YAMINABE the Second Operation

この11年間の数多くの思い出を携え、私は新たな旅へと出発します。それでは皆さん、御達者で。

第九計 隔岸観火

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承前  故事其之壹 ─ 辛





 ♘ その後

 この若敖氏の乱を鎮圧平定して、後日楚荘王は諸将諸大夫たちへの労いも込めて、宮中で戦勝祝賀会の酒宴を催した。
 そしてその席で臣下の過ちに対して、広い度量を示してみせた事で、後年絶体絶命の危機を脱する事となる。
 その時の酒宴及びその故事は、後世「絶纓の会(ぜつえいのかい)」と呼ばれる。
 この故事は楚荘王の名君としての器量を表す逸話として、後世まで語り継がれる事となる。
 それについては【第二六計 指桑罵槐】の故事で語る。


 そして先の克黄の他にも、生き延びた一族の者がいた。謀反の首謀者・闘椒の子である闘賁皇(闘棼皇)である。
 闘賁皇は父の起こした謀反には加担せずに、禍を避ける為に晋へ出奔した。
 そして晋において苗(びょう)の地を賜り、苗氏を名乗るようになった。


 この闘賁皇(闘棼皇)改め苗賁皇(苗棼皇)こそが、後年父の汚名を晴らすが如く、紀元前575年に起きた、晋楚両国の覇権を懸けた決戦「鄢陵の戦い(えんりょうのたたかい)」で、晋軍の軍師として活躍し、晋軍を再び勝利へと導く。
 この「鄢陵の戦い」の詳細は、【第一八計 擒賊擒王】の故事(リンク先工事中)として語る。
 この時は既に楚荘王も亡く、楚荘王の子の第24代国君・楚共王【そのきょうおう:姓は羋(び)、氏は熊(ゆう)、名は審(しん)】の治世となっていた。


 晋はこの一戦から22年前の紀元前597年に起きた、「邲の戦い(ひつのたたかい)」で楚荘王率いる楚軍に敗れた。
 それにより晋文公が「城濮の戦い」で楚に勝利して以来、保持して来た覇権を楚に奪われてしまった。
 この「邲の戦い」の詳細は、【第一ニ計 順手牽羊】の故事(リンク先工事中)として語る。
 だがこの「鄢陵の戦い」で再勝利する事でその借りを返し、覇権を再び晋の手元へと取り戻した。
「邲の戦い」も「鄢陵の戦い」も、呼称の由来はどちらも「城濮の戦い」と同様、戦場となった地である邲(ひつ)・鄢陵(えんりょう)【※27】の名に起因する。


 そして若敖氏の反乱の口火を切る犠牲となって、闘椒に殺された蔿賈は、楚荘王の信頼厚い謀臣であった。政治・軍事共に傑出した手腕を誇っていた。
 蔿賈は楚荘王を覇者に仕立て上げる事を夢見ていたが、闘椒の恨みを買った事で、道半ばにして無念にも殺されてしまい、その夢は自身の代では遂に叶わなかった。
 だが蔿賈の子の蔿敖(又は蔿艾猟)、一般に「孫叔敖」と呼ばれたその子は、楚史上最高峰の令尹(つまり名宰相)で、春秋戦国時代全体を通じての屈指の賢相であったので、楚荘王をよく輔弼して内政をよく整えた上に、前出の「邲の戦い」において楚軍を勝利に導き、楚荘王を一躍春秋覇者にまで押し上げた立役者となった。
 父の蔿賈が果たせなかった夢は、子の孫叔敖の代で実現されたのであった。
 この名宰相・孫叔敖が絡んだ逸話に関しては、【第二六計 指桑罵槐】の故事で語る。





若敖氏の滅亡──────晋の趙盾、楚の闘椒の自滅を待つ。
承前  故事其之壹 ─ 庚





 反乱軍の将・闘椒は、楚荘王の乗車している兵車(戦車)目掛けて矢を射た。
 一本目の矢は楚荘王の体には当たらなかったが、兵車の轅(ながえ)【※22】の上を過ぎ、楚荘王の兵車の前に据えてあった戦鼓の台を突き抜け、台の下にあった銅鑼に突き刺さった。


 続いて二射目である。二本目の矢は轅を過ぎて、車蓋(しゃがい)【※23】の天辺部分を突き落とした。
 その光景を見た楚の正規軍は、恐れて退却し始めたり、崩壊しそうになったが、楚荘王はそれを押し止める為に、軍中に伝え回らせた。


「その昔、我が先君たる楚文王が、息(そく)【※24】を攻め戦いに勝った時、名だたる三本の矢を得られた。
 伯棼(闘椒)はその内の二本の矢を盗んでいたが、今やその矢も二本とも射尽くしてしまった。最早恐れるに足りぬ。」


と言い、全軍の士気を鼓舞して、出撃の合図の太鼓を打ち鳴らさせた。
 これにより形勢は定まり、闘椒と闘椒率いる闘氏の軍勢は忽ちにして撃破された。闘椒は戦死あるいは自害し、一族は悉く討たれた。


 こうして闘氏(若敖氏)の氏祖・闘伯比以来の名族は、遂に滅び去ったのであった。
 正しく闘穀於菟と晋の趙盾の予言が現実のものとなった瞬間であった。
 闘椒はその持って生まれた不吉さ、何かに呪われた運気により、一族を滅亡に追いやったのであった。
 こうして晋から見れば、趙盾の意図した隔岸観火策は見事に成就したのであった。
 晋は一兵も損なう事なく、強敵・闘椒とその一族を滅ぼす事に、上手く成功したのであった。


 しかし若敖氏にはまだ生き残りがいた。この時たまたま斉へ使者として国外に出ていたので、闘椒の反乱には加わらずに済んだ者がいた。
 亡き賢人・闘穀於菟の孫で、箴尹(しんいん)【※25】という官職に就いていた克黄(こくこう)という人物であった。
 父親が誅殺された闘般なのかどうか、氏が「克」で名が「黄」なのか、それとも「克黄」という二字名で「闘克黄」というのか、それ等が今一つ不明である。だから「克黄」と呼ぶ。
 その克黄が斉での使者としての任を終え、楚へ帰国する途上で、自分の一族の謀反を知った。この時点では既に乱が鎮圧されていたのであろうか。
 従者たちは「危険ゆえ楚へ帰ってはなりませぬ。」と止めた。
 言うまでもなく、克黄は若敖氏の一員であるから、連坐で誅殺される確率が高かった。だからこそ大抵は本国へ帰国せず、国外へ亡命する。
 だが克黄はそれに反論した。


「君命を棄てるような者など、この先誰が受け入れてくれよう?君はすなわち臣下にとって天であり、その天からは逃れる事は出来ぬのだ。」


 そう言って克黄は、帰国して楚荘王に復命を済ませた後に、自ら司敗(しはい)【※26】の下まで出頭して、一族と共に謀反の罪に服そうとして身柄を拘留された。
 楚荘王は克黄の祖父・闘穀於菟が、生前には優れた令尹として、長年に亘って楚を治め抜いた多大な功績を鑑みて、その孫の克黄を罪に問うて処刑するに忍びなかった。


「子文(闘穀於菟)のような立派な功臣の家に子孫が絶えてしまうようでは、この先何を以って群臣に善行を勧められようか?」


 そう言って楚荘王は、克黄には罪なしと不問にし、元の官職に復帰させた。
 そして名を「生(せい)」と改名させた。「克生」となったのか、それとも「闘生」となったのかは不明である。





後続  故事其之壹 ─ 壬(完結編)
承前  故事其之壹 ─ 己





 更に闘穀於菟は泣き出しながら言った。


「人がもし鬼(き)【※15】となっても、尚食物を欲しがるものだとしたら、(子孫が絶えて誰も鬼の祭祀を行わなくなるので)我が若敖氏の鬼はきっと飢えに苦しむ事になるであろう。」


 だがこのような遺言も虚しく、一族は遂に災禍を免れる事は出来なかった。
 没年がいつの年かは不明だが、このように一族の将来を憂えながら、人格・手腕共に優れた賢大夫・闘穀於菟はこの世を去ったのであった。





 ♖ 闘椒の怨恨

 闘穀於菟が死ぬと、闘穀於菟の子、すなわち闘椒の従兄弟の闘般(子揚)が令尹に就任した。
 闘椒は司馬(しば)【※16】に就任し、蔿賈は工正(こうせい)【※17】に就任した。
 時代は変わっており、楚成王が太子に立てた公子商臣に弑殺され、父王を弑殺した公子商臣は即位して、第22代国君・楚穆王となった。
 この弑逆事件は【第一三計 打草驚蛇】の故事で語る。
 そして楚穆王も治世12年目の紀元前614年に死んで、楚穆王の長男の太子侶が翌紀元前613年に即位した。これが第23代国君・楚荘王である。
 そして楚荘王の治世7年目の紀元前607年に、冒頭の『序』の節で述べた通り、闘椒は軍を率いて、晋を盟主とした諸侯連合軍に攻められている、鄭への救援に駆け付けた。
 そして晋軍を率いていた晋の正卿(宰相)・趙盾に、闘椒とその一族は将来の滅亡を予言されたのである。
 楚晋両軍とも直接戦う事なく、互いに軍を引き揚げさせて少し経ってから、楚の政界である事件が起こった。


 工正の蔿賈が、闘椒の従兄弟でもある令尹の闘般を讒言した。
 史書には『蔿賈が闘般を讒言した。』とあるだけで、その具体的な経緯・内容までは不詳である。
 だから客観的に見て、本当に讒言だったのか、どちらに非があるのかも定かではない。
 だがそれはともかくとして、その結果闘般は誅殺され、代わって闘椒が新しく令尹に昇格し、それによって空席となった司馬の職位を、代わって蔿賈が埋める事となった。
 先年の「城濮の戦い」で蔿賈が成得臣(と闘椒たち)の敗北を予言した事で、闘椒の蔿賈に対する疑惑が募り、それに加えて今回のこの一件で、従兄弟が死に追いやられた事も重なって、闘椒は蔿賈を酷く恨むようになった。





 ♗ 叛──────名族の終焉

 そうして趙盾の予言から2年後の紀元前605年に、闘椒は遂に若敖氏(闘氏)一族を率いて、憎悪と怨恨の積もる蔿賈を襲撃し、轑陽(ろうよう)【※18】の地に監禁した後に、蔿賈を殺してしまった。
 そして決行した勢いに任せて闘椒は、とうとう国君である楚荘王に対してまで反旗を翻すに至った。
 その謀反の拠点として、烝野(じょうや)【※19】に籠って楚荘王を攻めようとした。
 楚荘王は三人の先王たち──────楚文王・楚成王・楚穆王──────の公子(息子)たちを人質としてそちらに入れようと提案したが、闘椒はその申し出を突っ撥ねて、漳水(しょうすい)【※20】の畔にまで軍を進めさせた。


 楚荘王は皐滸(こうこ)【※21】の地で、闘椒率いる若敖氏の軍勢と戦った。





後続  故事其之壹 ─ 辛
承前  故事其之壹 ─ 戊





 それで楚の国人たちは闘穀於菟に対して、成得臣の勇猛な気性と、軍紀における厳格ぶりと、手腕の有能ぶりを讃え、推挙した闘穀於菟自身をも祝した。
 そうして蔿賈が、皆より遅れてから闘穀於菟の下に姿を見せた。そして唯一蔿賈だけが、何も祝いの言葉を述べなかった。
 怪訝に思った闘穀於菟がその訳を尋ねると、蔿賈は言った。


「一体何を祝うのでありましょうや?子玉(成得臣)が外で失態を犯せば、推挙された子(し)【※13】が責めを負う事となりましょう。
 大体子玉は徒に気が強く、礼を知らず、民を上手く治められませぬ。
 もしも三百乗(戦車三百台)以上の兵を率いたのなら、子玉は無事には帰って来れぬでありましょうな。」


 蔿賈のこの予言は的中した。
 翌年の紀元前632年の事。北方の最大のライヴァルである晋との間に、晋が勝利して天下の覇権を得るに至る決戦「城濮の戦い(じょうぼくのたたかい)」が起こった。
 時の晋の国君は晋文公【しんのぶんこう:本名は姫重耳(きちょうじ)】である。
 楚成王は晋及び国君の晋文公には天が味方し、力を授けていると見抜き、自軍の戦況の不利を悟り、戦っても負けると判断して軍の撤退を命じた。
 だが成得臣は元来向こう気が強く、気性の激しい上に、先の蔿賈の予言を気にしていたので、君命に従おうとはしなかった。


「臣は何も、強いて功を立てたいのではありませぬ。臣を謗る者(蔿賈)の口を黙らせたいのでございます。」


 命令に逆らう成得臣を楚成王は不快に思い、「ならば勝手にするが良い!」とばかりに、少数の兵だけを残して、楚成王は残りの軍勢を率いて帰国したのであった。
 こうして城濮(じょうぼく)【※14】の地において、成得臣を主将とする楚成王不在の楚軍と、晋軍との間で会戦が行われた。一大決戦「城濮の戦い(じょうぼくのたたかい)」である。
 結果楚軍は晋軍の戦略戦術によって大敗した。この大勝利を以って晋文公は、一躍春秋覇者の座に駆け上がった。
 その一方で戦いに敗れた楚軍主将であり、令尹の成得臣の命運は尽きた。


 戦いの終わった後、成得臣は軍を纏めて楚の領内まで撤収して来たが、楚成王は自分の命令に背いた上に、自軍を敗北に追いやった成得臣に対する怒りが収まらず、決して許す事はなかった。
 それを知った成得臣は、観念して遂に自裁して果てた。こうして蔿賈の予言は的中した。
 以上の「城濮の戦い」の詳細は、【第二八計 上屋抽梯】の故事(リンク先工事中)として語る。
 闘穀於菟はどのような罰を受けたのか、或いは不問とされたのかは不明だが、どちらにしろ成得臣を推挙した闘穀於菟は、面子を潰す結果となった。


 この蔿賈の予言の的中こそが、後年の蔿賈の死と、若敖氏(闘氏)の破滅の要因の一つとなる。
 それと言うのも、先の城濮での一戦で、闘氏一族も多く成得臣の麾下で従軍して戦った。勿論闘椒も従軍していた。
 それで蔿賈の予言が元で、敗戦した上に成得臣が命を落す結果となった事で、闘椒の中で蔿賈に対する疑念(又は怨恨)が湧き起こったのである。





 ♕ 闘穀於菟の遺言

 そして恐らくは一族の当主か、又は最長老の位置にあった闘穀於菟も、やがて年老い寿命が迫った。死ぬ間際に一族を集め、次のように遺言した。


「もしも椒(闘椒)が楚の政(まつりごと)を執るようになったのなら、そなた等は速やかに楚を去るが良い。そうして難を避けるのだ。」





後続  故事其之壹 ─ 庚
承前  故事其之壹 ─ 丁





 そこで仕方なく俸禄の加増の代わりに、楚成王は闘穀於菟が宮廷に出仕して来る度に、肉の干物一束と、乾飯一籠を贈るようにした。
 この習慣は後に楚において、令尹に対する慣習と化した。





 ♟ 狼子は野心なり──────不祥なる「狼の子」

 そしていよいよ闘穀於菟の属する若敖氏(闘氏)に関して、運命的な岐路となった出来事があった。
 いつの年かは不明だが、闘穀於菟の弟・子良(本名不明)に、一人の男子が生まれたのである。
 この子良の子、すなわち闘穀於菟の甥こそが、この故事の主人公である闘椒である。
 生まれたばかりの闘椒を見るや、闘穀於菟はこの赤子に忌まわしさや不吉を見て取り、弟に警告した。


「良いか、必ずこの子を殺すのだ!この子はまるで熊や虎のような姿であり、声はまるで豺狼(さいろう)【※10】のようだ。
 殺さずば必ずや我々若敖氏を滅ぼすであろう!諺にも言う。
 すなわち『狼子(ろうし)は野心(やしん)なり。』【※11】と。
 この子は正しくその狼の子のようなものだ。決して養い育ててはならぬぞ!」


 だが子良はその警告を聞かず、闘椒を育てた。そうしてその結果、闘穀於菟の不吉な予言は、後年的中する事となる。
 この闘椒こそが後年に、若敖氏(闘氏)一族を滅ぼす元凶となるのである。後に晋の宰相・趙盾が発した予言とも一致していたのである。





 ♔ 蔿賈の不吉な予言

 闘穀於菟は軍事的にも功績を挙げ、紀元前655年に軍を率いて弦(げん)【※12】を討ち滅ぼし、弦の国君を黄(こう)に出奔させた。


 紀元前640年には、随を攻伐して、和睦して帰還した。


 紀元前633年に楚成王は、宋を討伐しようとして、闘穀於菟に命じて、軍の演習を行わせた。
 闘穀於菟は成得臣【せいとくしん:字は子玉(しぎょく)】を、自分の後任の令尹に推挙した上に、この役目を委ねた。
 成得臣は先年に軍事的功績を立てた。特に宋襄公【そうのじょうこう:本名は子茲父(しじほ)】との一件である。
 宋襄公は弱小国・宋の諸侯(君主)でありながら、覇者気取りで会盟を催し、その会盟に出席するようにと、自国よりも大国の楚まで呼び付けた。


 楚より格下だと思っていた宋に、僭越な態度を取られて楚成王は怒り、成得臣に宋襄公を辱めるようにと命じたのである。
 命令を受けた成得臣は、軍勢を率いて会盟の場から宋襄公を拉致し、宋国内を荒らし回り、折角の会盟を台無しにした。
 これにより宋襄公の面子は丸潰れとなり、宋襄公の斉桓公【せいのかんこう:姓は姜(きょう)、氏は呂(りょ)、名は小白(しょうはく)】に続く春秋覇者へとなる夢は断たれてしまった。
 この宋襄公との経緯に関しては、【第五計 趁火打劫】の「宋襄の仁」(泓水の戦い)の故事(リンク先工事中)で語る。
 闘穀於菟の推挙は、成得臣のそうした功績や能力を見込んでの推挙である。


 そこで闘穀於菟は軍事演習を朝食前に終わらせ、一人も処罰しなかった。その後は新任の令尹たる成得臣の手に委ねた。
 成得臣は早速猛将ぶりを発揮して、一日掛かりで軍事演習を行い、将兵を厳格に罰した。
 軍令違反の罪か、何の理由かは不明だが、成得臣は七人の兵士を笞打ち、三人の兵士の耳を矢で貫き通した。





後続  故事其之壹 ─ 己

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