| 「さあ!斉公(斉桓公)よ!これまでに魯から奪い取って来た土地を、全て我が魯に御返し願いましょうぞ!」 |
| と、殺気を込めながら、物凄い剣幕で一喝した。 |
| 脅迫に恐れ慄いた斉桓公は、やむを得ずこれを承諾し、当初の思惑とはあべこべに、折角獲得した領土を返還する誓約を交わす羽目となった。 |
| 曹沫にしてみれば、敗戦して領土を次々失ってしまった落とし前を着け、失地を取り戻したのであった。 |
| 衆人の前で斉桓公に誓いを立てさせ、目的を果たした曹沫は、匕首を捨てて再び群臣一同の席に戻った。こうして会盟は魯側の逆転勝利で終わった。 |
| 後日斉桓公は、この事を恥じ、怒りに震えた。 |
| 「刃を突き付けられ、無理矢理交わさせられた誓いなど、守る必要はあるまい!」と言い、魯に領土など返さず、そして満座の中で恥を掻かせた曹沫を殺そうと思った。 |
| だが宰相の管仲がそれを諌めた。 |
| 「如何に脅された上での事とは言え、一旦これを承諾しながら、後になってから信義に背いて殺すのは、一時の些細な快を得るに過ぎませぬ。 |
| その代償として、諸侯からの信用を失い、天下からの支持を失いましょう。それはなりませぬ。」 |
| それを聞き斉桓公は思い直し、嘗て曹沫が三度戦い、三度敗れて失った魯の領土を、誓約通りに履行し、全て魯に返還したのであった。 |
| これにより斉桓公の名声は天下中に響き渡り、諸侯は斉桓公に信頼を寄せ、斉桓公が春秋最初の覇者となる足掛かりの一つとなったのであった。 |
| 正しく「禍転じて福と為す」を地で行ったのであった。 |
| 一国の君主相手に堂々と刃を突き付けて領土を奪い返したという、並外れた胆力の曹沫も、それを逆手に取り、主君に天下の名声を博させた管仲も、一時の恥と損失を忍んで、管仲の献策を容れる度量を見せた斉桓公も、三者三様ながら然(さ)る者であったと言う他ない。 |
| その後の曹沫がどのような生涯を送ったか、いつ死んだのかも不明である。 |
| だがこれ以降、魯は古い体質や因習に囚われて、国力を次々衰退させて行き、反対に斉は管仲の一連の国政改革を土台として、管仲や斉桓公の死後も、天下有数の強国として存続して行く事になる。 |
| 「長勺の戦い」を最後に、魯が斉に対して優位に立てた例は、遂に訪れる事はなかった。 |
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| 「長勺の戦い」──────曹沫の疲弊待ち戦術。攻撃を二度待って、強敵・斉軍に圧勝する。 |
| 了 |
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| 何故止めるのか怪訝に思わせながらも、曹沫は兵車から降りて、敵軍の兵車の轍(わだち)の跡を調べ出した。 |
| そして確認が済んでから、曹沫は兵車の軾(しょく)【※7】に上り、敵軍の様子を眺め出した。 |
| そして様子見を終えるや、可と判断し、追撃を命じた。この追撃戦により、魯軍は更に決定的な打撃を斉軍に与え、大戦果を得る事に成功した。 |
| 曹沫の采配により、魯は強国・斉を相手に、奇跡的な大勝利を果たしたのであった。 |
| 戦勝後に魯荘公は、曹沫を宮中に召して何故勝てたのかその理由と、不可解な行為の訳を尋ねた。 |
| 後者はすなわち、先の一戦において、敵軍が太鼓を三度打ち鳴らすまで攻撃を掛けさせなかった事と、敵軍を大破した直後に、すぐには追撃をせずに何やら調べていた事の二点である。 |
| それに対し、まずは「何故勝てたのか?」について、曹沫は答えた。 |
| 「そもそも戦とは、気力こそが肝要でございます。 |
| 一度目の太鼓でその気力を湧き立たせ、二度目の太鼓で衰え、三度目の太鼓で枯れてしまいます。 |
| 故に一度目の太鼓では、まずはこれに応じず、二度目の太鼓でもまだ応じませぬ。 |
| そうすると敵の気力は衰えます。三度目の太鼓を打った時には、最早敵は疲れ果て、気力は枯れております。 |
| 敵軍は枯れ果て、反対に我が軍は気力が満ち満ちております。それゆえに我が軍は勝てたのでございます。」 |
| 続いて、追撃前の不可解な行為の疑問にも、曹沫は答えた。 |
| 「斉の如き大国は、測り難いものがございます。 |
| それ故に臣は斉軍が敗走を装い、我が軍を誘き寄せ、伏兵を仕掛けられる事を懸念したのでございます。 |
| そこで臣は敵軍の兵車の轍(わだち)の跡を調べ、また退却する敵軍の様子を観察したのでございます。 |
| 轍の跡は乱れており、敗走する敵の動きも足並みが整然としておらず、軍旗は靡いており、先を争って逃げている様子が見て取れました。 |
| 故に我が軍を誘う為の偽りの退却ではなく、本物の退却であると確信するに至り、追撃を掛けさせたのでございます。」 |
| 最初は斉軍が優勢であり、斉が「逸」で、魯が「労」であった。だが敵の疲弊を辛抱強く待って、曹沫は自軍を「逸」に、斉軍を「労」の立場に逆転させたのであった。 |
| 曹沫の以逸待労策による大勝利であった。 |
| しかしその後は残念な事に、曹沫も思ったようには振るわなかった。 |
| 「長勺の戦い」以降も、曹沫は将軍として魯軍を率いたものの、名宰相・管仲の執政下で更に強大化された斉軍には勝てなくなって行った。曹沫は斉軍と三度戦い、三度とも敗れ去った。 |
| これ以上は限界と見切りを付けた魯荘公は、とうとう斉との国境近くにある遂(すい)という邑を差し出して、斉桓公に講和を申し出た。 |
| 斉桓公はそれを承諾し、斉領内にある柯(か)という地で、魯荘公と会盟(かいめい)【※8】を催した。 |
| 魯斉両国の君主始め、両国の文武百官が居並ぶ中、壇上にて魯荘公が遂邑を献上する旨の誓約書を書こうとした矢先、曹沫は突然壇上まで駆け上がって来た。 |
| そして曹沫は斉桓公に近付き、忍ばせていた匕首【あいくち:短剣の事】を抜き出して、斉桓公に突き付けた。 |
|
| 「それこそは正に忠に類する在り様でございます。それでこそ一戦交える事が出来ます。 |
| 民も必ずや君命に従うでありましょう。戦を為さるならば、臣(しん)【※6】も共に参じましょう。」 |
| こうして曹沫の輔佐の下、魯荘公は自ら武装して出陣した。 |
| 魯荘公は身分の低かった曹沫を将軍に抜擢し、曹沫を自身の乗る兵車に同乗させ、作戦全般の指揮を委ねた。 |
| これ等は士の身分である曹沫に対して、破格の待遇である。そして曹沫はその厚遇と期待に、見事なまでに応え切る。 |
| さて魯領内の長勺(ちょうしゃく)の地で、魯斉両軍ともいざ相対峙した。 |
| 相手の斉軍を率いる将は、斉桓公が即位する前の公子時代からの腹心であり、斉きっての切れ者として名高い賢大夫・鮑叔牙(ほうしゅくが)である。 |
| 余談だがこの鮑叔牙は、この前年に斉桓公即位とほぼ同時に、新しく斉の宰相に抜擢されたばかりで、斉の全盛期を現出させ、斉桓公を春秋最初の覇者にまで仕立て上げた名宰相・管仲の無二の親友であり、管仲を主君・斉桓公に推挙した功績があった。 |
| 鮑叔牙は親友の管仲が、公子小白(斉桓公)の異母兄で、公子小白の後継者争いのライヴァルとなった公子糾【姓は姜(きょう)、氏は呂(りょ)、名は糾(きゅう)】の側近として仕えた為に、一時の間政敵同士の間柄となった。 |
| そして管仲は主君の公子糾を斉の国君に即位させる為に、邪魔な公子小白を暗殺しようとして不運にも失敗し、公子小白・鮑叔牙等に出し抜かれ、斉の国君の座を奪われてしまった。 |
| その為に本来なら斉桓公によって処刑される処を、腹心の鮑叔牙の進言のおかげで、一躍宰相に抜擢されたのである。 |
| この管仲と鮑叔牙の二人の友情は生涯変わる事なく続き、後世において「友とはかくあるべし」、すなわち親友同士というものの模範・理想像と称賛されるようになった。 |
| それこそが「管鮑の交わり(かんほうのまじわり)」という故事成語の由来となった。 |
| 話を戻して、こうして曹沫の名を史上高からしめた一戦「長勺の戦い」が始まった。 |
| だが曹沫の行動は奇妙であった。魯荘公がいざ太鼓を打って、開戦と突撃の合図を掛けようとすると、曹沫はそれを、 |
| と言って、押し止めたのである。 |
| 斉軍が一度目の出撃の合図の太鼓を打ち鳴らし、魯軍に攻め掛かって来た。 |
| だが曹沫の指示により、魯軍は一切攻勢に打って出ず、防御を固めて、ひたすら防戦に徹する一方であった。 |
| その為に斉軍は思わしい戦果を挙げられず、一先ずは後退し、陣形を整え、態勢を立て直した。 |
| そして続く二度目。斉軍は再び出撃の太鼓を打ち鳴らした。 |
| だが魯軍はこれまた前回同様一切反撃せずに、ただひたすら防戦一方であった。 |
| そして斉軍はまたもや、決定的な打撃を魯軍に与え損なった。 |
| 再び肩透かしを食った形になった、斉軍の司令官・鮑叔牙が焦り出した。見縊っていた相手に、思うように勝利をもぎ取れずに、内心動揺し始めた。 |
| そして斉軍は三度目の太鼓を打ち鳴らした。 |
| これに及んで曹沫は、遂に時が来たとばかりに、陣太鼓を打ち鳴らさせ、出撃の号令を下した。これまでひたすら受け身的な構えだった魯軍を遂に動かしたのである。 |
| すると驚く事に、曹沫率いる魯軍は、自分たちよりも強敵である筈の斉軍を、不思議な程に一方的に撃破して行った。 |
| そして斉軍はとうとう大敗し、退却を始めた。 |
| すっかり有頂天になった魯荘公が、太鼓を打ち鳴らして追撃を開始しようとした処を、曹沫は一旦制止した。 |
|
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| 「長勺の戦い」──────曹沫の疲弊待ち戦術。攻撃を二度待って、強敵・斉軍に圧勝する。 |
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| 春秋時代前期の支那。後世儒教の祖・孔子【こうし:本名は孔丘(こうきゅう)】を生む事になる魯の国は、周王室とは同族の姫姓の諸侯国の一つである。 |
| そして周王朝創建の元勲の一人であり、周王朝初代・周武王【しゅうのぶおう:本名は姫発(きはつ)】の弟でもある、聖人・周公旦【しゅうこうたん:本名は姫旦(きたん)】の血統を継ぐ末裔である。 |
| その魯に北の隣国・斉が侵攻して来た。時は紀元前684年の事件である。 |
| 魯では第16代国君・魯荘公【ろのそうこう:本名は姫同(きどう)】の即位から数えて10年目の治世の事であった。 |
| そして斉では前年の紀元前685年に、兄弟間の骨肉の後継者争いを制した公子小白【姓は姜(きょう)、氏は呂(りょ)、名は小白(しょうはく)】が、第16代国君に即位したばかりだった。 |
| この斉公室の後継者争いの経緯については【第二一計 金蝉脱殻】の故事(リンク先工事中)で語る。 |
| この姜小白こそが、史上最高峰の名宰相・管仲【かんちゅう:本名は管夷吾(かんいご)】や鮑叔牙(ほうしゅくが)等賢臣の輔弼を受けて、春秋最初の覇者となり、斉の全盛期を現出させる名君・斉桓公(せいのかんこう)である。 |
| 斉は周王室とは異姓の諸侯ではあるが、その始祖は周文王【しゅうのぶんおう:本名は姫昌(きしょう)】・周武王の二代に軍師として仕えた天才的な兵略家で、前代の殷王朝を倒す最大の功労者となった太公望【姓は姜(きょう)、氏は呂(りょ)、名は望(ぼう)】である。斉の国はこの、周王朝創建の元勲・太公望の血統を継ぐ末裔である。 |
| 斉の侵攻に対し、魯荘公は応戦しようとした。だが斉は強国であり、国力・軍事力は魯をも上回っていたので、まともに戦ったのでは勝算は見い出せなかった。 |
| 「いや、肉食の者たちは見識なく、思慮も浅い。遠い先を慮る事が出来ない。」 |
| と批判した。 |
| そして本来ならば、君主である魯荘公に拝謁出来る身分ではないのだが、危急の事態のせいか、魯荘公が聡明で度量が広かった為かは不明だが、とにかくも謁見が叶った。そこで曹沫は魯荘公に問い質した。 |
| 「君公は一体何を以って、斉軍と戦われるのでありましょうや?」 |
| 「衣食を決して独り占めしたりせず、必ず人々に分け与えておる。」 |
| 「それは小恵(小さな恩恵)であって、全ての民に行き渡ってはおりませぬ。故に民は従わぬでしょう。」 |
| 「それは小信(小さな信義)に過ぎませぬ。それでは神は、福を御授けにはなりませぬ。」 |
| 「民の訴訟事を大小問わず、例え全てを明白に察する事叶わぬとしても、それでも必ず誠意を以って臨んでおる。」 |
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| 解題の「剛を損して柔を益す。」の箇所は、『易経』の卦に関するもので、不可解なので省略した。 |
| 「逸」とは「優勢・有利な立場・状態」の事であり、「労」とは「劣勢・不利な立場・状態」の事である。自軍が「逸」の時はそれを保ち、自軍が「労」な時は仕掛けず、自軍が「逸」、相手が「労」になるまでじっと待つ。 |
| この計略は諺にある「待てば甘露の日和あり。」「待てば海路の日和あり。」を、軍事面やそれ以外で実践するものと言える。つまり積極的に攻勢に出るのではなく、相手の疲労や弱体化を辛抱強く待つ計略である。 |
| だからと言って、待っている間は決して何もしないで、無為に過ごす訳ではない。相手の士気・戦闘力・態勢等を弱めさせる為に、様々な施策を打ち出す、いわば「積極的防御の戦術」である。 |
| 『孫子(そんし)』の第六篇『虚実篇(きょじつへん)』の中の一節に曰く。 |
| 『凡(およ)そ先に戦地に処(お)りて敵を待つ者は佚(いつ)し、後れて戦地に処りて戦いに趨(おもむ)く者は労す。 |
| 故に善く戦う者は、人を致して人に致されず。 |
| 能(よ)く敵人(てきじん)をして自ら至らしむるは、これを利すればなり。 |
| 能く敵人をして至るを得ざらしむるは、これを害すればなり。 |
| 故に敵佚すれば能くこれを労し、飽けば能くこれを饑(う)えしめ、安ければ能くこれを動かす。』 |
| 【意味:敵よりも先に戦場に到着して、敵が来るのを待つ者は、余裕を持って戦えるが、反対に敵よりも遅れて戦場に到着する者は、苦戦を強いられる。 |
| だから戦巧者は、相手を自分の作戦に乗せ、決して相手の作戦には乗らない。 |
| 敵に作戦を起こさせるには、そうすれば有利だと思わせる事である。 |
| 反対に敵に作戦を思い止まらせるのは、そうすれば不利だと思わせる事である。 |
| 故に敵が優勢であれば、あらゆる施策を講じて疲労させ、敵の糧食や補給が充実していれば、補給路を断って飢餓や物資不足に追い込み、敵の備えが万全であれば、策略を用いて備えを崩す。】 |
| 同じく『孫子』の第七篇『軍争篇(ぐんそうへん)』の中の一節に曰く。 |
| 『故に三軍は気を奪うべく、将軍は心を奪うべし。 |
| この故に朝の気は鋭(えい)、昼の気は惰(だ)、暮(くれ)の気は帰(き)。故に善く兵を用うる者は、その鋭気を避けてその惰帰(だき)を撃つ。これ気を治むるものなり。 |
| 治を以って乱を待ち、静(せい)を以って譁(か)を待つ。これ心を治むるものなり。 |
| 近きを以って遠きを待ち、佚(いつ)を以って労を待ち、飽を以って飢(き)を待つ。これ力を治むるものなり。 |
| 正正(せいせい)の旗を邀(むか)うることなく、堂堂(どうどう)の陣を撃つことなし。これ変を治むるものなり。』 |
| 【意味:故に敵軍の士気を削ぎ、敵将の心を乱す事が出来るのである。 |
| 人の気力というのは、朝は旺盛で、昼は惰れて、暮には休息を求める。 |
| それ故に戦巧者は、敵の士気が旺盛な時は戦いを避けて、敵の士気が低下した時を狙って攻撃する。これが気(士気)を掴むという事である。 |
| 自軍の態勢を整え、敵の態勢の乱れるのを待ち、じっと動かず鳴りを潜めて、敵が仕掛けて来るのを待つ。これが心(心理)を掴むという事である。 |
| 有利な地に布陣して遠くから来る敵を待ち、十分に休養を取って敵の疲労を待ち、十分に食べて敵が飢えるのを待つ。これが力(戦力)を掴むという事である。 |
| 隊伍を整えて進軍して来る敵、強固な陣を構えている敵とは、正面から当たるのを避ける。これが変(変化)を掴むという事である。】 |
| 以上引用したように、こちらが戦いの主導権を握り、終始優勢な立場に立って戦えるように、あらゆる方策を用いて、敵を疲労させたり、食糧・物資などを枯渇させて、劣勢な状態に追い込むのである。 |
| 自軍の方が劣勢な場合は、いきなり直接的に打って出る事は避け、専ら防備に徹して、相手の失策や弱体化を待ち続ける。 |
| そうしていれば、一日が朝から昼へ、昼から夕へ、夕から夜へ、夜から朝へと変化し、一年の季節が春から夏へ、夏から秋へ、秋から冬へ、冬から春へと移り変わって行くように、彼我の力関係にも変化や逆転する時が訪れる。 |
| つまり両者は流動的・相対的なものであって、「逸」は常に「逸」ではなく、「労」も常に「労」ではない。強く優勢な敵も、弱く劣勢な敵も、両者ともいつまでも同じ状態のままで固定されている訳ではなく、いつかは変化する時が来る。 |
| その間に優勢な方は逆転されない為に、主導権を奪われないように意を払い、劣勢な方は策略を駆使しながら、相手の力を削いで行く。 |
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