YAMINABE the Second Operation

この11年間の数多くの思い出を携え、私は新たな旅へと出発します。それでは皆さん、御達者で。

第三計 借刀殺人

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承前  故事其之貮 ─ 丙





 ♟ 最後の足掻き──────亡命国家・代

 だが秦に本国を征服され滅ぼされても、趙から代(だい)【※10】へ亡命した大夫たちは、最後の抵抗を試みた。
 趙幽繆王が降伏して捕えられたのと同年の紀元前228年に、同じく趙の亡命王族たる趙嘉(ちょうか)を新たに王として立てたのである。
 趙の属領であった代の地で独立して、趙嘉は代王を名乗ったのである。以後は「代王嘉(だいおうか)」と呼ばれる。諡号はない。


 代王嘉は第9代国君・趙悼襄王の長男、それも正室から生まれた子で、いわば正統な嫡長子であった。
 それに比べて代王嘉の弟の第10代国君・趙幽繆王こと趙遷は、嫡子ではなく側室の生んだ子であり、しかも生母は身分の賤しい娼妓であった。
 だから普通に考えれば代王嘉こそが、趙悼襄王の跡を継ぎ、趙の第10代国君として即位するべきだったが、趙悼襄王は娼妓上がりの側室を寵愛する余り、趙嘉を太子から廃して、趙遷を太子に立てたのであった。
 趙遷の祖父・趙孝成王と父・趙悼襄王も道理を弁えない面の目立つ、どちらかと言えば暗君であったが、趙幽繆王遷は祖父や父に輪を掛けた暗君であった。
 不品行で素行が悪く、讒言をよく鵜呑みにした。だからこそ李牧や司馬尚の謀反を信じ込み、誅殺してしまい、自らの手で滅亡の引き金を引いてしまったのである。


 趙嘉は代王を唱えて代を建国して以来、隣国の燕と連合して、秦と当たったりもしたが、所詮は事実上滅亡した後に建てられた亡命政権の悲しさで、蟷螂の斧、無駄な足掻きでしかなかった。
 趙嘉が代で王を称し、建国してから数える事6年目、紀元前223年に秦の将軍・王賁(おうほん)は代の地へ侵攻した。
 そうして代王嘉は捕えられ、これにより趙の王統は完全に途絶えたのであった。
 その2年後の紀元前221年に、六国最後の斉が滅び、秦王政(始皇帝)は支那史上最初の天下統一を果たしたのであった。





趙の最期──────秦の離間策。奸臣・郭開を利用して、趙の名将・李牧を抹殺する。
承前  故事其之貮 ─ 乙





 楚将となった廉頗は、頻りに「儂は趙軍をこそ率いたいのだ。」と漏らしていた。
 だがその念願も遂に叶う事なく、楚の寿春(じゅしゅん)【※7】という邑で、戦に明け暮れた長い生涯を終えた。没年は不明である。





 ♝ 悲劇の名将・李牧

 話を戻して、秦は郭開に趙王に対して、李牧と司馬尚の二人を讒言させた。


「李牧と司馬尚の二人は、謀反を企んでおりますぞ。」


 これを聞いた暗愚な趙幽繆王は、忽ち疑心暗鬼に陥り、李牧と司馬尚の更迭を命じた。
 趙蔥(ちょうそう)と顔聚(がんしゅ)の二将に替わらせようとしたが、李牧は命令を拒否した。
 そこで趙幽繆王は人を遣わして、李牧の身柄を秘かに拘束させ、その後に斬り捨てさせた。
 こうして一代の名将は、裏切りと讒言に遭い、無惨な最期を遂げたのであった。
 同僚の司馬尚も、誅殺は免れたものの、将軍職を罷免された。
 正しく秦は借刀殺人策──────郭開と趙王という「刀」を駆使して、李牧と司馬尚を抹殺したのである。こうして趙は決定的な滅亡の引き金を引いたのであった。





 ♞ 趙の最期

 李牧の死から3ヵ月後に、秦の将軍・王翦は趙に攻め入り大勝した。最早李牧亡き後の趙には、秦と互角以上に戦える人材がいなくなっていたのである。
 勢いのまま王翦は趙の国都・邯鄲(かんたん)【※8】を陥落させた。そして趙蔥を討ち、顔聚と趙幽繆王を捕えたのであった。
 戦国七雄の強大な一角を成した雄国・趙の最期であった。紀元前228年の事であった。


 征服後に秦王政【嬴政(えいせい)】は、嘗て生まれ育ち、幼い日を過ごした、趙の国都・邯鄲まで出向いて来た。この秦王政こそ、後の始皇帝(しこうてい)である。
 嘗て秦王政の曾祖父・秦昭襄王【しんのしょうじょうおう:本名は嬴稷(えいしょく)】の治世中に、秦の将軍・白起(はくき)が「長平の戦い」で趙軍に大勝した後、投降した四十万もの趙軍将兵を坑殺(こうさつ)【※9】した。
 この故事は【第二二計 関門捉賊】の故事(リンク先工事中)で語る。


 秦王政は【第一四計 借屍還魂】の「奇貨居くべし」の故事でも語ったように、上記の白起の件が元で、秦王族である秦王政とその生母は、趙人から憎悪の的となり、虐待や迫害を受けた。
 母子揃って様々な苦痛を味わわされ、辛酸を舐め続けさせられた。
 秦王政は長年積み重なっていた怨恨を晴らそうと、嘗て自分たち母子に仇を為した、数多くの趙人を捕えて一斉に坑殺、つまり生き埋めにして処刑した。


 こうして趙は紀元前403年に周天子に、新しく諸侯として封じられ建国されて以来、10代175年目にして滅び去った。
 趙王室の前身、すなわち周王朝によって諸侯に立てられるまでは、隣国の韓・魏の二国と同様、嘗ての北方の超大国・晋に仕える有力大夫の氏族であった。
 その時代から数えると、通算26代五百数十年目の事である。





後続  故事其之貮 ─ 丁(完結編)
承前  故事其之貮 ─ 甲





 ♜ 郭開──────趙の君側の奸

 この郭開はこの時ばかりでなく、先に出した廉頗にも妨害工作を仕掛けた。
 先述の通り廉頗は、先君・趙悼襄王の即位直後に、突如将軍職を解任された。
 その理不尽な処遇に怒った廉頗が、同僚の趙将である楽乗の軍に攻撃を加えた。その意趣返しの当て付け行為に及んで隣国・魏へ亡命して以後、趙は戦力が低下し、秦に度々苦しめられるようになった。
 そこで趙悼襄王は魏にいる廉頗に復帰を望むようになった。廉頗の方でも再び趙軍を率いて戦ってみたいものだと願っていた。


 とは言え趙王には懸念もあった。いくら廉頗が天下に名の聞こえた名将だとは言え、既に高齢であり、普通ならとっくに隠居している程の老齢であった。
 そこで趙悼襄王は使者を派遣して、廉頗が老衰や耄碌していたりしないか、まだ現役の将軍として戦えるかどうかを確認させようとした。
 そこで廉頗が趙にいた頃からの政敵で、趙王と同様に不仲だった郭開が、廉頗復帰の話を潰そうと企んだ。
 郭開は廉頗を陥れようとして、使者に賄賂を贈って買収し、趙悼襄王に出鱈目な報告をさせようとした。


 さて趙王の使者と面会した廉頗は、一食に一斗(いっと)【※5】の飯と十斤(じゅっきん)【※6】の肉を平らげ、その健啖ぶりを誇示した。
 更には甲冑を纏い、馬を見事に乗り回して見せた。
 高齢者とは思えない程の豪傑ぶり、健在ぶりを示し、未だ衰えていない所を見せ付けたが、そんなのは使者にはどうでも良い事であった。
 使者は既に郭開に買収されていたので、事実がどうあれ、元から廉頗の益となるような事を、趙王に報告する気などなかったのである。事実を捻じ曲げて、悪く言い触らす腹積もりだったからである。
 帰国後に使者は趙悼襄王に、次のように復命した。


「将軍(廉頗)は御歳の割には、食欲も旺盛でございました。
 しかしながら、臣と共に座している間に、三度も失禁を致しておりました。」


 それを聞くや趙悼襄王は、「最早老いたか・・・・」とすっかり失望し、廉頗の再仕官の件を白紙とした。
 こうして郭開の姦計により、天下の名将は復活の道を断たれたのであった。


 廉頗はその名将ぶりとは裏腹に、仕える主君に恵まれなかった。先代・趙孝成王の治世に起きた「長平の戦い(ちょうへいのたたかい)」で、廉頗は趙軍総司令官として秦軍と戦い、防御に徹してよくこれを守り抜いた。
 だが秦側の謀略工作による、流言飛語を真に受けた趙孝成王によって、何の失態がないにも関わらず、突如更迭されてしまった。
 廉頗に代わって着任した青年将軍・趙括(ちょうかつ)は、廉頗・藺相如と肩を並べる趙の三傑の一人である、趙奢の息子ではあるが、父親とは違って虚名ばかりが徒に高く、実力がまるで伴わない凡将であった。
 秘かに秦軍の前線司令官として赴任していた名将・白起(はくき)の敵ではなく、趙括は全く歯が立たず、白起にいいように翻弄された。
 そして趙括は敢え無く戦死し、趙軍は大敗した。
 この詳細は 【第二五計 偸梁換柱】の「長平の戦い」の故事(リンク先工事中)で語る。
 そして趙孝成王の子である趙悼襄王に嫌われていた廉頗は、趙悼襄王即位と同時に、「長平の戦い」の時と同様、またもや更迭された。今度は趙悼襄王個人の私怨によるものである。
 こうして廉頗は趙王の親子二代に亘って、立て続けに理不尽な処遇を受けたのであった。
 趙への帰還の望みが絶たれた後、廉頗は南方の超大国・楚から迎えられ、楚の将軍の地位を授けられた。しかし特に軍功を挙げる事もないまま余生を送った。





後続  故事其之貮 ─ 丙
趙の最期──────秦の離間策。奸臣・郭開を利用して、趙の名将・李牧を抹殺する。





 ♚ 宿将・廉頗、趙を去る

【第一計 瞞天過海】の故事である【趙の名将・李牧、防戦に徹した後に大勝する。】の後日譚である。


 紀元前245年に趙の第8代国君・趙孝成王【ちょうのこうせいおう:姓は嬴(えい)、氏は趙(ちょう)、名は丹(たん)】が死に、その太子である趙偃(ちょうえん)が即位した。これが第9代国君・趙悼襄王(ちょうのとうじょうおう)である。
 趙悼襄王の即位元年である紀元前245年に、趙のみならず天下に武名の轟いた名将・廉頗(れんぱ)が、趙から隣国・魏へと亡命した。その経緯は新君である趙悼襄王の愚かさにある。
 趙悼襄王は太子時代から、廉頗とは仲が悪かった。だからこそ廉頗に何の落ち度がないにも関わらず、私怨により廉頗を将軍の任から罷免し、楽乗(がくじょう)と交替させてしまった。
 それに憤った廉頗が、その腹癒せに後任の将軍・楽乗の軍を攻め立てて撃破した。
 これにより謀反したも同然の廉頗は、それ以上趙にはいられなくなり魏へと亡命した次第である。
 こうして趙悼襄王の祖父・趙恵文王【ちょうのけいぶんおう:姓は嬴(えい)、氏は趙(ちょう)、名は何(か)】の治世以来、趙の大黒柱的存在として秦や列国からも恐れられ、趙の重鎮として支えてきた三傑──────藺相如(りんしょうじょ)・廉頗・趙奢(ちょうしゃ)──────の最後の一人までも失ってしまった。
 藺相如と趙奢は既にこの世を去っていた。






 ♛ 常勝将軍・李牧──────秦が最も恐れた男

 そこで趙王は、雁門で匈奴の侵攻を撃退した功績から、李牧を将軍に任じて、燕を攻略させ、平陽(へいよう)【※1】方城(ほうじょう)【※2】 を陥落させた。
 紀元前243年に趙の将軍・龐煖(ほうけん)が、燕の将軍・劇辛(げきしん)率いる燕軍を撃破し、龐煖は劇辛を討った。
 紀元前236年に、趙悼襄王が治世9年目にして死んだ。
 それに伴い、趙悼襄王の太子・趙遷(ちょうせん)が即位した。これが趙最後の国君となった第10代・趙幽繆王(ちょうのゆうぼくおう)である。
 紀元前234年には、趙軍は秦軍に敗れた。武遂において趙の将軍・扈輒(こちょう)が討たれ、首級十万を獲られた。
 そこで趙幽繆王は扈輒に代わって、李牧を大将軍(総司令官)に任命し、秦軍に当たらせた。李牧は宜安(ぎあん)【※3】において秦軍を大破し、秦の将軍・桓齮(かんき)を敗走させた。
 その功により趙幽繆王は、李牧を武安君(ぶあんくん)に封じた。
 その3年後に、秦は番吾(ばんご)【※4】に攻めて来た。迎え撃った李牧は秦軍を撃破し、更に国境南の方では、韓・魏二国の軍の侵攻を撥ね返した。
 紀元前229年には、秦は王翦(おうせん)を将軍として軍を率いさせ、趙へ攻め込ませたが、対して趙は李牧と司馬尚(しばしょう)に命じてこれに当たらせた。李牧・司馬尚の両将はよくこれを防ぎ、秦軍を手古摺らせた。


 そこで秦は李牧と司馬尚、特に李牧とはまともに戦っても勝てなかったので、厄介この上ないこの難敵を、謀略によって排除しようとした。
 秦は趙幽繆王の寵臣で、腹黒い奸臣でもある郭開(かくかい)に、多額の賄賂を贈って籠絡した。
 この郭開の讒言により、李牧という趙の大黒柱は無念の死を遂げる事となる。





後続  故事其之貮 ─ 乙
承前  故事其之貮 ─ 乙





 ♔ 中山国の公子の例

 中山国に一人の身分の低い公子がいた。
 だが生活が困窮していて、馬は酷く痩せ細っており、馬車も老朽化していて、あちこちがボロボロに破損していた。
 中山王の左右に侍る近侍の中に、この公子と仲の悪い者がいて、その近侍は公子を陥れようと画策した。
 まずはさもこの公子の為に、中山王に取り成すように見せ掛けたのである。


「大王様、公子は酷く貧しいので、馬も痩せ衰えております。せめて馬の飼葉だけでも御増やしになられては如何にござりましょうや?」


 だが中山王はこれを却下した。
 その後、近侍は秘かに宮殿の秣小屋に放火をして、さもその公子が自分に何も与えてくれなかった事の腹癒せに、中山王への当て付けの為にしでかしたかのように見せ掛けた。
 中山王は調査もせずに公子の犯行だと決め付け、公子を誅殺した。





 ♕ 甘茂の策謀

 この項で本故事の最後とするが、出典元はこれまでの事例と異なり、第三十四篇『外儲説 右上』からである。


 甘茂(かんも)は秦恵文王【しんのけいぶんおう:本名は嬴駟(えいし)】に、宰相として仕えていた。
 そんな時期に上記の【陳需の策略】の項でも紹介した犀首こと公孫衍が、上述の経緯から魏王の咎めを受けて、秦へ落ち延びて来た。
 秦恵文王は公孫衍を大層気に入った。そして秦恵文王は公孫衍に対して、秘かに胸中を打ち明けた。


「その内そなたを宰相に据えようかと思うのだが。」


 この遣り取りを甘茂の部下がこっそりと壁の穴から盗み聞きし、甘茂に知らせた。


 甘茂は宮廷に出仕して秦王に拝謁するや、祝辞を述べた。


「大王様におかれましては、賢相(優れた宰相)を得られて誠におめでたき事に存じます。臣は敢えて再拝し、祝賀申し上げます。」


 怪訝に思った秦恵文王は言った。


寡人(かじん)【※9】は国事をそなたに託しておる。何故更に賢相を求めようか?」


 甘茂は答えた。


「大王様は犀首(公孫衍)を宰相に任じられるおつもりでございましょう。」


 それを聞き、秦恵文王は顔色を変えて問い質した。


「そなたはどこでそのような事を聞いたのか!?」

「犀首が臣めにそう申されました。」


 それを聞き秦恵文王は、公孫衍が秘密を漏らしたと信じ込み、怒って公孫衍を秦から追放したのであった。


 ちなみにこの甘茂の孫の甘羅(かんら)を主人公とした逸話は、 【第二六計 指桑罵槐】の故事(リンク先工事中)で語る。





『韓非子』に見られる借刀殺人の数々の事例。

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