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前編からの続き
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さてさて、こうして「三度目の正直」で国譲りも成り、任務完了です。
タケミカヅチノオノカミは高天原へ帰還し、葦原の中つ国を平定し終え、国を譲渡された事の顛末を復命しました。
引き継がれた中つ国へ、今度こそアメノオシホミミノミコトが赴く筈だったのですが・・・・天下りの準備中に、男子が生まれたというのです。
その子の名はアメニキシクニニキシアマツヒコヒコホノニニギノミコト(天邇岐志国邇岐志天津日高日子番能邇邇芸命)と言いました。
長い名前だなあ・・・・・(^^;)。以後は「ニニギノミコト(邇邇芸命)」と呼びます。
この男子はアメノオシホミミノミコトが、高木神の娘のヨロヅハタトヨアキツシヒメノミコト(万幡豊秋津師比売命)との間に生んだ子で、アマテラスオオミカミとスサノオノミコトにとっては孫に当たります。
父のアメノオシホミミノミコトは、「自分の代わりにこの子(ニニギノミコト)を地上へ遣わして下さい。」と言われました。
こうしてニニギノミコトは父の代わりに葦原中国を統治する為に、天界から地上へと降り立つ事となりました。
この時に祖母のアマテラスオオミカミが孫に対して下された勅命が、『日本書紀』の方では「天壌無窮の神勅(てんじょうむきゅうのしんちょく)」となっています。
こうして下界へ降りたニニギノミコトはやがてコノハナノサクヤビメ(木花之佐久夜毘売)と結婚し、三子を生みます。
上からホデリノミコト(火照命)、ホスセリノミコト(火須勢理命)、ホヲリノミコト(火遠理命)です。
末子のホヲリノミコトが海神の娘トヨタマビメノミコト(豊玉毘売命)との間に生んだ子が、アマツヒコヒコナギサタケウガヤフキアエズノミコト(天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命)です。
長いので短縮し、このウガヤフキアエズノミコトが叔母(母トヨタマビメノミコトの妹)のタマヨリビメノミコト(玉依毘売命)と結婚して四子を生みました。上からイツセノミコト(五瀬命)、イナヒノミコト(稲氷命)、ミケヌノミコト(御毛沼命)、ワカミケヌノミコト(若御毛沼命)です。
末子のワカミケヌノミコトは別名をカムヤマトイワレビコノミコト(神倭伊波礼毘古命)と言い、後に我が国の初代天皇、すなわち神武天皇として即位します。以降の皇統は現在の第125代の今上陛下にまで至ります。
すなわち直系だけを繋いで行けば・・・
アマテラスオオミカミ・スサノオノミコト
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アメノオシホミミノミコト
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ニニギノミコト
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ホヲリノミコト
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⇓
ウガヤフキアエズノミコト
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カムヤマトノイワレビコノミコト(神武天皇)
⇓
⇓
以降の歴代天皇
となります。
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それではアメノオシホミミノミコトの弟のアメノホヒノミコトの系統はと言うと・・・
アメノホヒノミコトにはタケヒラトリノミコト(建比良鳥命)という息子がいました。
始祖のアメノホヒノミコトが初代出雲国造、タケヒラトリノミコトを第2代出雲国造とされています。
それから代々数えられて、千家尊富翁が丁度第80代の出雲国造、そして現当主(当代の出雲国造)が第84代の千家尊祐(たかまさ)氏です。
話を先取りしてしまいましたが、出雲国造を初めて称するようになったのが、第12代の氏祖命(読み不詳)か、第17代の出雲宮向(読み不詳)のどちらかだと。
ハッキリしないのですが、どちらかの代で出雲国造の称号と、出雲姓を天皇より賜り、名乗るようになったと。
そして代々出雲大社の宮司職と、出雲の氏を受け継いで来た訳です。けれど歴代の誰から宮司職を務めるようになったのかがよく分りませんね。
歴代の中で『出雲国風土記(いずものくにふどき)』の編纂を命じられたのが、第26代出雲国造・出雲果安(いずものはたやす)です。
第43代・元明天皇(女帝)の御世の和銅6(713)年の事でした。
次代の第27代出雲国造・出雲廣島(いずものひろしま)が監修し、完成させたようです。
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そして時代も下って第54代出雲国造・出雲孝時(いずものりとき)の代で、エポックメイキングな事が起こりました。
孝時の子たちの代で、それまで一本の系統だった出雲国造家が大きく二本に分かれ、分れたまま現在に至るのです。
出雲孝時には何人かの息子がいました。中でも三郎清孝、五郎孝宗、六郎貞孝が国造継承の事で一悶着ありました。
ちなみに三人の名に皆「孝」の字がありますが、父と同様「たか」ではなく「のり」と読むのでしょうか??
父・孝時は六郎貞孝を寵愛していたので、次代の出雲国造職を貞孝に譲りたいと思ってましたが、孝時の母・覚日尼(かくじつに?)が提案しました。
「三郎(清孝)は病弱ではあるものの、兄であるから先ずは最年長の清孝に継がすべき。弟の貞孝にはその後でも良かろう。」
と。それで一旦は清孝が跡を継いで第55代出雲国造となりました。
しかし病弱なので祭祀を始めとした職務に堪えられず、すぐ下の弟の五郎孝宗が実際の実務を代行し、実質上の出雲国造の役目を果たしていました。
そうして康永2/興国3(1343)年に、出雲清孝は出雲国造職を貞孝ではなく、孝宗に譲りました。
こうして出雲孝宗は第56代出雲国造に就任しましたが、収まらないのは父の寵愛があり、次代の国造職を望まれた六郎貞孝です。
出雲貞孝は「自分こそが出雲国造を継ぐべきではないか!」と激怒しました。しかし兄の出雲孝宗は弟の主張を聞き入れず、突っ撥ねました。
貞孝は「ならば」とばかりに、兵力を率いて出雲大社に立て籠もりました。現国造たる孝宗も、社家や領民に号令を掛けて兵を集め、対抗しました。
何度か争いが繰り返され、その間は神事のいくつかが中断されました。
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そこで事態を重く見た出雲守護代・吉田厳覚(読み不詳)は両者の調停に出ました。
吉田厳覚が手打ちの条件として出した案が、「年間の神事、役職、所領、雑事等を全て等しく二分する」という事でした。
貞孝も「本家・分家という枠組や垣根をなくして、両家とも同格とし、あらゆる物事を五分五分とするのなら、納得してもいい。」と譲歩しました。
そうして康永3/興国4(1344)年に和睦が成立し、史上初めて出雲国造家は二つの系統が生まれ、現在にまで至ります。
氏姓も兄の出雲孝宗が千家氏を称する事とし、弟の出雲貞孝が北島(きたじま)氏を称する事となりました。
御互いに両系統の初代、千家孝宗・北島貞孝と名乗るようになり、以後子孫代々、千家家と北島家の両家で、職務その他を幕末維新の頃まで平等に分担し合って来ました。なので尊富翁は兄の千家孝宗の子孫です。
両家で分かち合ったのは称号もです。
北島家初代となった貞孝は、兄と同時に第56代出雲国造を名乗る事を許されました。56代目同士が同時に二人並び立つ事となったのです。
以降は両家の当主同士が代々、同時に第何代目出雲国造を名乗るようになり、現在に至ります。
現在の千家家当主は前出の通り、第84代出雲国造(千家家第29代当主)・千家尊祐氏ですが、北島家の現当主は第80代出雲国造(北島家第25代当主)・北島建孝(たけのり?たけたか?)氏です。
出雲国造家が二系統に分裂したこの年(1344年)は南北朝時代の真っ只中で、北朝は光明天皇、南朝は後村上天皇、そして室町幕府初代将軍・足利尊氏の治世でした。
あらゆる家が真っ二つに分かれて家督と財産相続を巡って相争う、そんな時代風潮を反映した事件でした。
まさしく「出雲国造家版南北朝」とでも言えそうな、千家・北島の両氏が誕生しました。
和解後は前代未聞の解決方法で長らく上手く治まったのは奇蹟的な事です。こういうのって大抵後々まで揉めるのが相場ですし。
南北朝合一以上に上手く行った例ではないでしょうか?
皇室の南北朝は北朝が最後に勝ったものの、南朝側は最後の最後まで納得する事なく、いつしか歴史の表舞台から姿を消しましたから。
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さて、第80代出雲国造(千家家第25代当主)・千家尊富翁ですが、明治6(1873)年に「出雲大社教(いずもおおやしろきょう)」という教派神道の宗教団体を創設しました。
それから少し後れて明治15(1882)年に、第76代出雲国造(北島家第21代当主)・北島脩孝(読み不詳です)翁が別個に、「出雲教(いずもきょう)」という神道系宗教団体を創設しました。どちらも現在まで続いています。
それまで代々両家で分担し合って来た出雲大社の職務も、出雲教創設以後は北島家は袂を分かち、出雲教の運営のみを世襲するのみとなりました。
なので以降は千家家だけで大社の宮司職を担うようになり、同時に出雲大社教の運営も千家家の血統で世襲しています。
以上の事から、元々は兄(孝宗)の系統だという事もあって、千家家こそ嫡流、出雲国造宗家と見做しても良いのではないでしょうか?
『一月一日』を作詞された尊富翁の代で出雲大社の宮司職は、出雲国造の称号はともかくとして、分裂してから530年ぶりに、再び一本の系統に戻った事になります。
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さて、尊富翁は自ら創設した出雲大社教の初代管長に就任した事で、存命中に弟の千家尊紀(たかのり)翁に譲り、尊紀翁は第81代出雲国造(千家家第26代当主)となりました。
尊富翁には息子が何人もいましたが、にも関わらず、何故だか直系ではなく傍系継承となりました。
その後は尊紀翁の長男・千家尊統(たかむね)翁が第82代出雲国造(千家家第27代当主)を受け継ぎました。
次は尊統翁の長男・千家尊祀(たかとし)翁が第83代出雲国造(千家家第28代当主)を受け継ぎました。
そして今年から15年前の平成14(2002)年に、尊祀翁の長男・千家尊祐氏が第84代出雲国造(千家家第29代・現当主)を受け継ぎました。
この尊祐氏の次代を継がれる予定なのが氏の長男であり、現在出雲大社の権宮司(ごんぐうじ)を務められる、千家国麿(くにまろ)氏です。
皆様は国麿氏の名前を憶えておられるのではないでしょうか?
3年前の平成26(2014)年に、皇族の高円宮典子(たかまどのみやのりこ)女王殿下と御成婚なされた事で、全国的なニュースになりましたから。
しかしこの時の(何もこの時に限った事じゃないですが)無教養で阿呆なメディアにはほとほと呆れました・・・・(ーー;)。
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当時は「この御二方の御成婚の背景を考えた事があるのか!?」と言いたかったです。
まずこれまで述べて来たように、皇室がアマテラスオオミカミとスサノオノミコトの長男アメノオシホミミノミコトの直系子孫なら、出雲国造家は同次男アメノホヒノミコトの直系子孫ですよ!
両者とも神話の時代にまで遡れる血統の、しかも始祖同士が同じ両親から生まれた兄弟だった間柄に行き着くのですから、そう言った歴史的・神話的背景を強調して報道すべきだったんじゃないのかと!
なのにどのメディアもまるでその辺の芸能タレントやセレブ同士が結婚したかの如き、実に軽薄で薄っぺらなゴシップ報道ばかりしていました。
背景に僅かでも言及したメディアは、少なくとも私の知る限りではゼロです。本当に「増す塵(マスゴミ)」です。
これって現在は世界中を見渡しても、日本だけにしか見られない出来事だと言うのに・・・・。
世界中には王室が数多くありますけど、神話に血統のルーツを持つ王室なんて、日本の皇室以外存在しませんよ。
ギリシア神話に置き換えて言えば、主神ゼウスの長男の血を引く直系子孫が、現代でもギリシア国王の玉座を世襲しているようなものであり、ゼウスの次男の血を引く直系子孫が、現代でもどこぞの格の高い神殿の祭祀を担う、大祭司長の職務を世襲しているようなものです。
そんなゼウスの長男と次男両方の男系の子孫同士が結婚したのと同じ事なのです。
こんな事が現実に起きる国が、世界中日本以外のどこの国にあると言うのでしょうか?
この話を知らない外国人が聞いたらきっと、「アメーージング!!」「ファンタスティック!!」「マーーヴェラス!!」とか叫んで驚きますって。
それ位凄い事なのに、マスゴミは我が国の価値を貶めたいからか、それとも単に無知なのか知りませんが、こういう事実を決して報道しません。
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嘗ては世界中至る所に存在した土着の神話、宗教、信仰なんかも、一神教(ほとんどがキリスト教)が猛威を振るったせいで、無惨にも破壊されて行きました。
現存するギリシア、エジプト、アステカを始めとした神話所縁のあらゆる文物は、今や生きた信仰の対象ではなく、死んでしまった後の単なる脱け殻、遺跡、骨董品に過ぎません。
そこが土着の神話と信仰が今でも生き続けている、我が国との大きな違いです。
それを象徴するのが、皇室や出雲国造家を始めとした神話以来の有形無形のあらゆる伝統です。
我々日本人は世界最高峰、最先端を行くハイテクノロジー社会の住人であると同時に、太古から続く神話の世界の住人でもある訳です。
何せ我々日本人、大和民族は全員が、神話に登場する八百万の神の何れかの神の子孫でもあるのですから。
こんな事言ったら信徒がキレそうですけど(^^;A)、アブラハムの宗教(ユダヤ・キリスト・イスラムの三大一神教の事)だと「最初の人間アダムは神によって土塊(つちくれ)から造られた」そうなので、一神教を信仰するのなら、我々の存在は元は単なる土塊に過ぎなかった、と認めてしまう事になるじゃないですか(笑)。
折角神様の子孫でいられるのに、何でわざわざ単なる土塊にグレードダウンさせなきゃならんのでしょうか?(大笑)
なのでそういう所を取っても、一神教は魅力を感じないので、信仰する気になれないのです(笑)。
さてさて、大分長くなりましたが最後に、これからも未来永劫、皇室も出雲国造家も、男系男子継承を堅持して頂きたいなと、深く思うものであります。
どちらも非男系継承や、男系でも女性が継承など一切認められません。そんな動きがあったら断固として阻止すべきです。
日本が日本であり続けるには、それは絶対に欠かせません。
完
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2017年01月09日
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さて皆様、今頃になり大分新年の挨拶が遅くなりましたが(^^;)、改めて新年明けましておめでとうございます。本年も良しなに御願い申し上げます。
当記事を本年の書き初めと致します。
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まずはこの動画👇を御覧下さい。
この歌のタイトルを知らない人でも、どこかで聴き覚えがあるのでは?TV番組の『新春かくし芸大会』のOP曲として使用されてますから。
この曲のタイトルは『一月一日』と言います。但し読みは「いちがつついたち」ではなく、「いちげついちじつ」ですが。明治に生まれた唱歌です。
実はこの他にも稲垣千穎(いながきちかい)作詞と小山作之助(こやまさくのすけ)作曲による、全く同名の異なる唱歌があるのですが、この動画のは千家尊富(せんげたかとみ)作詞と上眞行(うえさねみち)作曲によるもので、こちらの方がよく知られています。
以下に歌詞を文字起こしします(勿論、千家尊富・上眞行版の方です)。
一、
年の始めの 例(ためし)とて
終はり(おわり)なき世の めでたさを
松竹たてゝ(まつたけたてて) 門(かど)ごとに
祝ふ(いわう)今日こそ 楽しけれ
二、
初日(はつひ)の光 差し出(い)でて
四方(よも)に輝く 今朝の空
君が御影(みかげ)に 比へつゝ(たぐえつつ)
仰ぎ見るこそ 尊(とうと)けれ
一番目の歌詞は当初から全く変わっていませんが、二番目の歌詞だけは当初は若干異なっていました。オリジナルの二番目は以下の通りです。
二、
初日(はつひ)の光 明(あき)らけく
治まる御代(みよ)の 今朝の空
君が御影(みかげ)に 比へつゝ(たぐえつつ)
仰ぎ見るこそ 尊(とうと)けれ
上記の「明らけく 治まる御代の」の箇所が後年変更されたのです。
これは元号の「明治」に掛けたものでしたが、時代が明治から大正へと移り変わった事で、現在のものに変更されたと言うのです。
けど個人的には、いくら元号が変わったからって、歌詞も変える必要あったの?と思いますが(苦笑)。
オリジナル版も良いものだと思うし、何だか勿体ないなあ・・・・。
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さてさて、記事タイトルに出しておきながら何ですが・・・当記事で中心に据えたいトピックはこの歌そのものではなく、この歌の作詞者である千家尊富翁と、その系譜についてです。
この尊富翁は弘化2(1845)年に生まれ、大正7(1918)年に、満72歳で薨去されました。
生前の爵位は男爵。貴族院議員の他、埼玉県、静岡県、東京府(当時)の一府二県の知事を歴任し、第一次西園寺公望内閣において司法大臣を務められました。
わざわざ「薨去」という言い回しを使ったのは、この御方が我が国において特別な地位にあられたからです。
尊富翁は単なる一作詞家、一政治家ではなく、何と、第80代出雲国造なのです。
読みは「いずものくにみやつこ/いずものくにのみやっこ/いずもこくそう/いずもこくぞう」等です。
「国造」は歴史の授業で習った覚えがありませんか?古代日本の各地が豪族支配だった頃、各国でそれぞれ一番偉い人の事です。
だから「出雲国造」とは元は出雲国を治めていた支配者の称号でしたが、時代が下って、大国主命(おおくにぬしのみこと)を御祭神として祀った出雲大社の宮司の称号として代々世襲されるようになり、現在に至ります。
なので出雲大社の宮司職と出雲国造の称号は、代々同一の血統による世襲、しかも男系男子継承です。
この出雲国造家の始祖まで遡ると、何と日本神話にまで行き着きます。
これ以降は『古事記』の記述に拠ります。
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日本神話の最高神アマテラスオオミカミ(天照大御神)が、弟のスサノオノミコト(素戔嗚尊)との「うけひ(うけい)」によって、五柱の男神と三柱の女神の合わせて八柱の神を生みました。
ちなみに「うけひ(うけい)」とは正邪、吉凶等を判断する占術の一種で、漢字で表記すると「宇気比」「誓約」「祈」「誓」等と書きます。
スサノオノミコトが自分の治める高天原(たかまがはら)を奪いに来たのではないかと恐れた姉・アマテラスオオミカミは、武装して弟を待ち受けます。
スサノオノミコトは「自分にそんな邪心などない。」と弁解しますが、アマテラスオオミカミは疑いが晴れません。
そこでスサノオノミコトに邪心がない事を証明する為に「うけひ」を行う運びとなりました。
その内容は「御互いに子を生んで潔白を証明する」というものでした。
まずはスサノオノミコトが身に佩びていた十拳剣(とつかつるぎ)をアマテラスオオミカミに渡しました。
アマテラスオオミカミがその剣を三つに折って(さすが神様!物凄い腕力です・・笑)、「天の真名井(あめのまない)」という高天原にある神聖な泉の水で清めてから、十拳剣を噛み砕きました(さすが神様!物凄い咬筋力です・・笑)。
そうしてアマテラスオオミカミが息を吐き出すと、霧が生じました。
その霧の中からタキリビメノミコト(多紀理毘売命)、イチキシマヒメノミコト(市寸島比売命)、タキツヒメノミコト(多岐都比売命)の三女神が生まれました。
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今度はスサノオノミコトの番です。
スサノオノミコトは姉の左側の角髪(みずら)に巻いてあった、紐で連ねられた沢山の勾玉を受け取りました。
ちなみに「角髪」とは、古代人が両耳の位置でそれぞれ髪を束ねていた、まるで大きな耳みたいな形の、あの独特の髪型の事です。
これは男性の髪型でしたが、この時のアマテラスオオミカミは武装し、男装していたので、そのような髪型になっていたのです。
先にアマテラスオオミカミがしたのと同じ手順で、スサノオノミコトはこの勾玉を泉で清め、噛み砕き、息を吐き出して霧を生じさせました。
その霧の中から一柱の男神が生まれました。その男神がマサカツアカツカチハヤヒアメノオシホミミノミコト(正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命)です。
長い名前なので以後は「アメノオシホミミノミコト」と呼びます。
そして今度は姉の右側の角髪の珠を受け取り、同じく噛み砕き、息を吹き付けて霧を作りました。
その霧の中から生まれたのが、男神のアメノホヒノミコト(天之菩卑能命)です。
これ以降も同じ要領でスサノオノミコトは、アマテラスオオミカミが身に帯びている珠を次々譲り受けては噛み砕き、息を吐いて霧を作り、その霧の中から男神を生み出しました。
三番目は御鬘(みかずら)に着けていた珠からアマツヒコネノミコト(天津日子根命)を、四番目は左手に着けていた珠からイクツヒコネノミコト(活津日子根命)を、五番目は右手に着けていた珠からクマノクスビノミコト(熊野久須毘命)を、それぞれ生みました。
こうしてスサノオノミコトには高天原乗っ取りの邪心などない事が証明されました。
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以上の五柱の男神の中で最初に生まれたアメノオシホミミノミコトがアマテラスオオミカミとスサノオノミコトの間に生まれた長男とされ、以降は生まれた順番に、アメノホヒノミコトを次男、アマツヒコネノミコトを三男、イクツヒコネノミコトを四男、クマノクスビノミコトを五男とされています。
長男のアメノオシホミミノミコトが現在まで続く皇室の直系の始祖であり、その弟で次男のアメノホヒノミコトが千家尊富翁を始めとする出雲国造家の直系の始祖です。
すなわち皇室と出雲国造家は、そのルーツを辿って行くと、始祖同士が兄弟だったという関係にまで行き着きます。
だからこそ出雲国造家は神話の時代から続く、皇室の最も古い親戚の一族であり、恐らくは日本国内において、皇室に次いで貴い名門中の名門の血統なのです。
そして出雲国造家も皇室と同じく、男系男子継承を現在に至るまで続けて来ました。
尤も皇室の場合、過去に女性天皇が何人かいらっしゃいましたが、出雲国造家は初代のアメノホヒノミコト以来、女性の当主(出雲国造)は歴代中唯の一人もおられませんが。
その出雲国造の由来ですが、いわゆる古事記の最大のハイライトシーンの一つでもある「国譲り」の故事が最初の起こりとなります。
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スサノオノミコトの六世代後の子孫であるオオクニヌシノカミ(大国主神)が、様々な試練を経て、「豊葦原の千秋長五百秋の水穂国(とよあしはらのちあきながいほあきのみづほのくに)」という大国を支配する主となったのですが(だからこそ「大国主」という御名なのです)、アマテラスオオミカミが、
「豊葦原の千秋長五百秋の水穂国は我が子(長男の)アメノオシホミミノミコトの知らす(統治する)国なり。」
と勅命を下しました。
その勅命を受けてアメノオシホミミノミコトは一度高天原から地上へ降りようとしました。
しかし降りる途中で、地上(豊葦原の千秋長五百秋の水穂国)が酷く騒がしく、世情が乱れているのを見て、事の報告と相談の為に再び高天原へ戻りました。
そこで最高神アマテラスオオミカミ以下、八百万の神々が集まって、
「地上には暴威を振るう荒くれた国津神(くにつかみ)が大勢いる。どの神を派遣して乱れた地上を平定させようか?」
という方策を協議しました。
そこで話し合った結果、アマテラスオオミカミの次男アメノホヒノミコトを派遣する事が決定されました。
そうしてアメノホヒノミコトは地上へ降り立ち、支配者であるオオクニヌシノカミの下まで外交交渉に赴いたのですが、どういう訳かアメノホヒノミコトは、オオクニヌシノカミに媚び諂って、任務を真面目に果たそうとしませんでした(^^;A)。
三年経っても復命せず、当然事態は一向に収まらなかったので、今度はアメノワカヒコ(天若日子)という神を派遣する事としました。
しかしこれも結局は失敗で、先のアメノホヒノミコトと同様、八年経っても復命しませんでした。
その間にアメノホヒノミコトは何と、オオクニヌシノカミの婿、つまりオオクニヌシノカミの娘シタテルヒメ(下照比売)と結婚して、義理の親子となっていたのです(^^;A)。
しかもアメノワカヒコは野心が芽生えて、大国であった豊葦原の水穂国を自分のものにしようと、私利私欲に走ってしまいます。
そんなこんなで後にアメノワカヒコは、神罰を受けて死んでしまいます。
豊葦原平定は二度も不調に終わり、今度こそ「三度目の正直」とばかりに派遣されたのが、タケミカヅチノオノカミ(建御雷之男神)です。
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地上まで降り立ったタケミカヅチノオノカミは、自身の剣を抜いて柄を下に、刃を上にして真っ直ぐに立て、刃先の上に胡坐を掻いて坐ります(危ない事するなあ〜・・・・^^;)。
その(串刺しになりそうな^^;)姿勢のままオオクニヌシノカミに、現在支配している葦原の中つ国を明け渡すか、それとも拒否するかの、いわゆる「国譲り」の意志があるかないかを迫ります。
その時のタケミカヅチノオノカミの口上こそが、かなり重要なキーワードを含んでいます。『古事記』の原文だと以下の通り。
『天照大御神・高木神(たかぎのかみ)の命(みこと)以(も)ちて、問ひ(とい)に使はせり(つかわせり)。
汝(いまし)のうしはける葦原中國(あしはらのなかつくに)は、我が御子(みこ)の知らす國と言依(ことよ)さしたまひき(たまいき)。
かれ、汝の心奈何(いか)に。』
現代語訳すると・・・
≪我はアマテラスオオミカミとタカギノカミ(高木神)の勅命によって、そなた(オオクニヌシノカミの事)の意向を問う為に派遣された者である。
そなたのウシハク(強制力を伴った具体的な力で支配する)葦原の中つ国は、我等の御子(アメノオシホミミノミコト)のシラス(高度な精神性で統治する)国として申し付けられたのだ。
さあ、そなたの返答は如何に?≫
とまあ、こんな感じになるでしょうか・・・。
この口上の中で、「シラス(知らす)」と「ウシハク(うしはける)」が最重要なキーワードです。まあこれはここでのテーマではないのでこの辺りで(^^;)。
その結果、オオクニヌシノカミは息子たちと相談した末、タケミナカタノカミ(建御名方神)がタケミカヅチノオノカミとの格闘戦(相撲?)に敗れた事もあって、最終的に「国譲り」に全員が同意する運びとなりました。
国を高天原陣営に引き渡すに際して、オオクニヌシノカミは次のような要望を伝えます。要約すると、
「自分の為に高天原の天津神の御子の宮殿のような立派な神殿を建ててくれるのなら、自分は黄泉の国(死後の世界)に隠退しよう。」
それは聞き入れられ、オオクニヌシノカミは満足して(多分^^;)、黄泉の国へと隠れました。
こうしてオオクニヌシノカミの為に建てられた神殿こそが、言うまでもなく出雲大社であり、現在にまで至る訳です。
だからこそ出雲大社の御祭神はオオクニヌシノカミなのです。
後編へ続く
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