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なるほど、確かにうまい方法といえるかも知れませんが、なんだか骨肉の争いで、しかも父子が殺すだの殺されるだのという話というのは、もはや日本人の感覚では理解できない部分がありますね。 自分太子にしておいて、それを廃嫡して殺すだとか、簡単に自分の息子でも殺すものなのですね。親も親、子も子、殺伐としすぎですね。
2012/10/13(土) 午前 1:03 [ さざんか ]
まあ支那人ですからね(苦笑)。支那史ではこれより後の時代でも、そう珍しくはありませんよ。 孝の徳目を第一に掲げている割に何だか・・・・と思いますが。 日本だって古来より「親が子を殺す」とか「子が親を殺す」とかいう話は、決して皆無だった訳ではないですが、それでも支那程ではないでしょう。 兄弟間、従兄弟間、叔父甥間では珍しくもなかったですが。 有名な例で言えば、源為義(みなもとのためよし)とその長男・源義朝(みなもとのよしとも)の親子でしょう。 義朝は父・為義を戦で破った後に処刑しました。 ちなみにこの二人、鎌倉幕府を開いた源頼朝の祖父と父です。 その頼朝の家庭でも、母が息子を殺す事になりましたね。 頼朝の正室の北条政子と、二人の長男の第2代将軍・源頼家の事ですが。
2012/10/13(土) 午後 5:27
室町幕府初代将軍・足利尊氏と、尊氏の妾腹の長男の足利直冬(あしかがただふゆ)の戦もそうでしょう。 敗れた後の直冬の消息は不明だそうですが。 そして徳川家康が嫡男の信康を、生母の築山殿と一緒に自害に追い込んだ事。 尤もこれは、織田信長の圧力で、逆らえ切れずにそうなったのですが。 後思い付くのは、「独眼竜」伊達政宗が、敵の人質に取られた父・伊達輝宗(だててるむね)を見殺しにして、攻撃を加えた結果、父・輝宗が死ぬ羽目になった事でしょうか。 これは事情を見るに、そう一概に批難は出来ませんが。
2012/10/13(土) 午後 5:28
義朝の時もそうですね。これは保元の乱の処分が、今までなかった死刑を行ったことで、子が親を、親が子を処刑しなくてはならない羽目になったということですよね。保元の乱の処分は酷い話のようですね。よくは知らないのですが。少年日本史だったかなんかをチラッと読んだだけですが。 尊氏の長男の話は存じませんでした。と言うことは長男は後醍醐天皇の側についたのでしょうか。 家康と築山殿の子の信康の話は、山岡荘八の徳川家康で読みました。家康は、かなり後々まで、もし信康が生きていたらと言っているように書いてあったので、この子を処刑したのは、かなり残念だったのでしょうね。 伊達政宗の話はまったく存じませんでした。戦国時代ですから、生き残るには、かなり厳しいこともあったでしょうね。家康の場合もそうですし、私情を殺さねば生きられない時代だったのでしょうね。
2012/10/26(金) 午後 10:36 [ さざんか ]
未読なので平泉澄の『少年日本史』では、どのような描写かは分かりませんが、どうも後白河天皇の命令だとか言われてますね。詳細は忘れましたが。 只今放映中のNHK大河ドラマにも為義・義朝親子は登場したみたいですが、どう描写されてた事やら。 昨今の大河ドラマは観る気しないから、サッパリ知りません(笑)。 尊氏の妾腹の長男・直冬の話は、消えてしまった旧ブログでも書きました。 直冬が乱を起こした頃には、後醍醐天皇は既に崩御していました。 南朝に降った訳でもなく、独立した勢力となったようです。それに叔父・直義の後見もありましたし。
2012/10/27(土) 午後 3:44
家康は長男の信康を死に追いやった事を、生涯忘れられなかったようです。 尤も信康は戦上手でも、人格に問題が多々あったようで、家臣からの人望はなかったみたいです(^^;)。 そのせいで家康の当時の右腕とも言える酒井忠次も、信長に尋問された時に、特に庇い立てする事もなかったみたいですが。 それが元で家康は忠次を終生恨み続けました。 伊達政宗の場合は「粟之巣の変事」と呼ばれる事件だそうです。 二本松城主の二本松義継に父・輝宗が人質に取られたのを、政宗が鉄砲を射掛けた事で、義継と一緒に死んだとも、ヤケになった義継が輝宗を殺してから自害したとも言われてます。
2012/10/27(土) 午後 3:45
こう見ると、日本では、多くの場合、親も子もいろいろと葛藤苦悩があってのことだとわかりますが、それに比べると、支那は親子の情が薄いですね。これでは他人なら、なおさら薄情になるのは、当然かも知れませんね。
2012/10/27(土) 午後 5:21 [ さざんか ]
この時代は支那史上全体を通じてみても、特に酷さが目立ったみたいですね。 親の子殺しや子の親殺しも後世あったようなのですが、この時代程でもなかったみたいです。 と言いますのも、儒教が浸透して以降は、身分階層を問わず「孝」が絶対的で第一という社会的通念が確立されたみたいですね。 それで孝の徳目に背く者には、誰であれ死罪が適用されるという慣習や法制度が確立されるに至ったみたいなんですよ。尤もそれが行き過ぎた感もりますが。 今読み掛け中の本に桑原隲蔵(くわばらじつぞう)著『支那の孝道』でも、今まで知らなかった色々なエピソードが書かれています。改題されて『中国の孝道』となってますが。 この本の論旨を要約すると、孝は支那世界の秩序そのもので、政治も法律も孝が中心軸になっているのが伝統だったと。 善悪は別として、春秋戦国時代とはエライ違いみたいです。
2012/10/28(日) 午前 1:03
儒教はシナにおいて、実に大事な役割を担ったということですね。儒教といえば、何となく教育勅語のイメージが浮かぶのですが、こうした人間の基本となる徳目をはっきりと言葉で表したことは、意識して道徳的であろうとする気持ちを持つようになるので、人間の生き方を画期的に変えるくらいの力を持ったかもしれませんね。 もっとも、それでもシナのことですから、日本のように本質をつかんだ忠孝の思想とならずに、形骸化したものかもしれませんが。
2012/11/3(土) 午後 11:10 [ さざんか ]
どうも本家本元の支那と日本のでは、少々違うようにも思えますね。形骸化したのは朱子学の影響でしょうか。 朱子学は仏教の影響があるみたいで、儒教を精密に理論化して体系化する為の作業に、仏教の論法とかを応用したと聞きますね。 そして支那の儒教と大きく違う点の一つに、「忠孝一致」や「臣民」の概念を創出した事でしょうか。 本来支那では「忠」と「孝」、「臣」と「民」は全く別次元の概念ですが、日本ではそれ等を独自に一体化させました。 支那だと主君に対する「忠」と親や祖先に対する「孝」とでは、文句なしに「孝」が優先でした。 だから例え主君への忠義には背いても、親への孝に適っているのなら、社会通念として許されていました。 支那だと臣と民では天地ほどの隔たりがあり、一緒にするなど考えられない事でした。 臣とは皇帝や君主に仕える身分の人間であり支配階級ですが、民はそれとは無縁の身分の被支配階級です。 臣と民では要求される倫理や規範や徳目とかも違います。
2012/11/4(日) 午後 1:44
日本史上に置き換えてみれば、武士道の倫理や行動の規範を下の身分階層の人間にまで要求したり、適用しなかったというのと同じ事です。 その象徴的な言葉として、支那の古代の経典『礼記(らいき)』の中でも、「礼は庶人に下さず、刑は大夫に上(のぼ)さず。」と記されてあります。 礼とは社会秩序や倫理・行動の規範やその他ルール、更には政治の慣習・制度をも含みます。 こういった徳目や倫理・行動の規範は、支配階級である士大夫以上のクラスに要求されますが、身分のない庶人とは無縁のものでした。 ただ御上の下した法律に触れれば刑を受けさせるだけで、それさえ触れなければ礼を守らなくとも良しとされてました。 反対に士大夫以上は庶人みたいに刑を下される事はなくとも、礼には従う事を要求されました。 こう言うと何だか「刑罰下されるのは庶人(一般庶民)だけなのかよ!?それって不公平じゃないのか!?」と思われるかも知れませんが、案外そうでもなかったみたいです。 身分差別による理不尽も何かとあったでしょうが、最も大きな違いの一つとして、君主が庶人相手に、突如自裁を命じるなんて事はありませんでした。
2012/11/4(日) 午後 1:45
つまり気に入らない臣下や、何かで不興や勘気を蒙った臣下を、君主は法律的な理由の裏付けもなく、自害して死ぬように命じたりする事もありました。 臣下の方はそれには逆らえず、粛々として受け入れて、自害しなければなりませんでした。 「そんなの横暴だ!理不尽だ!」と抗議しても通りませんでした。 つまり法に触れずとも、このような目に遭う事もあった訳です。 これは庶人には縁のない話で、庶人はただ法を遵守さえしていれば、こういう礼法が適用される事もありませんでした。 その他には、士大夫は建前として皇帝や王朝に殉じなければなりませんでした。 敵や異民族に王朝が滅ぼされた場合は、士大夫は滅びた王朝に殉じて死ぬ事が美徳とされていました。 あくまでも建前であって、必ずしも守られた訳ではないですが。 しかし庶人にはそんな事は要求されませんので、征服者に新しく支配されれば良いのです。
2012/11/4(日) 午後 1:46
支那では臣と民の間にはこのような差があったので、果たしてどちらが気楽だったかは、一概には言えないかと。 日本では明治期になって、本来は隔絶ぶりに雲泥の差があった臣と民を一体化させました。 つまり日本の全国民を、階級問わず皆天皇陛下の臣民としたのです。 それはひいては国民全員に、それまでは支配階級だけに求められた高度な倫理道徳や行動の規範、価値観を持つ事を義務付けられた事に他なりません。 これって凄い発明かと思えますが。外国ではこういう例は聞かないですね。
2012/11/4(日) 午後 1:48
忠孝一致が、日本独特なものだというのは知っていましたが、臣民というのもそうだとは、言われてみればそうですね。 明治期にはっきりと明文化したのでしょうが、それ以前でも、幕末期の志士たちは、武士にかぎらないですし、天皇の民という意識が、日本人という一体感で日本人の根っこを形成していた気もしますね。
2012/11/6(火) 午前 1:38 [ さざんか ]
江戸期から身分を問わず、そういう概念が既に確立していたかと思えます。 それが明治維新を成立させた大きな下地になったのでしょう。 これもソフト面における、中央集権体制化への一環と言えるかも知れません。
2012/11/7(水) 午前 10:04
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なるほど、確かにうまい方法といえるかも知れませんが、なんだか骨肉の争いで、しかも父子が殺すだの殺されるだのという話というのは、もはや日本人の感覚では理解できない部分がありますね。
自分太子にしておいて、それを廃嫡して殺すだとか、簡単に自分の息子でも殺すものなのですね。親も親、子も子、殺伐としすぎですね。
2012/10/13(土) 午前 1:03 [ さざんか ]
まあ支那人ですからね(苦笑)。支那史ではこれより後の時代でも、そう珍しくはありませんよ。
孝の徳目を第一に掲げている割に何だか・・・・と思いますが。
日本だって古来より「親が子を殺す」とか「子が親を殺す」とかいう話は、決して皆無だった訳ではないですが、それでも支那程ではないでしょう。
兄弟間、従兄弟間、叔父甥間では珍しくもなかったですが。
有名な例で言えば、源為義(みなもとのためよし)とその長男・源義朝(みなもとのよしとも)の親子でしょう。
義朝は父・為義を戦で破った後に処刑しました。
ちなみにこの二人、鎌倉幕府を開いた源頼朝の祖父と父です。
その頼朝の家庭でも、母が息子を殺す事になりましたね。
頼朝の正室の北条政子と、二人の長男の第2代将軍・源頼家の事ですが。
2012/10/13(土) 午後 5:27
室町幕府初代将軍・足利尊氏と、尊氏の妾腹の長男の足利直冬(あしかがただふゆ)の戦もそうでしょう。
敗れた後の直冬の消息は不明だそうですが。
そして徳川家康が嫡男の信康を、生母の築山殿と一緒に自害に追い込んだ事。
尤もこれは、織田信長の圧力で、逆らえ切れずにそうなったのですが。
後思い付くのは、「独眼竜」伊達政宗が、敵の人質に取られた父・伊達輝宗(だててるむね)を見殺しにして、攻撃を加えた結果、父・輝宗が死ぬ羽目になった事でしょうか。
これは事情を見るに、そう一概に批難は出来ませんが。
2012/10/13(土) 午後 5:28
義朝の時もそうですね。これは保元の乱の処分が、今までなかった死刑を行ったことで、子が親を、親が子を処刑しなくてはならない羽目になったということですよね。保元の乱の処分は酷い話のようですね。よくは知らないのですが。少年日本史だったかなんかをチラッと読んだだけですが。
尊氏の長男の話は存じませんでした。と言うことは長男は後醍醐天皇の側についたのでしょうか。
家康と築山殿の子の信康の話は、山岡荘八の徳川家康で読みました。家康は、かなり後々まで、もし信康が生きていたらと言っているように書いてあったので、この子を処刑したのは、かなり残念だったのでしょうね。
伊達政宗の話はまったく存じませんでした。戦国時代ですから、生き残るには、かなり厳しいこともあったでしょうね。家康の場合もそうですし、私情を殺さねば生きられない時代だったのでしょうね。
2012/10/26(金) 午後 10:36 [ さざんか ]
未読なので平泉澄の『少年日本史』では、どのような描写かは分かりませんが、どうも後白河天皇の命令だとか言われてますね。詳細は忘れましたが。
只今放映中のNHK大河ドラマにも為義・義朝親子は登場したみたいですが、どう描写されてた事やら。
昨今の大河ドラマは観る気しないから、サッパリ知りません(笑)。
尊氏の妾腹の長男・直冬の話は、消えてしまった旧ブログでも書きました。
直冬が乱を起こした頃には、後醍醐天皇は既に崩御していました。
南朝に降った訳でもなく、独立した勢力となったようです。それに叔父・直義の後見もありましたし。
2012/10/27(土) 午後 3:44
家康は長男の信康を死に追いやった事を、生涯忘れられなかったようです。
尤も信康は戦上手でも、人格に問題が多々あったようで、家臣からの人望はなかったみたいです(^^;)。
そのせいで家康の当時の右腕とも言える酒井忠次も、信長に尋問された時に、特に庇い立てする事もなかったみたいですが。
それが元で家康は忠次を終生恨み続けました。
伊達政宗の場合は「粟之巣の変事」と呼ばれる事件だそうです。
二本松城主の二本松義継に父・輝宗が人質に取られたのを、政宗が鉄砲を射掛けた事で、義継と一緒に死んだとも、ヤケになった義継が輝宗を殺してから自害したとも言われてます。
2012/10/27(土) 午後 3:45
こう見ると、日本では、多くの場合、親も子もいろいろと葛藤苦悩があってのことだとわかりますが、それに比べると、支那は親子の情が薄いですね。これでは他人なら、なおさら薄情になるのは、当然かも知れませんね。
2012/10/27(土) 午後 5:21 [ さざんか ]
この時代は支那史上全体を通じてみても、特に酷さが目立ったみたいですね。
親の子殺しや子の親殺しも後世あったようなのですが、この時代程でもなかったみたいです。
と言いますのも、儒教が浸透して以降は、身分階層を問わず「孝」が絶対的で第一という社会的通念が確立されたみたいですね。
それで孝の徳目に背く者には、誰であれ死罪が適用されるという慣習や法制度が確立されるに至ったみたいなんですよ。尤もそれが行き過ぎた感もりますが。
今読み掛け中の本に桑原隲蔵(くわばらじつぞう)著『支那の孝道』でも、今まで知らなかった色々なエピソードが書かれています。改題されて『中国の孝道』となってますが。
この本の論旨を要約すると、孝は支那世界の秩序そのもので、政治も法律も孝が中心軸になっているのが伝統だったと。
善悪は別として、春秋戦国時代とはエライ違いみたいです。
2012/10/28(日) 午前 1:03
儒教はシナにおいて、実に大事な役割を担ったということですね。儒教といえば、何となく教育勅語のイメージが浮かぶのですが、こうした人間の基本となる徳目をはっきりと言葉で表したことは、意識して道徳的であろうとする気持ちを持つようになるので、人間の生き方を画期的に変えるくらいの力を持ったかもしれませんね。
もっとも、それでもシナのことですから、日本のように本質をつかんだ忠孝の思想とならずに、形骸化したものかもしれませんが。
2012/11/3(土) 午後 11:10 [ さざんか ]
どうも本家本元の支那と日本のでは、少々違うようにも思えますね。形骸化したのは朱子学の影響でしょうか。
朱子学は仏教の影響があるみたいで、儒教を精密に理論化して体系化する為の作業に、仏教の論法とかを応用したと聞きますね。
そして支那の儒教と大きく違う点の一つに、「忠孝一致」や「臣民」の概念を創出した事でしょうか。
本来支那では「忠」と「孝」、「臣」と「民」は全く別次元の概念ですが、日本ではそれ等を独自に一体化させました。
支那だと主君に対する「忠」と親や祖先に対する「孝」とでは、文句なしに「孝」が優先でした。
だから例え主君への忠義には背いても、親への孝に適っているのなら、社会通念として許されていました。
支那だと臣と民では天地ほどの隔たりがあり、一緒にするなど考えられない事でした。
臣とは皇帝や君主に仕える身分の人間であり支配階級ですが、民はそれとは無縁の身分の被支配階級です。
臣と民では要求される倫理や規範や徳目とかも違います。
2012/11/4(日) 午後 1:44
日本史上に置き換えてみれば、武士道の倫理や行動の規範を下の身分階層の人間にまで要求したり、適用しなかったというのと同じ事です。
その象徴的な言葉として、支那の古代の経典『礼記(らいき)』の中でも、「礼は庶人に下さず、刑は大夫に上(のぼ)さず。」と記されてあります。
礼とは社会秩序や倫理・行動の規範やその他ルール、更には政治の慣習・制度をも含みます。
こういった徳目や倫理・行動の規範は、支配階級である士大夫以上のクラスに要求されますが、身分のない庶人とは無縁のものでした。
ただ御上の下した法律に触れれば刑を受けさせるだけで、それさえ触れなければ礼を守らなくとも良しとされてました。
反対に士大夫以上は庶人みたいに刑を下される事はなくとも、礼には従う事を要求されました。
こう言うと何だか「刑罰下されるのは庶人(一般庶民)だけなのかよ!?それって不公平じゃないのか!?」と思われるかも知れませんが、案外そうでもなかったみたいです。
身分差別による理不尽も何かとあったでしょうが、最も大きな違いの一つとして、君主が庶人相手に、突如自裁を命じるなんて事はありませんでした。
2012/11/4(日) 午後 1:45
つまり気に入らない臣下や、何かで不興や勘気を蒙った臣下を、君主は法律的な理由の裏付けもなく、自害して死ぬように命じたりする事もありました。
臣下の方はそれには逆らえず、粛々として受け入れて、自害しなければなりませんでした。
「そんなの横暴だ!理不尽だ!」と抗議しても通りませんでした。
つまり法に触れずとも、このような目に遭う事もあった訳です。
これは庶人には縁のない話で、庶人はただ法を遵守さえしていれば、こういう礼法が適用される事もありませんでした。
その他には、士大夫は建前として皇帝や王朝に殉じなければなりませんでした。
敵や異民族に王朝が滅ぼされた場合は、士大夫は滅びた王朝に殉じて死ぬ事が美徳とされていました。
あくまでも建前であって、必ずしも守られた訳ではないですが。
しかし庶人にはそんな事は要求されませんので、征服者に新しく支配されれば良いのです。
2012/11/4(日) 午後 1:46
支那では臣と民の間にはこのような差があったので、果たしてどちらが気楽だったかは、一概には言えないかと。
日本では明治期になって、本来は隔絶ぶりに雲泥の差があった臣と民を一体化させました。
つまり日本の全国民を、階級問わず皆天皇陛下の臣民としたのです。
それはひいては国民全員に、それまでは支配階級だけに求められた高度な倫理道徳や行動の規範、価値観を持つ事を義務付けられた事に他なりません。
これって凄い発明かと思えますが。外国ではこういう例は聞かないですね。
2012/11/4(日) 午後 1:48
忠孝一致が、日本独特なものだというのは知っていましたが、臣民というのもそうだとは、言われてみればそうですね。
明治期にはっきりと明文化したのでしょうが、それ以前でも、幕末期の志士たちは、武士にかぎらないですし、天皇の民という意識が、日本人という一体感で日本人の根っこを形成していた気もしますね。
2012/11/6(火) 午前 1:38 [ さざんか ]
江戸期から身分を問わず、そういう概念が既に確立していたかと思えます。
それが明治維新を成立させた大きな下地になったのでしょう。
これもソフト面における、中央集権体制化への一環と言えるかも知れません。
2012/11/7(水) 午前 10:04