YAMINABE the Second Operation

この11年間の数多くの思い出を携え、私は新たな旅へと出発します。それでは皆さん、御達者で。

第一計 瞞天過海

[ リスト | 詳細 ]

記事検索
検索

全1ページ

[1]

承前  故事其之壹 ─ 乙





 その他に以前からの、李牧が戦を避けてばかりいて、まともに戦った例(ためし)がない臆病者という認識も手伝っていた。
 そうして李牧の計画通りに事は運び、単于率いる匈奴軍を迎え撃った李牧は、様々な陣形や戦術を駆使して、匈奴軍を十何万騎も討ち取り、大いに破ったのであった。
 その余勢を駆って、李牧は初めて大掛かりな反攻に転じ、襜襤(たんらん)・東胡(とうこ)・林胡(りんこ)と言った匈奴の諸部族を次々と攻め、立て続けに降して行った。
 力尽きた単于はとうとう遠くへ逃げ去って行った。
 それ以後の十数年もの間、匈奴は趙の国境付近に、決して近付こうとはしなくなった。


 以上が一見過度に消極的としか思えなかった李牧の真意であった。
 李牧は兵力・その他戦力等の無駄な消耗を避け、戦力を蓄える狙いだけでなく、敵に対して自身を臆病者だと思い込ませ、偽りの優勢な状況にすっかり慣れ切らせ、慢心と油断を誘うのも狙いであった。
 だからこそ李牧は敢えて、長年に亘ってまともな交戦を避け続けたのである。
 そしてある日突然、それまでの匈奴の認識とは全く別人としか思えない動き方をされた事で、匈奴軍は上手く対応出来ずに、李牧によって大破されてしまった。
 正しく瞞天過海策を駆使した、劇的な逆転勝利を実現したのであった。


 こうして李牧の武名は天下に轟き渡った。
 以降の李牧は趙軍きっての名将、趙軍の重鎮として重きを為し、負け知らずで数々の戦功を立てるに至った。
 だがそんな類稀な天下の名将も後年、その存在を恐れ疎ましく思った秦の謀略によって、悲劇的な最期を遂げる。紀元前229年の事であった。
 その詳細は【第三計 借刀殺人】の故事 で語る。





趙の名将・李牧、防戦に徹した後に大勝する。

開く トラックバック(1)

承前  故事其之壹 ─ 甲





 李牧が守備軍の将として軍政を布いていた頃は、劇的な展開はなく地味だったにしても、取り立てて窮乏する事もなく、それなりに満足した暮らしを送れた。
 だが新しく将が交代してからは、悪くなる一方であったので、李牧の復帰を望む声が強まって行った。





 ♜ 李牧の復帰

 その現地の声は趙中央の宮廷にまで聞こえ、その声を無視出来なくなった趙孝成王は、李牧に再び雁門まで赴任するよう要請した。
 だが李牧は病気と称して自邸に引き籠るようになり、要請を拒否した。
 そんな李牧を趙孝成王は重ねて説得し、遂には強く命じて強引に復帰させたのである。
 それに際して李牧は趙孝成王に対して、前以て了承を取り付けた。


「大王様に申し上げたき事がございます。
 どうしても臣(しん)【※8】を用いようとなされるならば、臣は以前と同じ通りに致す所存でございます。
 それでも宜しいと仰せられるのでございましたら、臣は敢えて君命を奉じ、彼の地へ赴きましょうぞ。」


 それを聞き、趙孝成王は許した。こうして李牧は、再び雁門の守将として着任するに至った。


 そして李牧は着任後、趙王に言った通り、以前と同じく匈奴と直接戦う事を、ひたすら避け続けた。
 以後数年間は、以前と同様に損害も出さず、雁門の軍民は再び大過なく過ごせるようになった。
 李牧の再就任以降、匈奴軍は戦果や戦利品を何も獲得出来なくなった。それと同時に匈奴は、李牧はやはりただの臆病者に過ぎないと、益々侮るようになった。
 守備軍将兵たちの方は、毎日李牧より褒賞を賜るものの、戦って戦功を挙げる機会に恵まれなくなったので、体力と気力を持て余すようになり、匈奴と一戦交えたいものだと言い出すようになった。
 そんな状況を見取った李牧は、初めて軍事的な行動に出始めた。
 まず堅固な物を選んで、兵車を千三百乗(千三百台)程も揃えた。
 そして騎馬は優れた馬を選び抜き、一万三千頭程も揃えた。
 そして人の方は、精強な士を五万人、強弓の射手を十万人程も揃え、戦の訓練をさせた。





 ♝ 本格的な反攻

 調練が済んでから李牧は、城市外に家畜を自由に放牧させ、田畑もあちこちで耕作させた。
 ある時に匈奴が、それ程多くもない兵力で侵攻して来た。守備軍は一旦干戈を交えた後、敗走して行った。
 だがこれが李牧の策略であった。李牧は自軍にわざと負けさせたのである。
 そうして城市外で牧畜や農耕をしていた数千もの農牧民を、敢えて保護するでなく、匈奴の拉致・連行、あるいは略奪や殺戮するに任せた。
 単于(ぜんう)【※9】はこれを聞くや、大軍を率いて進軍して来た。目一杯に稼げる絶好の機会だと踏んだからである。
 李牧の策謀により、単于は「趙軍は弱く、楽に勝てる。」と侮るようになったのである。





後続  故事其之壹 ─ 丙(完結編)

開く トラックバック(1)

趙の名将・李牧、防戦に徹した後に大勝する。





 ♚ 北方の雄国・趙

 時は紀元前3世紀の戦国時代後期の支那。
 この事例での話の明確な年は不明であるが、恐らくは紀元前265年から、紀元前245年に懸けての間の出来事であろうか。
 この丁度20年間は、趙の国の第8代国君・趙孝成王【ちょうのこうせいおう:姓は嬴(えい)、氏は趙(ちょう)、名は丹(たん)】の治世期間中だからである。


 戦国七雄の中の一角であり、中原北方に位置した強国・趙は、地理的な要因から、「狄(てき)」とか「匈奴(きょうど)」【※1】と呼ばれる、北方の遊牧騎馬民族の領域と国境を接していた。
 その為昔から、趙は屈強な異民族との争乱を絶えず繰り返していた。
 そういった地政学的な要因もあり、これより過去には趙武霊王【ちょうのぶれいおう:姓は嬴(えい)、氏は趙(ちょう)、名は雍(よう)】という一代の傑出した英君が、「胡服騎射(こふくきしゃ)」【※2】という画期的な軍制改革を成し遂げて、次々と領土を拡大して行き、趙を一躍天下の強国へと成長・発展させるに至った。
 この趙武霊王は趙の第6代国君であり、趙孝成王の祖父である。


 このように趙武霊王以降は特に軍事大国として栄え、廉頗(れんぱ)や趙奢(ちょうしゃ)と言った、天下に名高い英雄的な勇将・智将を輩出した。
 そんな趙において、趙最後の名将、趙最後の英雄とも言える将軍がいた。その名を李牧(りぼく)と言った。





 ♛ 李牧という武将

 李牧は出自は不明だが、趙きっての名将であった。北方の辺境で長く匈奴と戦っていた。
 嘗ての代(だい)【※3】雁門(がんもん)【※4】に駐在し、司令官としてそこの城市と周辺地域の守備を任され、匈奴の侵攻に常に備えていた。
 折を見ては適宜に吏(役人)を置き、市(市場)から上がった税収は、全て幕府(ばくふ)【※5】の府庫に納め、士卒の為に用いる経費とした。
 毎日数頭の牛を屠って、主に守備軍幹部たちの酒食として振る舞った。
 そして射騎(しゃき)【※6】を訓練させ、烽火に意を払い、敵情を探る間諜の数を増やし、戦士を厚遇した。
 しかしそれとは裏腹に李牧は軍令を下していた。


「もし匈奴が襲来して、家畜などを盗もうとしている場合は、急いで家畜を纏めて城市内へ逃げ込むのだ。くれぐれも匈奴兵を虜にしてやろうなどと思う者は斬る。」


 その指示通り、李牧は日頃から烽火(のろし)【※7】に絶えず意を払い、匈奴が来襲する度に家畜を城市内へ引き込ませた。
 そして城市内に立て籠もったまま、一切反撃に打って出ようとはしなかった。


 このような行き方を繰り返し、いつしか数年が経っていた。その間に雁門の官民に、損害らしい損害はなく、大過なく過ごせた。
 だがその代償として、匈奴は一向に戦おうともしないで、城市内に籠もってばかりいる李牧を臆病者と嘲った。
 更には配下である趙軍将兵までもが、自分たちの司令官を内心では臆病者だと思うようになっていた。
 趙の国君である趙孝成王は、李牧のやり方が大層不満で、李牧を難詰したが、それでも李牧は行き方を従来通り変える事はしなかった。
 それで趙孝成王は怒り、遂に堪忍袋の緒が切れて李牧を更迭してしまい、代わって新しく別の者を雁門防衛の司令官として派遣した。


 それから一年余り、その新任の守将は李牧とは正反対に、度々城市から打って出て、匈奴と交戦した。
 だが戦況は好転せず、戦うごとに負けた。侵攻が頻繁になり、雁門城市の周囲、国境付近では、農耕や牧畜もまともに出来なくなってしまった。その為損害は増すばかりであった。
 そのせいで軍民とも李牧を懐かしく思うようになった。





後続  故事其之壹 ─ 乙

開く トラックバック(1)

第一計 瞞天過海








♈♉♊♋♌♍♎♏♐♑♒♓
 同じ行為を何度も何度も繰り返す事で、相手をすっかり慣れさせてしまい、警戒心を解き、油断を生じさせる。
 最初は警戒していた相手も、常に同じ行為を繰り返す事で、いつしか警戒心も薄れて行き、そこにつけ込む隙が生まれる。
 人間は「感情の動物」とも言われるが、同時に「慣習の動物」でもある。
 人間の心理上、普段の習慣や慣れ切ったパターンから外れた、咄嗟の出来事には中々適切に対応し難く、思わぬ不覚を取ってしまう確率が高い。
 解題にもあるように、大きな秘密というものは、往々にして陰の部分よりも、大っぴらに人目に付くような所にこそ隠されているものである。
 それが何であれ、誰の目からも明らかに見えたり、当たり前に見慣れて来ると、ついつい重要な物事だとは思わず、ごくありふれた物事だと思い込んでしまう。
 そのような重要な秘密や企みが隠されているなどとは、夢にも思わなくなる。
 秘密や企み等というものは、陰に隠されるものだという先入観を逆手に取り、敢えて目立つように仕向ける。
 そうする事で相手をすっかり安心させ、危機感や警戒心を失わせる。そうしてから奇襲や不意打ちを喰らわすのである。
 この計略はそういった人間の心理上の盲点を巧みに衝き、まんまと相手を出し抜いて、目的を達成する計略である。この計略は一見単純なように思えて、極めて高い効果を発揮する。
♈♉♊♋♌♍♎♏♐♑♒♓
☯ ☯ ☯ ☯ ☯ ☯ ☯
第一計
☯ ☯ ☯ ☯ ☯ ☯ ☯
瞞天過海
☯ ☯ ☯ ☯ ☯ ☯ ☯


まんてんかかい


天を瞞いて海を過る


天(てん)を瞞(あざむ)いて海(うみ)を過(わた)る






 明代の永楽6(1406)年に成立した書物『永楽大典(えいらくたいてん)』の中の、『薛仁貴征遼事略(せつじんきせいりょうじりゃく)』の項に記された、唐王朝第2代皇帝・唐太宗【とうのたいそう:本名は李世民(りせいみん)】の故事に因む。
 高句麗遠征の際に、海を渡る為に船に乗らなければならない処、唐太宗は海が恐くて乗船を嫌がった。
 そこで配下の将軍・張士貴(ちょうしき)が、船の上に土を盛り、建物を建てて、陸上と変わらぬように見せ掛けて、唐太宗を船の上に上がらせた。
 そして宴を開き、唐太宗が楽しんでいる最中に、船を出航させて海を渡った。
 つまり天(天子、皇帝)を騙して海を渡らせたという故事から。






☰  ☴  ☲  ☶  ☱  ☵  ☳  ☷
 備え周(あまね)かば則(すなわ)ち意怠り、常に見れば則ち疑わず。
 陰は陽の内に在(あ)り、陽の対(つい)に在らず。太陽(たいよう)は、太陰(たいいん)なり。
☰  ☴  ☲  ☶  ☱  ☵  ☳  ☷
 備えが周到であれば、意識や警戒心が緩み、日常見慣れていれば、疑問を感じなくなる。
 陰(秘密)というのは寧ろ陽(公然)の中にこそ隠されており、陰(秘密)と陽(公然)は決して相反するのではない。
 故に大いなる陽(公然)は、大いなる陰(秘密)となる。
☰  ☴  ☲  ☶  ☱  ☵  ☳  ☷

全1ページ

[1]


.
ZODIAC12
ZODIAC12
男性 / A型
人気度
Yahoo!ブログヘルプ - ブログ人気度について

ブログバナー

過去の記事一覧

1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
友だち(1)
  • yatugatake
友だち一覧
検索 検索

よしもとブログランキング

もっと見る

[PR]お得情報

ふるさと納税サイト『さとふる』
実質2000円で特産品がお手元に
11/30までキャンペーン実施中!

その他のキャンペーン


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事