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さて、久々に自作漢詩が出来上がりました。出来具合はまあ・・・(^^;)。
漢詩は創るのが和歌以上にややこしくて困難なので、やっとこさ三作目です。
前記事でも御伝えしましたように、大雪の降り頻る夜道を歩きながら帰宅した時の事を題材に、本記事では漢詩で表現してみました。
形式は五言律詩(仄起式・平韻)です。一作目が七言絶句(平起式・平韻)、二作目が五言絶句(仄起式・仄韻)と、どちらも絶句(全四句分)でしたが、今回初めて律詩(全八句分)に挑戦してみました。各句毎に五字ずつの全四十字の形式の詩です。
それでは以下の通りに白文の画像を掲載します。 次に訓読や平仄配列、各字ごとの韻目を表示した画像を掲載します。 さて、前二作は五言(各句五字ずつ)と七言(各句七字ずつ)の違いがあれ、どちらも絶句(全四句)でした。
今作のは律詩なので、絶句とは些か勝手が違います。
何しろ偶数句(第二・四・六・八句目)全ての末尾で韻を踏まねばなりません。
しかも全部同じ韻でないとアウトですから、そこは絶句よりも厳しいです。
今作は五言だったから偶数句だけでしたけど、もし七言律詩だったら偶数句全ての末尾に加えて、最初の第一句末尾でも同韻を踏まねばなりません。
四ヵ所五ヵ所も同じ韻の字を置かなきゃならないんですから、字の選定で頭痛めますよ・・・・
また律詩には絶句にはない「聯(れん)」という概念があります。
聯とは律詩における、二句毎の纏まりの単位です。律詩は八句あるので、全部で四つの聯がある訳です。
それぞれ第一・二句を「首聯(しゅれん)」又は「起聯(きれん)」、第三・四句を「頷聯(がんれん)」又は「前聯(ぜんれん)」、第五・六句を「頸聯(けいれん)」又は「後聯(こうれん)」、第七・八句を「尾聯(びれん)」又は「結聯(けつれん)」と呼びます。
この場合の「首」とは「くび」、つまり「ネック」の意味ではなくて「こうべ」、つまり「頭全体」「ヘッド」の意味です。
「頷」は普段は「頷く(うなずく)」と使われますが、「顎(あご)」という意味もあります。
「頸」は「くび」とも読み、これが「ネック」の意味です。
「尾」は言うまでもなく「シッポ」とか「終わりの部分」という意味です。
すなわちこれらの聯の呼称は、人体の部位に見立てている訳です。
律詩の厄介な点は平仄の配置や、押韻や、その他あらゆる禁止事項は絶句とほぼ同じなのですが、絶句にはない厄介なルールが、頷聯(前聯)と頸聯(後聯)がそれぞれ対句となっている事です。
すなわち第三句目と第四句目、第五句目と第六句目をそれぞれ、対句として対照的な構成にしなければなりません。
しかも平仄の配列と押韻も同時に守らねばならないので、何度も何度も没にしなければなりませんでした(ーー|||)。
さてそれではいよいよ、ここから詩文を各句毎に上段を原文(緑色の大文字)、中段を読み下し文(黄土色の文字)、下段を現代語訳(濃いピンク色の文字)の順に書き記して行きます。
それと並行して、各句毎の解説もして行きます。
詩題:
臘 月 夜 雪 中 独 行
臘月(ろうげつ)の夜、雪中(せっちゅう)を独り行く
十二月(陰暦)のある夜、雪の降る中を独り歩いて行く
「臘月」とは十二月の異称の一つです。
前記事でも言いましたように、この詩は昨年の平成30(2018)年1月22日(月)の晩の情景です。
「1月なのに何で臘月(12月)なんだ?」と思われるかも知れませんが、平成30(2018)年1月22日は旧暦(陰暦)で言えば、2017年12月6日に当たります。つまり旧暦を基準にしてみました。
そして十二月の異称には、臘月の他には「丑月(ちゅうげつ)」「季冬(きとう)」「晩冬(ばんとう)」「苦寒(くかん)」「大呂(たいりょ)」「玄枵(げんきょう)」等があります。
首聯(起聯)
第一句:
凛 冽 玄 冬 晩
凛冽(りんれつ)たる玄冬(げんとう)の晩
寒さの厳しい冬のある夜
第二句:
連 青 女 向 家
青女(せいじょ)を連れ、家へ向かふ(むかう)
青女(雪)を連れながら、我が家へと向かい歩く。
「凛冽」は「凛烈」とも。「玄冬」とは冬の異称の一つです。
「玄」は「黒」という意味もあります。これは五行説で五種類の原色(青・赤・黄・白・黒)の内、黒が冬に対応するからです。
それと対比して他の季節は、「青春」「朱夏」「白秋」とも言います。
「青女」とは雪の異称の一つです。元は支那の神話や伝説上の女神です。霜や雪を司る女神である事から、雪そのものをも意味します。
鬱陶しい雪を浴びながら夜道を帰ってる訳ですが、そう思うだけでは味気なく、些か癪なので、筆者も男ですから、女神を連れ合いにして一緒に歩いている(つまり女神と帰り道のデートをしている)という意味も含ませました(笑)。
頷聯(前聯)
第三句:
上 天 成 漆 黒
上天(じょうてん)は漆黒(しっこく)を成し
夜空は漆黒の色に染まり
第四句:
街 路 咲 銀 花
街路は銀花(ぎんか)が咲く
街並みは銀花(雪)が真っ白く咲き誇っている。
さてと、いよいよこの頷聯(第三・四句目)と次の頸聯(第五・六句目)とで、対句を創らねばなりません。
「上天」と「街路」、「成」と「咲」、「漆黒」と「銀花」がそれぞれ対応する組み合わせです。
四句目の「銀花」とはこれも「青女」と同様、雪の異称の一つです。他には「銀華(ぎんか)」「素雪(そせつ)」とも。
要は雪の事ですが、漢詩には「同字重出の禁」というルールがありまして、一つの詩の中で同じ字を使うのが禁止されています(畳語(重語)とかは別ですが)。
なので素直にどちらも「雪」と言いたかったのですが、平仄の配置と字数の関係の他に、一回しか使えない以上、別の呼び方を用いるしかないのです。
そこで二句目では「青女」、四句目では「銀花」と表現しました。
そしてこの頷聯(前聯)では、「黒と白の色の対比」を意図しました。
空は夜だから真っ黒(と言っても雪が降ってたので実際は白みのボンヤリ掛かった灰色でしたが)で、地上はそれとは対照的に真っ白だったという、光景の色彩的なコントラストを表現してみたつもりです。
恰も真っ黒な墨から真っ白い綿が垂れ落ちて来たのを連想させる、そんな印象を伝えたかったのです。
頸聯(後聯)
第五句:
昔 有 童 愉 積
昔、童(わらべ)有り、積もるを愉(たの)しむ。
その昔、雪の降り積もって行く様を、わくわく面白がってた子供がいた。
第六句:
今 更 壮 悩 遮
今、壮(そう)に更はる(かわる)、遮(さえぎ)らるるを悩む。
そんな子供も今や、雪で行動を妨げられる事を思い悩むような大人へと変わってしまった。
ここも対句となっていまして、「昔」と「今」、「有」と「更」、「童」と「壮」、「愉」と「悩」、「積」と「遮」がそれぞれの組み合わせです。
ただ対照を成させるだけでなく、平仄と押韻も考えながら創るのに苦労しました。
尾聯(結聯)
第七句:
幼 情 消 已 歎
幼き情(こころ)、已(すで)に消ゆるを歎(なげ)き
大人となり、無邪気で純粋だった頃の童心を、既に失ってしまった事を嘆き
第八句:
恨 歩 草 廬 遐
恨めしく歩く、遐(とお)く草廬(そうろ)へ
雪をただ恨めしく思いながら、遠く我が家を目指して歩いて行く。
第八句の末尾(押韻部分)の「遐(か)」は普段見慣れない字だと思いますが、「はるか(遥か)」「とおい(遠い)」という意味があります。
他の押韻の字「家」「花」「遮」は全て下平声の六麻の韻目の中から選んだものですので、運良く六麻の韻目の中から、この字を見付ける事が出来たので採用しました。
「遠」の字だと下平声の六麻ではなく上声の十三阮、つまり違った韻目の字を使う事となるのでアウトとなりますから。
八句目の「草廬」とは草庵、つまり草葺きの粗末な家の事ですが、自分の住居を遜って言う呼び方でもあります。
言うまでもなく筆者の自宅の事ですが、前出の「同字重出の禁」の制約から、既に二句目の末尾(押韻)部分で「家」の字を使っていますので使えません。なので「草廬」と表現しました。
そしてこれまた言うまでもない事ですが、筆者の家は文字通りの「草廬(草葺きの粗末な家)」ではありません(笑)。
以上です。律詩は初めての挑戦でしたが、やはり漢詩は一首創り上げるのにつくづく苦労します。 |
雑記・徒然
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まだ5月下旬だと言うのに、昨年と同様、もう夏のような暑さを感じられるようになりました。
そんな今時分に、何とも季節外れな題材ですが、昨年の平成30(2018)年1月22日(月)の事、この日は数年に一度あるかないかの大雪が降り、車が動かせない程に深く積もりました。
この日は職場へ朝出勤した時は車で通勤しましたが、帰りは大雪のせいで車が動かせなくなってしまいました。
なのでやむなく車を職場に置いたまま、職場から歩きで帰宅する羽目になりましたよ(^^;)。
そんな経緯を思い浮かべながら、詠んだ短歌は次の二首です。
一首目:
うくおもふ ゆきおつよみち あゆむなか いとけなきひぞ おもひいださる
≪憂く思ふ(おもう) 雪落つ夜道 歩む中 幼き日ぞ 思ひ(おもい)出(いだ)さる≫
⁅雪の降り頻る夜道を、煩わしく思いながら(職場から自宅まで)歩いて帰っている最中、(雪が降ると無邪気に楽しい気分になっていた)幼い時分の事が思い出される。⁆
二首目:
しろたへの ゆきよろこびき かのわらべ いまはかはりて うらめしきかな
≪白妙(しろたえ)の 雪喜びき 彼の童 今は変はりて(かわりて) 恨めしき哉≫
⁅嘗ては雪を喜んでいたあの子供(少年時代の筆者自身)も、大人となった今ではすっかり心持ちも変わってしまい、(今は只々雪なんか降って欲しくないのにと)恨めしく思うばかりだなあ。⁆
【註:「しろたへの(白妙の)」は次の「雪」に懸かる枕詞なので、特に意味はなし。】
子供の頃は滅多に降らない雪が降れば、興奮したり雪で遊んだりしたものなのですが・・・・・
けれどすっかり大人になった今となっては、車が動かせなくなるわ、家の前の雪掻きをしなきゃならないわで、ウンザリさせられるばかりですよ(^^;)。
子供の時分の雪に喜んでいた純粋さや無邪気さがすっかり失われて、ただただ鬱陶しいとしか思えなくなった心境を自嘲して詠んだ歌です。
そして本記事の次の記事は自作漢詩です。これと同じ題材を今度は漢詩で表現してみました。
本当に漢詩は作詩が厄介で手古摺りますが(^^;)、苦労しながらもどうにか創ってみました。
それでは次回記事もどうぞ御覧になってみて下さい。
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我が国の戦国時代の話に熱が入ると、巷間ではよく、
「武田信玄が後十年は長生きしていたら、天下を獲っていただろう、織田信長に武田家が滅ぼされる事はなかっただろう」
と言われてますよね。けれどそういった信玄ファン、武田贔屓の人たちには気の毒ですが、
「残念ながらそれはなかった」
としか言い様がありません。
それは敗者への同情に基くただの判官贔屓でしょう。つまりただの感情論に過ぎない、と思います。
信長と比べると武田信玄・上杉謙信たちはローカルレベルでの英雄であって、天下を獲れたりとか、新時代を築けるようなタマではなかった、という事です。
上で言った「感情論、判官贔屓に過ぎない」の理由は、次の要因です。
◆信玄・謙信は経済政策・商業政策の感覚が古い。
◆信玄・謙信の軍は信長の軍と違って、常備軍(常設軍)ではない。
◆信玄・謙信は旧時代の権威(室町幕府・宗教勢力)や利権とくっ付き過ぎて、新時代に対する展望が欠けていた。
以上です。つまり信玄・謙信は、
★一地方だけでなく、天下の民衆の支持を得られる政策を取らなかった事
★旧来の手垢に塗れた権威に頼り過ぎて、新時代に相応しい在り方を意識していなかった事
★そして天下を獲る為に必要な軍制改革を怠った事
これらが信長との決定的な差と言えるでしょうか。
常備軍に関するキーワードは「シフトチェンジ」でしょうか。すなわち・・・・
❖重農主義経済から重商主義経済へのシフトチェンジ
❖封建軍(農民兵主体の軍)から常備軍(常時雇いの傭兵軍)へのシフトチェンジ
❖兼業(パートタイム労働)から専業(フルタイム労働)へのシフトチェンジ
❖封建体制から中央集権体制へのシフトチェンジ
これらが天下統一を成功させる為の重要な鍵と言えるでしょうか。
これは日本に限らず、中世ヨーロッパや東周時代(春秋戦国時代)の支那でも同様です。
以下のように自問自答してみて辿って行くと、その根本原因に突き当たります。
Q.何故天下がいつまで経っても乱れているのか?
A.天下を一本に纏められる程の強い権力を、誰も持ってないから。
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Q.何故それだけの強力な権力者がいないのか?
A.軍隊が弱いから。天下を鎮められるだけの強力な武力がないから。
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Q.何故軍隊がそんな弱いのか?
A.どの大名の軍隊も、軍事活動する時期が極めて限られているから。
だから長期間に亘って、集中して活動が出来ないから。
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Q.何故軍事活動する時期がそんなに限られているのか?
A.どこの軍隊も兵士の圧倒的大多数が、元は領内の農民ばかりだから。
農民たちに戦ばかりさせて農作業をさせないでいると、領内の田畑が荒れて、領内が飢餓状態に陥るから。そうなったら戦どころじゃなくなる。
だから否応なしに軍事活動が可能な時期は、農閑期に限定されるので、いつまでも戦わせる訳にも行かない。
ここらで一旦は区切ります。
つまり信玄・謙信たちの兵は、こういう農民兵主体の封建軍だった為に、長期戦が不可能だったのです。
だから五回にも亘って繰り広げられた「川中島の戦い」なんて、まさにそれの表れな訳ですよ。
そんなに長引かせておきながら、とうとうハッキリとした決着が付けられなかったのは、どちらも季節に左右される農民たちが兵士だったからです。
特に謙信の本拠である越後国なんて豪雪地帯ですから、冬は雪のせいで進軍出来なくなりますし。
さて、ここで新たな切り口から自問自答を試みてみます。
Q.ではどうすれば季節に関係なく、軍を動かせられるようになるのか?
A.軍の主体を農民兵中心から、専業兵士中心に切り替える。
農民は農業に専門的に従事させ、戦の事は専業の兵士たちに任せる(すなわち兵農分離の実践)。
そうすれば季節に関係なく、軍を動かしたいと思った時に、いつでも動かせるし、兵士たちは戦の事以外に何も煩わされる事もないので、いつまでも従軍させる事が出来る(すなわち常備軍の創設)。
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Q.そんな利点があるのなら、何故誰もそれ(兵農分離、常備軍の創設)をやらなかったのか?
A.少数の親衛隊規模ならともかく、軍団規模の将兵たちを常時雇い続けるとなると、農民兵主体の封建軍よりもずっと莫大な経費が掛かる。
どの大名もそこまでの財力がないから。
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Q.何故誰もそれだけの財力がないのか?
A.経済を農業経済に頼っているから。
各領内の歳入が租税一本とかでは、年内に収入出来る時期が決まっているし、気候によってその年の豊作・不作が左右される。
つまり農業経済(重農主義)では根本的に安定せず、たとえ豊作だったとしても、減税政策を施したとしても、さほど豊かな収入が見込めない。
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Q.ではどうすれば農業経済よりも安定してる上に、農業経済よりも豊かな財力を築けるか?
A.商業や商人階層を保護し、領内を自由経済政策で活性化させる。
ギルドみたいな存在の力を制限し、自由経済活動の妨害をさせない。
商業で得た売上の税を軽くし、経済全体を潤し、領内を豊かにする(すなわち楽市楽座の実践)。
商業による歳入(売上から徴収した税)は、農業と違って季節に関係なく、年間を通して常時得られる。
それにより、農業経済とは比較にならない程の莫大な富を得られて、常備軍を創れるようになる。
以上です。つまり「重商主義」「自由経済」こそが常備軍創設の為の鍵です。
信長は一代であそこまで織田家を勢力拡大させた位ですから、戦を徒に長期化させる事がなく、決着を付けるのが本当に早かったですよね。
それもこのように築いた常備軍という下地があればこそ可能な話です。
川中島での信玄・謙信とは正しく対照的です。
やはり天下を獲るには常備軍でないとダメだという事です。
ここからは農民兵主体のアマチュア軍隊である封建軍と比べて、職業兵士たちから成るプロフェッショナルの常備軍の何が優れているのか、思い付く限りそれらの要因を列挙してみます。
①収入源が租税(農業)とかではなく金銭(商業)なので、基盤となる財力が封建軍とは比較にならない位に豊富にある。
②財力が豊富にあるので、軍は良質の武器や装備を潤沢に揃えられ、優秀な人材を多く召し抱えられる。
③将兵たちは他の事を気にせず、軍事だけを専門的に行える。
それに伴い、将兵たちの専門的な軍事能力が、封建軍とは比較にならない程に精度が上がる。
④軍事に専念出来るので、軍全体が季節に関係なく、補給の続く限りは、時期も無期限に活動出来る。
その結果、他事(農業とか)に煩わされる事もなく、軍事作戦に全力集中が出来るので、比較的早く決着が付けられるようになる。
⑤財力が豊富にあるので、末端の兵卒に至るまできちんと報酬が支給されるので、攻め込んだ先での略奪に頼らずに済む。
もし将兵が軍紀違反を犯せば、遠慮なく処罰する事が出来る(武田・上杉の兵は、末端の兵士は現地での略奪で賄っていたのに比し、信長は「一銭斬り」とかの逸話でも知られるように、乱暴狼藉を働いた兵士を容赦なく厳罰に処している)。
この結果、現地住民からの恨みを買わずに済むし、支持を得られ易くなる。それにより占領先での統治が比較的円滑に進む。
⑥常備軍なので、平時でも軍を解散させたりしない。
すなわち有事の時にいちいち招集する手間が省け、常時いつでも動かせる態勢となっている(封建軍は戦がある時だけ軍を招集し、戦が終わったら解散させる)。
⑦戦がない時は野盗化しがちな兵士を、野放しにする事なく食わせて行けるので、治安の悪化を阻止出来る。
軍で雇い続けられる限りは、軍律の統制下に置く事が出来る。
⑧常備軍は完全に君主に直結し、指揮命令系統が君主の一元管理下に置かれているので、雇用主である君主以外の命令は聞かない。
よって謀反を企む臣下に兵権を握られる事がなく、逆に臣下たちを抑え、強力な統制を布く事が出来る(「本能寺の変」で明智光秀が率いた軍団は、あくまで光秀の私兵団であり、信長直属の軍団ではないのでこの限りではない)。
以上列挙した要素を持つ常備軍があれば、封建軍を率いてる他の諸侯が太刀打ち出来なくなる程の、圧倒的な軍事力の差が生じるので、常勝無敗も夢ではなくなります。
これらは中世から近世へ移行しようとする時期のヨーロッパでも概ね事情は同じでした。
ヨーロッパの俗に「絶対王政」と呼ばれる状態は、この常備軍が土台になってます。
国王などの一国の君主たちは、当初から絶対的な権力を握ってた訳ではありません。当初は他の封建諸侯と同じでした。
それら封建諸侯たちの中の第一人者、首席、取り纏め役、諸侯会議の議長といった程度の弱い存在でした。
国王は王冠や玉座という権威があるので、一応表面的には諸侯たちによって君主として立てられているものの、実力(軍事力、経済力)は、臣下の諸侯たちとは五十歩百歩で大差なかったのです。
何せ国王が直接統治する領内も、臣下の諸侯たちが統治する領内も、その経済システムが同じ重農主義であり、歳入を同じく租税に頼っていました。
そして軍の兵士も騎士以上に、領内の領民たちが大多数だったというのも同じ事情でした。
だから国王と諸侯の違いと言えば、「王冠を被っているかいないか」「玉座に坐っているかいないか」の違いだけでした。
国王はそんな封建諸侯連合(それもかなり緩やかな)の盟主という存在に過ぎず、中には国王を上回る実力を持った諸侯もいたりしました。
だから中世時代までの国王たちは、御輿に担がれて、その権威を利用されがちな、意外と弱い存在だったのです。
臣下の諸侯たちとの間に圧倒的な実力差がなかったので、いくら国王とは言っても、諸侯たちに対し頭ごなしに命令など出来ませんでした。
それが上記で列挙した過程を経て、諸侯たちの実力に特に変化はなくとも、国王の実力が大幅に向上した事で、諸侯の実力が相対的に弱体化して行きました。
それを元に国王がその強大な軍事力を背景に、行政・軍事・司法の権限を諸侯たちから徐々に取り上げて行き、それらの権限や命令系統を、国王を頂点とした一元管理として行きました。
そうする事で、諸侯が下剋上やクーデター、その他好き勝手な行動を起こしたくとも起こせなくなってしまい、諸侯は国王に対して否応なしに服従せざるを得なくなって行きました。
つまりは権力の主体(突き詰めれば軍事力を持った主体)が複数並び立っていて、権力の出所がいくつにも分散しているようでは、国力を削がれてばかりなのでダメだという事ですね。
だから権力の主体を分かり易く一本化し、統一国家を作らねばならないのです。
以上が粗雑で簡略化した説明ですが、これがヨーロッパ諸国の絶対主義、絶対王政とか呼ばれる、封建体制を脱して中央集権体制が成立する、大まかな過程でしょうか。
フランスなんかは特に、宿敵イギリスと英仏百年戦争を戦い抜いた事で、絶対王政を築きました。
イギリスは逸早く常備軍を創設していたので、当初常備軍を持たなかったフランスは、イギリスに連戦連敗でした。
しかしどうにか国を奪われずに持ち堪えられました。
長く戦乱が続いた事でフランスは、各地方の封建領主たちが、それぞれ独立した状態で好き勝手な事ばかりしていてはダメだという事、国全体が国王を中心として、一本に纏まらなくては効率が悪く、国全体も発展せず、戦争にも勝てないという事を学びました。
それで最終的にはどちらの国も全体的に、階級の上下を超えた一体感、同じイギリス人同士、同じフランス人同士という最初の国民意識、同胞意識、連帯感等が生じて、後世の近代国民国家の原型が出来上がりました。
英仏百年戦争終結後に、両国ともそれぞれ国王を中心とした中央集権化が大きく進み、フランスにも常備軍が正式に創設されました。
以降はそれがキッカケで、イギリスとフランスは一般的には「絶対王政」とも呼ばれる時代を到来させ、他よりも早くから近代的な国民国家の最初の基礎を築けました。
英仏百年戦争を境に、英仏両国は他のヨーロッパ諸国との国力に差を付けて、一躍ヨーロッパの強大な軍事大国(列強国)へと成長発展しました。
英仏両国は後世の帝国主義時代でも突出した存在として、その存在感を見せ付けましたが、その基礎工事は英仏百年戦争を戦い抜き、いち早く封建体制から脱皮し(100%ではありませんが)、中央集権体制を築く事に成功した、というのが大きな要因であります。
以上語った事はヨーロッパに限らず、中央集権体制を築いた国なら、概ね共通しそうな事柄です。
ただ成立過程が全ての国に100%ピッタリ当て嵌まるかというと、やはり国ごとに若干の差異があります。
だとしても細かい違いを無視して大雑把に要約すれば、大体こんな感じで合っていると思います。
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前回人生初の漢詩(七言絶句)を披露して以来、8ヵ月ぶりに第二作目が出来上がりました。(^^)b
前回とは形式が違って、今回のは五言絶句です。
字数こそ前作よりも八字分少ないですが、だからと言って、前作よりも楽に作詩出来た訳でもなく、頭を痛めた事に何ら変わりありませんでした。
何せ一文字ごとに属する平仄・韻目を調べ上げなければならなかったのですから・・・。
その平仄を始めとして、「偶数句(承句と結句)の押韻」「同字禁止」「冒韻(ぼういん)禁止」「下三連(かさんれん)禁止」「孤平(こひょう)禁止」「反法(はんぽう)と粘法(ねんぽう)」等の制約を全てクリアして、ようやく出来上がったのですから、随分悩みましたよ。
平仄の配列を考えながら各位置に文字を当て嵌めていかねばならないので、使いたい字を好きな位置に挿入する訳には行かないのが漢詩の厄介な所です。
そしてやっと出来上がったにしても、初心者ですから大した出来栄えではないのも言うまでもなく・・・・(^^;)。
前出の制約を踏まえる事が精一杯でしたよ(ーー;)。
それでは以下の通りに白文の画像を御覧下さい。
見れば分かる通り、五言絶句、すなわち一句につき五文字毎に、全部で四句。5×4の全20文字の形式の詩です。
前回のも絶句でしたが、各句七文字ずつの全28文字でした。
さて続いては、訓読と平仄配列と韻目を記した画像をどうぞ。
画像内の各字それぞれの右側には、白黒二色の丸が付いていますが、白丸(○)の付いた字が平字、黒丸(●)の付いた字が仄字です。
起句(第一句)の二字目が平字か、それとも仄字かで、「平起式」と「仄起式」とに分かれます。
それによって全体の平仄の配列がガラッと変わります。
この詩は起句二字目の「富」が●(仄字)なので、形式は五言絶句仄起式となりますね。 それでは以下のように、詩文を書き起こしてみます。
赤色の文字が白文(原文)、緑色の文字が訓読文(読み下し文)、オレンジ色の文字が現代語訳です。
詩題:
過 無 恙(かぶよう)
無恙(ぶよう)に過(す)ぐ
何事もなく日々を無事に過ごす
起句:
無 富 在 平 成
富(とみ)無(な)くも平成(へいせい)に在(あ)り
(自分は)金や財産など特にないけれど、(それでも幸いにも)平和な世に生きている。
承句:
有 安 過 日 鬻
安(やす)きを有(たも)ち、日(ひ)を鬻ひ(ひさい)で過(す)ぐ
安穏とした生活を維持しながら、その日その日を仕事をしながら(平凡に)過ごしている。
転句:
溢 歓 娯 酒 茶
歓(よろこ)び溢(あふ)る、酒茶(しゅちゃ)を娯(たの)しむれば
好きな酒や茶を味わい、楽しんでいる内に、喜ばしい気分に満ちて来る。
結句:
遠 禍 惟 求 福
禍(わざわい)を遠(とお)ざけ、惟(た)だ福(ふく)を求(もと)むるのみ
(普段思う事と言えば)災難を遠ざけて、ただ幸福を求めるだけである。
以上です。
詩の中身は特にドラマ性に富んでる訳でもない、気宇壮大な世界観もない、私の至って平凡な日常を詠んだだけの代物ですが、こんな出来具合でも本当に時間を掛けて苦労したのですよ。
平仄や韻の関係で、使いたい字を使えず、やむを得ず却下した物が多いです。
それで仕方なく全く別の字に差し替え、どうにか意味の通る文になるよう整える作業を、それこそ何度も何度も繰り返しました。
さて、詩についての解説ですが・・・・ま、大した内容でもないので、本来なら不要かも知れませんが(^^;)、それでも一応はね・・・・。
詩題:
「無恙」とは、「恙無(つつがな)く」「恙無し」という言葉もあるように、「何事もなく無事に」という意味です。
起句:
下二字の「平成」とは、元来は「内平外成(内平らかに外成る)」または「地平天成(地平らかに天成る)」という古典にある言葉が由来です。
要は「国の内外、そして天地共に平和となっている」という意味になります。
そしてこれが現在の元号「平成」の由来でもあります。
いわば国家的規模の状態を表現する言葉なのに、たかが個人的境遇を表すのには大袈裟な表現かとも思えますが・・・・(^^;)。
まあ「自分は現在、平穏な世に(少なくとも自分の周囲の空間の範囲では)生きている」という意味の他に、「自分は今、平成時代に生きている」という意味とも掛けた訳です。
つまり和歌で言う所の「掛詞(かけことば)」の手法に相当しますか。いわばダジャレですね。
当初はこれを起句(第一句)ではなく、承句(第二句)として使おうとしたんですけどね・・・・。
けれど承句に持って来ると、最後の「成」が韻字(押韻の為の字)になってしまいます。
すると結句(最後の第四句)の最後の字も、「成」と同じ音韻を持つ字を使わねばならなくなりますが、それだけでなく、すぐ上の「平」の字が使えなくなってしまいます。
と言いますのも、「平」も「成」も同じく、三種類ある仄声の内の「入声(にゅうせい)」、その「入声」の内の「一屋」という韻目(同じ音韻を持つ漢字のグループ)に分類されるからです。
漢詩には本稿の最初の方でも様々な制約を列挙しましたが、その中に「冒韻禁止」のルールがあります。
「冒韻」とはその詩で押韻として使われた字と同じ音韻を持つ(同じ韻目に属する)字を、押韻以外の位置で使う事です。
韻字と同韻の字は、押韻以外の位置では使ってはいけないという、面倒臭い決まり事がありまして・・・(ーー;A)。
五言絶句においては偶数句、すなわち承句と結句の句末の字の位置が押韻となります。
「平成」の語だけはどうしても使いたかったので、「成」が韻にならないで済むよう奇数句、すなわち起句か転句(第三句)のどちらかに移すしかなかったのです。
このように漢詩の作詩とは、和歌以上にややこしくて大変なのです・・・・(ーー;A)。
他にややこしいのは、同じ字でも、平仄両面に属する字がたくさんあるという事です。
同じ字でもどの意味で使うかによって、あちらでの発音と、平仄及び属する韻目が変わるそうで。
三字目の「在」は「在る(ある)」「居る」という動詞の意味だと「上声(じょうせい)」の内の「十賄」という韻目に属し、「所在」という名詞の意味だと「去声(きょせい)」の内の「十一隊」という韻目に属します。けどどっちにしても仄字ですけど。
承句:
一字目の「有」は「有る(ある)」の他にも、「有つ(もつ、たもつ)」とも読みます。「保つ」と同じ意味です。
三字目の「過」は、平仄両方の韻を持っています。
「過ぎる」という動詞の意味だと、「下平声(かへいせい)」の内の「五歌」に属し、「過ち」という名詞の意味だと、「去声」の内の「二十一箇」に属します。
ここでは前者の意味なので、「五歌」の平字となります。
「鬻」とは「かゆ」とも読み、「粥」すなわち水分多く、ドロドロしたペースト状の御飯をも意味しますが、ここでは「鬻ぐ」と書いて「ひさぐ」と読みます。
意味は「物を売る」「商売する」という意味です。
いや、だからと言って何も、私は実際に店に立って、何か物を売る仕事をしている訳ではありません。
ここではあくまでも、「仕事をしている」という意味の比喩として使いました。
転句:
私は日本茶や紅茶、コーヒー等の茶類が好きでして。
まあ酒も好きですが、そんな頻繁には飲みませんね。
けれど茶も酒も美味いとやはり気分は良いですね。
少々取って付けたような一文ですが、他に色々と作ってみたけど、平仄が合わず、残念ながら次々没にして、ようやく平仄の合ったのがこれだったのですよ(^^;)。
結句:
最初の一字目「遠」も音韻が二種類ありますが、どちらも仄字です。
「遠い」という形容詞の意味だと、「上声」の内の「十三阮」に属し、「遠ざける」という動詞の意味だと、「去声」の「十四願」に属します。
ここでは後者の意味なので、「十四願」の仄字となります。まあどっちにしたって仄字なんですけど。
結句末の字も韻字になります。
承句末の位置に「鬻」を当てた以上、これと同じ韻目(入声:一屋)に属する字の中から選んで押韻するしかなく、その中に「福」の字があったので選びました。
この「福」を結句末に置いて、尚且つ平仄が整った上に、ちゃんと意味も通る一文にしようとしたら、こんな風になったという事です。
さて、以上がこの五言絶句仄起式の漢詩の詳細です。
やはり初心者ではこの程度が限界でしょうかね・・・・。
それに詩語とかを全く使ってないから、どうにも洗練された、風雅な趣に欠けるなあと、自分でも思いますしね・・・・(^^;)。 |
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本記事は前記事に絡んでの話です。つまり「何故私が譲位に反対なのか?」の理由です。
それは歴史の教訓として、大乱の火種となりかねない事を倣ったからです。
江戸後期の文化14(1817)年に、第119代天皇であられる光格天皇が、皇太子である恵仁(あやひと)親王、すなわち第120代・仁孝天皇に譲位したのを最後に、以降は譲位の例はありませんでした。
だから此度の譲位は実に200年ぶりの譲位となります。
冒頭でも言いましたように、譲位を為されてはならない根拠とは、明治になってから制定された皇室典範、その中の条文(第十條)で譲位を禁じるようになったからです。
皇室典範第十條:
天皇崩スルトキハ皇嗣即チ践祚シ祖宗ノ神器ヲ承ク
井上毅(いのうえこわし)の『皇室典範義解』では、この第十條の意義の解説の箇所で、以下のように述べています。
これこそが在世中での譲位を禁止とした理由です。
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再び恭(つつしみ)て按ずるに、神武天皇より欽明天皇に至る迄(まで)三十四世曾(かつ)て譲位の事あらず。
譲位の例の皇極天皇に始まりましは、蓋(けだ)し、女帝仮摂より来(きた)る者なり(継体天皇の安閑天皇に譲位したまいしは同日に崩御あり。未だ譲位の始となすべからず)。
聖武天皇、皇光天皇に至って遂に定例を為せり。此(これ)を世変の一とする。
其(そ)の後、権臣の強迫に因り両統迭立(りょうとうてつりつ)を例とするの事あるに至る。
而(しこう)して、南北朝の乱、亦(また)此に源因せり。
本條は践祚を以て先帝崩御の後に即ち行われる者と定めたるは上代の恒典に因り、中古以来譲位の慣例を改める者なり。
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誤訳を恐れず現代語で意訳すれば、次のようになるかと。
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再び考えてみるに、初代・神武天皇から第29代・欽明天皇までの三十四世の間、先帝崩御に因らない譲位の例はなかった。
第35代・皇極天皇から譲位の例が始まったのは、皇極天皇の仮摂に因んだものである(第26代・継体天皇が第27代・安閑天皇に譲位した例があるものの、譲位と同日に継体天皇が崩御した為、これを以て譲位の先例としてはならない)。
第45代・聖武天皇、皇光天皇の代に至ると、遂に譲位が定例化した。これを世変の一つとする。
その後は権臣に強迫された挙句、両統迭立という先例を作ってしまった。
南北朝時代という大乱の原因は、この両統迭立にある。
本條(第十條)の意義とは、践祚が先帝の崩御された後に行われるものである事を定めたのは、上代の原理原則に則り、中世以来の譲位の慣例を改める事にある。
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つまり上記引用文にあるように、治世の途中での皇位から降りられる事を認めてしまえば、時の権力者の都合で、権力者にとって気に入らない天皇を引き摺り下ろし、都合の良い人物を即位させる事が出来てしまいます。
権力者によって恣意的に皇位や皇統を左右されるなど、あってはならない事です。
今上陛下が譲位なされて上皇と御成りあそばされるのは、院政時代の再来となってしまいます。
院政時代の朝廷では、公家たちが今上派(親政派)と上皇派(院政派)とに分裂して、党派間抗争があり、朝廷が乱れました。
それが上記引用文にもあるように、後世には両統迭立、そして南北朝時代の遠因となりました。
そのような乱世の火種となるからこそ、明治皇室典範において譲位を禁止したのです。
『天に二日無く、地に二王無し』という普遍の真理を衝いた格言もあります。
意味は言うまでもないでしょうが、「天空に太陽が二つもないのと同じ事で、地上には(一つの国には)君主が二人もいてはならない」となりましょうか。
なのでいくら譲位されているとは言え、一度は登極(即位)された御方が同時に複数おられますと、実質的に天子が二人(あるいはそれ以上)も存在される事となり、混乱や対立の原因となりかねません。
それにいくら一代限りの特例法とは言え、このような前例を作ってしまえば、以後は何かある度に、あらゆる理屈を付けて譲位が可能となってしまいます。
このような仮定も不敬かも知れませんが、天皇陛下となられた御方と雖も、やはり生身の人間です。
天皇としての御役目の過酷さに音を上げられ、「譲位して楽な身になりたい」などと思われ、実際にその通りになされる御方が絶対に出て来ない、などとどうして断言出来るでしょうか?
僅かな在位期間で次々譲位が行われるような有り様となったら、それこそ社会が混乱に陥るでしょう。
しかし私がその見識を信頼する保守系言論人の中には、この譲位を支持されている方々も見受けられます。
何故反対しないのか意外に思ったので、その真意を三名の方に尋ねてみた所、それぞれ異なっていました。
一人目は無回答でした。
二人目は「南北に分かれて対立した南北朝時代の皇室と、現在の皇室は同じではない。」「そして今上陛下と皇太子殿下の間に、対立らしき事柄は何もないので懸念するには及ばない。」との事でした。
今すぐではなくても、未来永劫に亘って乱れない保証もないだろうと思うのですが・・・・
何せ南北朝時代、いやその前段階の両統迭立の時代だって、院政が始まってからすぐに起こった訳ではないのですから。
だからさすがに楽観し過ぎではないのかと思えるのですが・・・・
そして三人目は、直接的にではなく、間接的に人伝(ひとづて)に聞いたのですが・・・
何でも「天皇本来の御役目である祭祀や、祭祀の次世代への継承が、今の状態では不可能なまでに追い込まれていて、どうにもならなくなっている。
だからこそ譲位に危険性が伴うのを承知の上で、敢えて譲位に踏み込まれた。譲位を実行されてでも、優先すべき問題を片付けねばならないと御決断下された。」との趣旨でした。
一理あるようにも聞こえますが、それならそれで摂政を御立てになられて、陛下は祭祀のみに専念される。
祭祀以外の事は摂政に委ねられれば最良だと思えるのですが。
仮に将来不吉な事が何も起こらずに済んだとしても、だからと言って「別に譲位したって何も問題ないじゃないか。」などと思うのは浅はかです。
そんなのは結果論に過ぎません。単に幸運に恵まれただけに過ぎません。だから道理に反する事は最初からするべきではないのです。
天皇というのは民間企業の社長ではないのです。まるで会社で社長を退任した後、会長に就任する事と同じような感覚で考えるべきではありません。
とは言っても、もう今となっては譲位が覆る事は不可能でしょうから、今更反対の声を表明しても詮無い事なのかも知れません。
それでも我々はこの件から、「何故こうなったのか?」「このような事を阻止するにはどうするべきか?」の教訓を学び取るべきなのでしょう。二度とこのような事が起こらないように。 |




