YAMINABE the Second Operation

この11年間の数多くの思い出を携え、私は新たな旅へと出発します。それでは皆さん、御達者で。

第二計 囲魏救趙

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承前  故事其之貮 ─ 丙





 表向きは禅譲(ぜんじょう)【※20】という体裁を繕いながら、最早無力な後漢王朝第14代・献帝【けんてい:本名は劉協(りゅうきょう)】に実力で迫って、強制的に退位させ、帝位を奪い取ったのであった。
 これにより初代・光武帝【こうぶてい:本名は劉秀(りゅうしゅう)】が、前漢王朝を簒奪した王莽(おうもう)を打倒して、建武元(紀元25)年に即位してから始まった後漢王朝は、14代195年目にして滅亡したのであった。
  この詳細は【第三〇計 反客為主】の故事(リンク先工事中)で語る。


 この動きに対抗して翌建安26/章武元(221)年に、劉備も皇帝を称して蜀漢(しょくかん)【※21】を建国する。
 同年内に劉備と関羽の義弟だった張飛【ちょうひ:字は益徳(えきとく)】が、険悪な間柄だった二人の部下、張達(ちょうたつ)・范彊(はんきょう)の裏切りで暗殺された。
 立て続けに二人の義弟を失った劉備は、同年内に関羽の復讐の為に、孫権に対して一戦を挑んだ。「夷陵の戦い(いりょうのたたかい)」である。
 戦いは年を越し翌章武2(222)年に、これまた関羽の時と同様に、陸遜の智謀の前に劉備は敗れ去る。
 この「夷陵の戦い」の詳細は【第四計 以逸待労】の故事(リンク先工事中)で語る。


 敗戦の翌年の章武3/建興元(223)年、発病した劉備は曹操に続いて、白帝城(はくていじょう)【※22】にて没した。
 諡号は「昭烈皇帝(しょうれつこうてい)」、だが一般的には「先主(せんしゅ)」「蜀先主(しょくのせんしゅ)」【※23】と呼ばれる。
 劉備は死ぬ間際に、丞相の諸葛亮【しょかつりょう:字は孔明(こうめい)】に国の後事と、息子・劉禅【りゅうぜん:字は公嗣(こうし)】の後見を託した。
 この劉禅こそが蜀漢第2代にして最後の皇帝となった、蜀後主(しょくのこうしゅ)である。


 こうして天下に名を轟かしたこの三人の義兄弟は、とうとう皆この世を去ったのであった。





「樊城の戦い」──────義将・関羽の最期。孫権を引き入れて、樊城の包囲を解かせる。
承前  故事其之貮 ─ 乙





 そこへ曹操から新たに、徐晃【じょこう:字は公明(こうめい)】・趙儼【ちょうげん:字は伯然(はくぜん)】等が援軍として派遣された。
 その後も続々と、徐商(じょしょう)・呂建(りょけん)・殷暑(いんしょ)・朱蓋(しゅがい)等の諸将が、救援軍として派遣されて来た。


 この樊城包囲の前線拠点として、関羽は囲頭や四冢【※14】に布陣していた。
 徐晃はまず四冢を攻略しようとして、囲頭を攻撃すると偽って敵側に情報を流した。
 そして油断した四冢の方を攻撃した(この運用は【第六計 声東撃西】に当たる)。
 四冢が攻撃されてるのを受けて、歩騎五千程を自ら率い、徐晃に直接対戦を挑んだが、徐晃は見事にこれを撃破した。更に敗走した関羽に、徐晃は深く追撃を仕掛けて戦果を上げた。
 幾重にも設置された塹壕や逆茂木を総て突破し、関羽の包囲網に大打撃を与えた。散々に打ち破られ、関羽も樊城包囲を断念して、遂に撤退せざるを得なくなったのであった。


 樊城の包囲は解いても、一方の襄陽の方は包囲を続けた。だがこれも、孫権軍に輜重を押さえられてしまい、これまた包囲を解除して撤退せざるを得なくなった。
 こうしてこの「樊城の戦い」は、囲魏救趙策を用いて孫権を動かした、曹操側の逆転勝利に終わった。





 ♟ 名将の最期

 その後の関羽はジリ貧に陥り、軍の士気も低下して行った。大半の将兵の投降が相次ぎ、軍は四散して行った。
 遂には麦城(ばくじょう)【※15】に立て籠もり、上庸(じょうよう)【※16】の孟達【もうたつ:字は子度(しど)】と劉封(りゅうほう)に救援を要請したが拒否された。
 そんな進退窮まった折に、孫権側から関羽に対し、降伏を勧める使者が訪れた。
 関羽は一旦は申し出を呑む振りをしながら、養子の関平(かんぺい)【※17】等と共に、隙を衝いて秘かに城市外へ脱出し、劉備陣営の本拠地・益州(えきしゅう)【※18】へと逃れようとした。
 しかし武運拙く、臨沮(りんしょ)【※19】の地で孫権軍に追い着かれ、退路を断たれてしまった。
 関羽たちは藩璋【はんしょう:字は文珪(ぶんけい)】の部下の馬忠(ばちゅう)に捕えられ、子の関平と共に斬首に処された。
 こうして時代を代表するこの大人物は、遂に無念の最期を迎えたのであった。諡号は「壮穆侯(そうぼくこう)」。


 関羽の人となりは、文武両道にして信義に厚い事この上なく、「忠」と「義」の徳目を一身に体現していた。
 だが己の武勇を恃む余り、しばしば猪突猛進しては、兵を多く失う事も多かった。
 自尊心が非常に強く、自信過剰で、目下の者には殊の外優しいが、同格の者を侮り、見下しがちだったと言う。
 それ等の短所が原因で、部下の糜芳・士仁等の離反を招き、結果として己の破滅へと至った。





 ♔ 関羽の死後

 この関羽の死の翌建安25(220)年、時代の主人公とも言うべき存在だった巨人・曹操が死んだ。
 嫡子の曹丕【そうひ:字は子桓(しかん)】が跡を継ぎ、同年内に後漢王朝を簒奪した。





後続  故事其之貮 ─ 丁(完結編)
承前  故事其之貮 ─ 甲





 于禁は陸路を伝って軍勢を率いて来たので、船を用意していなかった。
 その為水上戦をも想定して船を用意していた関羽軍に攻め込まれ、為す術もなく三万の兵と共に降伏した。


 続いて龐徳である。龐徳配下の董衡(とうこう)と董超(とうちょう)の二人が、関羽に降伏しようとしていた。そこで龐徳は見せしめの為に、二人を処刑して抵抗を続けた。
 しかし当人が最後まで戦う気でも、配下の諸将が戦意を失い降伏したので、孤立無援となった龐徳は、舟に乗って曹仁の籠もる樊城まで避難しようとしたが、武運及ばず無念にも捕えられた。
 関羽に降伏するよう説得されたが、于禁とは正反対に最後まで頑なにそれを拒み通し、遂に処刑された。

 両者の対照的な出処進退を知り、主君の曹操は、


「我は于禁と出会ってからもう三十年も経つ。だがいざ困難に遭い、忠節を貫くにおいて、新参の龐徳にすら及ばなかったとは、思いもよらなんだ!」


 と嘆いた。


 連勝に気を良くした関羽は、曹仁の守る樊城と、呂常(りょじょう)の守る襄陽(じょうよう)【※10】を包囲した。
 樊城は漢水の氾濫により、城壁上部まで水に浸り、孤立無援の状態に追い詰められていた。
 連敗に曹操の領内は動揺し、浮き足立ってしまっていた。その影響で謀反が起きたり、領内の群盗が蜂起したりして、混乱が生じた。





 ♝ 司馬懿と蒋済の囲魏救趙策

 曹操は戦況のまずさにすっかり動揺し、先の災いを憂えて遷都を考えたが、謀臣の司馬懿と蒋済の二人が揃って反対した。
 二人とも孫権を利用するように進言した。
 二人は「孫権に長江(ちょうこう)【※11】以南の領有権を承認し、それの見返りとして関羽の背後を衝かせれば、関羽は樊城の包囲を解いて撤退せざるを得なくなる。」という趣旨の策を、曹操に献じたのであった。正しく司馬懿と蒋済の考案した囲魏救趙策であった。
 曹操はその戦術を採用し、直ちに孫権と同盟を結んだ。


 そうして孫権配下の呂蒙【りょもう:字は子明(しめい)】と陸遜【りくそん:字は伯言(はくげん)】の両智将が、関羽の本拠地である江陵(こうりょう)・公安(こうあん)【※12】を攻めた。
 関羽は樊城攻略に兵力の大部分を割いていたので、留守部隊は主力不在で少数であり、空き家同然の所を狙われてしまったのである。
 これは関羽に油断を生じさせ、呉に対する警戒を緩める為に陸遜が仕組んだ策略の成果である。
 これ以降、呂蒙と陸遜の巧妙な作戦に、関羽軍は次々と翻弄されて行く。
 関羽出征の留守を預かっていた士仁【しじん:字は君義(くんぎ)】【※13】と糜芳【びほう:字は子方(しほう)】の二将は、関羽とは反りが合わず、予てから関羽とは険悪な間柄であったのをつけ込まれて、陸遜と呂蒙は二将に寝返り降伏をさせた。
 その後は関羽の拠点を占領して、巧妙で木目細かい占領統治を施したので、抵抗らしい抵抗は起きず、瞬く間に屈服してしまった。
 こうして関羽は拠点を奪われて、帰る所を失ってしまった。





 ♞ 関羽の挫折──────一転して劣勢へ

 樊城の方はと言うと、長期的な豪雨と河川の氾濫の為に、城壁は水没し、関羽軍が水軍を使って兵糧攻めを掛けていたので、城市内の兵糧は底を着いていた。
 劣勢ぶりに守将・曹仁は弱気になったが、どうにか保ち堪えていた。





後続  故事其之貮 ─ 丙
「樊城の戦い」──────義将・関羽の最期。孫権を引き入れて、樊城の包囲を解かせる。





 ♚ 序

 3世紀初期の後漢末三国時代前の支那。
 三国時代開始前とは言え、この時既に無力化した後漢天子は完全に棚上げされていて、後漢王朝は事実上滅亡していたも同然であった。
 そしてそんな後漢帝室を尻目に、事実上天下を三分していた曹操【そうそう:字は孟徳(もうとく)】・孫権【そんけん:字は仲謀(ちゅうぼう)】・劉備【りゅうび:字は玄徳(げんとく)】の三群雄が鼎立(ていりつ)【※1】し、互いに天下の覇権を巡って相争っていた。


 そんな中の建安24(219)年に、三雄の一角・劉備に仕え、劉備とは義兄弟の関係にあった関羽【かんう:字は雲長(うんちょう)】が「樊城の戦い(はんじょうのたたかい)」に敗れて死んだ。
 曹操陣営の謀臣の司馬懿【しばい:字は仲達(ちゅうたつ)】と蒋済【しょうさい、しょうせい:字は子通(しつう)】の二人が献じた、囲魏救趙策を曹操が採用して、その結果関羽という天下に名の轟いた大物武将を討つ事に成功したのである。





 ♛ 樊城包囲戦の前段階

 同年(219年)内に曹操と劉備の間で起こった一戦「定軍山の戦い(ていぐんざんのたたかい)」で、劉備は曹操に勝利し、それを機に劉備は「漢中王(かんちゅうおう)」を名乗り、天下を制覇するという意思表示をした。
 これは前漢初代皇帝・漢高祖【かんのこうそ:本名は劉邦(りゅうほう)】の故事【※2】に倣ったものである。
 漢中王劉備の下で、関羽は前将軍(ぜんしょうぐん)【※3】 に任命され、荊州(けいしゅう)【※4】における兵馬の権を授けられた。


 この前年の建安23(218)年に、荊州内の一郡であり曹操の支配下である南陽郡(なんようぐん)【※5】で、反乱事件が起きた。
 起こした首謀者は、南陽郡内の宛(えん)【※6】という地に住む土着の豪族・侯音(こうおん)である。
 侯音は元は曹操に武将として仕えていて、南陽に進出して来た関羽に対して備えていた。しかし地元の南陽郡太守(たいしゅ)【※7】の東里袞(とうりこん)が、地元民に苛酷で重い軍役を課したので、それに堪え切れずに反発した。
 そして遂に侯音は軍勢を率いて、東里袞始め曹操の官吏団に反逆したのである。関羽もそれに乗じて、侯音と手を結んだ(第五計 趁火打劫)。
 不意を衝かれ、驚いた東里袞は、拠点の宛城から逃亡し、侯音は主のいなくなった宛城を占拠した。
 曹操の命令により、樊城(はんじょう)【※8】の守将であった、曹操の従兄弟の曹仁【そうじん:字は子孝(しこう)】が、同僚の将軍・龐徳【ほうとく:字は令明(れいめい)】と共に、反乱鎮圧の為に宛城へと向かった。
 侯音は関羽の援軍を当てにして篭城したが、それ程経たない内に曹仁・龐徳等の猛攻に耐え切れずに、宛城を陥落させられてしまい、首謀者・侯音は捕えられ処刑された。
 こうして反乱は鎮圧され、関羽の共闘路線は破綻した。





 ♜ 「樊城の戦い」──────勇将・関羽の快進撃

 そうして翌建安24(219)年に、関羽の身の破滅となった「樊城の戦い」が勃発した。
 曹仁と龐徳はそのまま樊城に駐留し、関羽に備えていた。関羽は樊城を包囲する陣を布いた。
 曹操陣営からは他に、猛将・于禁【うきん:字は文則(ぶんそく)】が援軍として対関羽戦に派遣された。于禁は七軍をも率いて荊州まで行軍して来た。
 こうして関羽と曹仁・龐徳・于禁の三将が交戦するに至った。だがそのような陣容にも関わらず、曹操側は劣勢に立たされてしまった。


 まず于禁の降伏である。折悪く悪天候により長雨の豪雨となったので、漢水(かんすい)【※9】が氾濫した。
 その為に不運にも、于禁の率いていた七軍の大部分が水没で失われた(あるいは関羽による水攻めの作戦か?)。





後続  故事其之貮 ─ 乙
承前  故事其之壹 ─ 丙





 例え折角苦労して邯鄲を陥落させられたとしても、自国の重要拠点を陥落させられてしまっては、それこそ元も子もなくなる。それ以上の包囲戦の継続は無理となり、大梁の救援に大急ぎで駆け付けた。
 正しく孫臏の狙い通り、龐涓率いる魏軍に邯鄲の包囲を解除させる事に成功し、まずは趙を救うという目的を果たした。


 そしていよいよ二点目の成果を得る段である。
 孫臏は撤退する魏軍の行軍路を予測し、総司令官・龐涓の性格も計算に入れて、何時何処で魏軍を迎え撃てば、最大限効果的に勝利出来るかを、綿密に計算した。
 その結果孫臏は、桂陵という地を決戦の場に選び、そこに斉軍を待機・布陣させた。
 案の定、孫臏の予測通り、龐涓率いる魏軍は、桂陵へ接近して来た。桂陵を通り過ぎようとした処を、孫臏は自軍に攻撃を仕掛けさせた。
 龐涓や魏軍は思わぬ奇襲を受けて、反撃らしい反撃も出来ないまま、いいようにやられて行った。
 何しろ魏軍は連日の邯鄲攻略ですっかり疲労していた上に、休む間もなく大梁救援の為に龐涓が急行軍を掛けた事で、更に疲弊が増してしまった。
 その上に龐涓は全軍を纏まらせながら、整然と邯鄲から撤退させた訳ではなく、「遅い者には構っていられない」「取り敢えずは自分について来れる者だけついて来れば良い」とばかりに、各自銘銘に進ませたのである。
 その為に先頭を進む龐涓と、遅れた兵との間に、進軍速度と距離の差が生じてしまい、斉軍の攻撃を受けた時には、龐涓の周りの兵は大分少なくなっていた。
 それ等の要因も予見した上での、孫臏の作戦であった。
 如何に龐涓が名将とは言っても、そのような不利な要因が重なっていては、先に戦場に到着して鋭気を養い、体力・気力共に充実していた斉軍に勝てる筈もなかった。
 瞬く間に龐涓率いる魏軍は崩壊し、散々に打ち破られ、這々の体で退却するしかなかった。
 戦いは斉軍の圧勝に終わり、二点目の「魏軍に勝利する」という成果も獲得したのであった。
 強敵・魏軍を大破させたこの一戦は、戦場となった地名から、後世「桂陵の戦い」と呼ばれるようになった。
 この一戦による智謀と大勝利により、孫臏の名は一躍天下中に轟き渡った。
 これ等一連の故事は「囲魏救趙」と言われるようになり、又兵法三十六計の第二番目の計略として編纂されるに至った。


 こうして孫臏は自身の名を高からしめると同時に、仇敵となった嘗ての同門に対して、復讐の一部を遂げたのであった。
 龐涓との因縁に完全な決着が着くのは、これより15年後の紀元前341年に起きた「馬陵の戦い(ばりょうのたたかい)」においてである。
 この一戦で孫臏は、魏軍を再度大敗させた上に、遂に龐涓をも戦死に追いやり、復讐を完全に果たす。
 そしてこの一戦の勝敗で、天下最強の軍事大国であった魏は、すっかり国力を消耗させて二等国の地位に転落し、それとは反対に斉は一躍、天下で一、二を争う強国へと発展・成長する。
 その「馬陵の戦い」の詳細は【第一五計 調虎離山】の故事(リンク先工事中)で述べる。





この計略名の由来となった故事『桂陵の戦い』──────天才軍師・孫臏の智謀。

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