からの遺伝の中に、本人には出ていなくても、変な人の遺伝子が入っているということかもしれませんね。そう思うと、支那人の業の深さが恐ろしくなりますね。
2013/2/17(日) 午後 11:06 [ さざんか ]
豎牛の話は第20番目の計略の「混水摸魚(こんすいぼぎょ)」の事例として載せました。 もしかしたら仰るように、祖先の因縁だか、DNAが原因かも知れませんね。
2013/2/19(火) 午後 9:16
ああ、そういえばそんな計略でしたね。 叔孫豹は気の毒でしたが、敵討ちが行われたので、一応この話は溜飲の下る話として、いい話しの内には入れてもいい部類として覚えています。 支那はほんとにいい話が少ないですから、結末だけでも良ければいい印象として残りますね。
2013/2/28(木) 午前 8:55 [ さざんか ]
豎牛は叔孫豹の隠し子でしたが、実の父親と腹違いの兄弟たちを、次々殺して行った話でした。そして最後に豎牛は復讐されました。 支那史は悲惨で悲劇的な結末になる話が確かに多いですね。 悪人じゃないのに、報われない生涯の人が多くて気の毒になってしまいますよ(^^;)。
2013/2/28(木) 午前 9:27
そうでしたね。兄弟たちを謀略で次々殺していましたね。兄弟たちは、なんか人がよさそうでしたし、気の毒でしたね。傍系の兄弟が兄の子たちに、敵討ちをさせるというのも、なんかめずらしい気がして、印象に残っています。
2013/3/2(土) 午後 9:38 [ さざんか ]
そうです!それです!憶えていてくれてありがとうございました(^^)。
2013/3/3(日) 午前 9:46
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管鮑の交わりって、現代日本じゃ知ってる人は少ないかな?
自分も、ここで読んで初めて知った^^
轍・・・なんか、この文字使った諺あったような・・・
これに関係するのかな?
続きに期待しつつ、イイね!ヽ(*´∀`)ノ★非通知ポチ!
2012/7/4(水) 午後 7:34
イイね!押し、ありがとうございます!
>轍・・・なんか、この文字使った諺あったような・・・
>これに関係するのかな?
「轍(わだち)」とは、車が通った後に残る車輪の跡の事です。
諺は「同じ轍(てつ)を踏む。」でしょう。「同じ失敗をする。」という意味ですが。これはこの故事とは無関係ですね。
>管鮑の交わりって、現代日本じゃ知ってる人は少ないかな?自分も、ここで読んで初めて知った^^
恐らく少ないんじゃないでしょうか。後世の三国時代の劉備と諸葛孔明が由来の「水魚の交わり」と、ほぼ同じ意味でしょう。
管仲が晩年に述懐した、有名な名文があります。原文表記は面倒臭いので、現代語訳すると以下の通り。
====================
昔、鮑叔と一緒に商売をして、利益を分ける際に私が余分に取ったが、鮑叔は私を欲張りだと非難しなかった。私の家が貧しいのを知っていたからだ。
2012/7/5(木) 午前 9:01
また、彼の名を成さしめようとした事が逆に彼を窮地に陥れる結果となったが、彼は私を愚か者呼ばわりしなかった。
物事にはうまく行く場合とそうでない場合があるのを心得ていたからだ。
私は幾度か仕官して結果を出せず、何度もお払い箱となったが彼は私を無能呼ばわりしなかった。
私が時節に恵まれていないことを察していたからだ。
私は戦に出る度に逃げ帰ってきたが、彼は臆病者呼ばわりしなかった。私には年老いた母が居る事を知っていたからだ。
公子糾が敗れた時、召忽は殉死したが私は囚われて辱めを受けた。だが鮑叔は破廉恥呼ばわりしなかった。
私が小さな節義に恥じず、天下に功名を表せなかった事の方を恥としている事を理解していてくれたからだ。
この世に私を生んだのは父母なれど、真に私を理解する者は、鮑叔唯一人のみである。
====================
そしてこの二人の友情は、生涯変わる事はありませんでした。だからこそ親友同士の模範・理想像と、後世まで称賛されているのです。
2012/7/5(木) 午前 9:04
おや、なんか前のブログで、この話を読んだ気がします。今まで気付かなかったのですが、突然思い出しました。
それにしても、敵も味方も、人材揃いですね。
管鮑の交わりという言葉は、何となくうろ覚えで聞いたことがあるような気もするのですが、イメージとしては寓話からのような感じがしていましたが(だってあわびって書いてあるからあわびと関係あるのかと)、こういう話だったのですね。
魯荘公は、戦は下手かもしれませんが、部下を信頼する気持ちとか誠実さがあるという面では、優れた君主と言えますね。だからこそ、曹沫はそれに答えたのでしょうから。
2013/2/1(金) 午後 1:47 [ さざんか ]
思い出してくれましたか!?(^^)b
旧ブログでもこの曹沫の故事を見て下さりましたし、また「管鮑の交わり」の話もしました。
「鮑」は氏ですね。鮑叔牙の祖先は杞(き)という国の公子でした。
「杞憂」という故事成語の由来となった国です。
経緯は不明ですが、この杞の公子が斉へ渡って、斉公室に大夫として仕えるようになりました。
その時に「鮑(ほう)」という名の邑(都市)に封じられて、以来鮑氏を名乗るようになりました。
この鮑氏の氏祖となった公子から、何代か経った子孫が鮑叔牙です。
2013/2/2(土) 午後 2:44
魯荘公は人柄は良かった部類ですね。
そんな際立った業績もなく、名君とまでは言えませんでしたが。
それでも信頼した臣下に任せ切るだけの度量はあったのでしょう。
この魯荘公の三人の異母兄弟たちが、魯における三桓氏(さんかんし)の氏祖となりました。
異母兄の公子慶父(けいほ)が孟孫氏(もうそんし)、次弟の公子牙(が)が叔孫氏(しゅくそんし)、末弟の公子友(ゆう)が季孫氏(きそんし)、それぞれの氏祖です。
この三氏族は魯公室から実権を簒奪して、長い時期国政を壟断するようになりました。
2013/2/2(土) 午後 2:45
管鮑の交わりの話も読んでいるのですね。こちらはあまり記憶に残っていなくて、すみません。
君主の人柄が悪いと使える方は、いつ扱いが変わるかヒヤヒヤですね。あまり人が良すぎて陥れられるのも困りますが、信頼出来る臣下を見抜くくらいの力量があって度量があれば、それだけで十分な気もしますね。
それにしても異母兄弟が氏祖になった三氏族に実権を簒奪されるようになるとは、やはりちょっと人が良すぎたのでしょうか。
2013/2/5(火) 午後 0:39 [ さざんか ]
どうも長らく御待たせして、申し訳ありませんでした。<(_ _)>
>信頼出来る臣下を見抜くくらいの力量があって度量があれば、それだけで十分な気もしますね。
それが理想的かも。アウトライン(大筋)さえ確固としていれば、君主はディテール(細部)にまであんまり口煩く干渉したりしない方が良いかも知れません。
動乱期ならともかく、安定期とかは特に。
>異母兄弟が氏祖になった三氏族に実権を簒奪されるようになるとは、やはりちょっと人が良すぎたのでしょうか。
これは魯荘公の死後の事ですし、何世代か経った後の話ですからねえ。だから仕方ないかも・・・(^^;)。
さざんかさんは憶えていませんか?旧ブログでの叔孫豹と豎牛の話を?
叔孫豹は三桓氏の一角・叔孫氏の第5代当主で、叔孫氏の氏祖の公子牙の曾孫です。
ここからの話は他の書庫で記事にする予定ですが・・・・・この三兄弟が揃って実権を簒奪した訳ではないのですよ。
2013/2/10(日) 午後 7:48
公子牙は「叔牙(しゅくが)」、公子友は「季友(きゆう)」と呼ばれてまして。
一番上の慶父は、魯荘公の夫人の一人の哀姜(あいきょう)と密通していたり、その他問題のある傍若無人な恐い物知らずの公子でした。
魯荘公の死の直前に、世継ぎは誰がいいかを尋ねた時、叔牙は慶父を推薦しました。
しかし季友は魯荘公の庶子の公子斑(はん)を推挙しました。
叔牙が慶父を推挙していた事を知った季友は、兄である叔牙を粛清しました。
君命だとして叔牙を呼び寄せ、毒を飲ませて自害に追いやったのです。
有力な与党であった叔牙を失った慶父は、魯の君位に即き損ねて、公子斑が即位しました。
しかし不満のあった慶父は斑を、即位直後に殺してしまいました。
その後に慶父は魯荘公と、慶父の密通相手の哀姜の妹の子との間に生まれた公子啓(けい)を擁立しました。これが魯閔公(ろのびんこう)です。
この為に季友は身の危険を感じて他国へ亡命します。
その間は慶父が魯閔公の宰相として権勢を振るいます。
2013/2/10(日) 午後 7:50
魯閔公は内心では恐らく、この横暴で傲慢な伯父を嫌い、疎ましく思っていたのでしょう。
何せ亡命した叔父の季友に、魯へ帰国するよう要請した位ですから。
しかも魯閔公自ら季友を出迎えに行った位ですから。
これに慶父は激怒しました。
慶父にしてみれば、擁立して即位させてやった恩も忘れて、自分の政敵の季友を迎えようというのですから、到底許し難い事でした。
それで季友が魯に入る前に、自分で擁立した魯閔公を殺してしまいました。
今度こそ自分が魯の君主になろうとしたのです。
それを聞いて季友は、再び亡命する羽目になりました。
しかし二代立て続けに君主を殺した慶父は、国中の信望や支持を失ってしまい、今度は自分が国外へ亡命する事になりました。
それと入れ替わるように、季友は帰国して、魯荘公の子の一人である公子申(しん)を推戴して、即位させました。これが魯僖公(ろのきこう)です。
季友は魯僖公の宰相となり、国政を輔佐しました。
そして混乱の元凶である慶父を亡命先から強制送還させ、慶父を自害に追いやりました。
2013/2/10(日) 午後 7:52
このように三桓氏の氏祖たちは、御互いに殺し合っていたのです。
この季友は混乱した魯を立て直しました。
どうやら有能で誠実な宰相だったようです。
この季友が魯桓公(ろのかんこう)の子として生まれた時、掌(てのひら)の線が「友」という字の形をしていたようです。
それで「友」と命名されました。
そして卜占で占わせた所、「この子(季友)は魯の公室の柱石を担うようになる。この子がいなければ魯は栄えない。」と言われたそうです。占いは概ね当たりましたね。
だから三桓氏の専横は魯荘公と三兄弟の死から何世代か経った後の話で、魯荘公の責任でもないですね。
2013/2/10(日) 午後 7:53
魯荘公の時代の話ではないだろうとは思ったのですが、人の良さを子孫も受け継いだのかなと思ったのですが、支那では、そういうこともあまり無いようですね。親子兄弟で、ガラッと違うことのほうが多いようですね。
叔孫豹と豎牛の話は覚えています。印象的でしたからね。話は覚えていても、どこの国の話だったかとか、どこの一族かということは覚えてないのです。
それにしても悪辣な人間の一族の中に、誠実な人間もかならずいるものですね。兄弟でも母が違えばこれほど違うものなのですね。
君主も女性を見かけだけで選ばずにいろいろ性格や知性も考えて選べばいいと思うのに、そこまで考えないのでしょうね。
2013/2/15(金) 午後 2:05 [ さざんか ]
憶えていてくれましたか!それは光栄です!(^^)v
叔孫豹と豎牛の話は明治だか大正の作家・中島敦の小説『牛人(ぎゅうじん)』としても紹介されています。
これは魯の国の話で、孔子の生まれた国です。孔子はこの三桓氏とは政敵の間柄で、対立していました。
支那はどうも、血族内の善良な人間と悪辣な人間とのギャップが大きいですね。
王侯貴族でも庶民でも、立派な親から劣悪な子が生まれたりとか。
反対に劣悪な人間から立派な子が生まれたりとか。
君主クラスで言うと、君主の弟、従兄弟、叔父なんが立派でも、君主がろくでもなかったりとか。
それで結果殺されて、弟や従兄弟や叔父なんかの傍系に君位が移ったりします。
そして君主が立派で、その夫人も立派でも、そんな両者の間から生まれた子が、出来が悪かったりする場合もあります。
2013/2/16(土) 午前 9:20
そういえば、中島敦の話もその時にありましたね。叔孫豹と豎牛の話は、歴史のイメージよりも奇譚としてけっこうインパクトの有る逸話でしたね。そのせいで、何の戦略の話だったかは忘れてしまいました。
それにしても君主も婦人も立派でもおかしな子が生まれるとは、結局先祖からの遺伝の中に、本人には出ていなくても、変な人の遺伝子が入っているということかもしれませんね。そう思うと、支那人の業の深さが恐ろしくなりますね。
2013/2/17(日) 午後 11:06 [ さざんか ]
豎牛の話は第20番目の計略の「混水摸魚(こんすいぼぎょ)」の事例として載せました。
もしかしたら仰るように、祖先の因縁だか、DNAが原因かも知れませんね。
2013/2/19(火) 午後 9:16
ああ、そういえばそんな計略でしたね。
叔孫豹は気の毒でしたが、敵討ちが行われたので、一応この話は溜飲の下る話として、いい話しの内には入れてもいい部類として覚えています。
支那はほんとにいい話が少ないですから、結末だけでも良ければいい印象として残りますね。
2013/2/28(木) 午前 8:55 [ さざんか ]
豎牛は叔孫豹の隠し子でしたが、実の父親と腹違いの兄弟たちを、次々殺して行った話でした。そして最後に豎牛は復讐されました。
支那史は悲惨で悲劇的な結末になる話が確かに多いですね。
悪人じゃないのに、報われない生涯の人が多くて気の毒になってしまいますよ(^^;)。
2013/2/28(木) 午前 9:27
そうでしたね。兄弟たちを謀略で次々殺していましたね。兄弟たちは、なんか人がよさそうでしたし、気の毒でしたね。傍系の兄弟が兄の子たちに、敵討ちをさせるというのも、なんかめずらしい気がして、印象に残っています。
2013/3/2(土) 午後 9:38 [ さざんか ]
そうです!それです!憶えていてくれてありがとうございました(^^)。
2013/3/3(日) 午前 9:46