| 呂不韋は政治的手腕と見識・判断力に優れ、これだけの権力と財産と名声を築きながらも、遂には終わりを全うする事が出来なかった。 |
| だが不遇な晩年はともかくとして、「奇貨居くべし」の故事で天下を思うように動かし、辣腕の宰相としてその14年間もの執政期間中において、秦王政の天下統一の土台固めを果たした功績は評価されるべきであろうか。 |
| 秦王政は呂不韋を嫌い憎んではいても、その呂不韋のもたらした政治的成果を最大限に活かした。 |
| そうして呂不韋の死から14年後の紀元前221年、自身の治世26年目のその年に、六国を全て滅ぼし尽くして、秦王政は遂に天下統一を果たす。 |
| これにより550年もの長きに亘って続いた戦国乱世である、春秋戦国時代に終止符を打ったのであった。支那史上空前の、特筆大書すべき一大偉業であった。 |
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| 「奇貨居くべし」──────豪商・呂不韋の生涯最大の先行投資と、その栄枯盛衰に満ちた生涯。 |
| 了 |
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| 嫪毐の反乱鎮圧の翌年の紀元前237年の事。秦王政は相邦・呂不韋を罷免した。 |
| 斉人の茅焦(ぼうしょう)の進言により、秦王政は母太后を幽閉していた雍の地から国都・咸陽へ呼び戻し、それと入れ替えるかのように、呂不韋を封地のある河南へと遠ざけた。 |
| しかしこれまでに秦を支え続けて来た、呂不韋の声望や実力は尚も絶大なものがあり、その有形無形の影響力を保持していた。 |
| 呂不韋が国政の場から追放され、封地に押し込めらてから一年以上が経った。それにも関わらず、呂不韋の交流は相変わらず盛んであった。 |
| 天下中の諸侯の賓客や使者が、それこそ引っ切り無しに呂不韋に謁見・面会を求めて、呂不韋の邸宅を訪問していたのである。 |
| やはり天下最大最強の国の頂点(秦王を除いて)に立ち、事実上天下を支配していたも同然であった超大物政治家の威光は、国政の第一線から斥けられていても尚健在であった。 |
| そんな未だに天下に影響力を保っていた呂不韋の力と、謀反を起こされるのを恐れた秦王政は、呂不韋に次のような信書を書き送った。 |
| 「君(きみ)、何の秦に功あって、秦(しん)君(きみ)を河南に封じ、十萬戸(じゅうまんこ)を食(は)ましむる。 |
| 君、何の秦に親(しん)あって、號(ごう)して仲父と称する。 |
| それ家属(かぞく)と徙(うつ)りて蜀に處(を)れ。」 |
| 【意味:そなたは一体秦に何の功績があって、秦はそなたを河南の十万戸の地に封じたというのか? |
| そなたは秦と一体何の血縁があって、仲父と名乗っておるのか? |
| 一族と共に蜀の地へ移り住め。】 |
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| ♝ 栄耀栄華を極めた果てに──────一代の傑物の最期 |
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| この信書を受け取り、呂不韋はこれからも徐々に自分の権勢が削ぎ落とされて行き、早かれ遅かれ最終的には、何らかの口実を設けられて、必ず誅殺に至るであろうと予測した。 |
| 最早観念し、己の未来と人生に見切りを付けた呂不韋は、遂に酖(ちん)【※34】を呷って自害したのであった。秦王政の治世12年目の紀元前235年の事であった。 |
| 類稀な先見性と、度胸と、強運により、一介の賈人の身から、一代で事実上の天下の主にまで伸し上がった、一代の怪物の無惨な最期であった。 |
| 嫪毐に続いて呂不韋と、秦王政が憎悪していた者たちが死んだ事により、怒りの収まった秦王政は、蜀に追放していた嫪毐の舎人たちを、全員咸陽に帰って来る事を許したのであった。 |
| 尚付け加えると、正確な年は不明だが、呂不韋が絡んだ故事には、自身の舎人である少年説客・甘羅(かんら)を使って、難題を解決したという逸話がある。 |
| これに関しては【第二六計 指桑罵槐】で、甘羅を主人公とした故事(リンク先工事中)で語る。 |
| 後に天下統一を成し遂げて、支那史上最初の統一帝国を築き上げる巨人・始皇帝(秦王政)にとって、自身を輔弼する立場にあった呂不韋こそが、生涯最初にして最大の宿敵であったとも言える。 |
| そしてその呂不韋との権力闘争に勝利し、呂不韋が滅んだ後は、最早秦王政を頭から抑え付けられる程の強大な存在は国内外にいなくなった。 |
| 呂不韋の是非善悪を一律には決められないであろう。 |
| 元から秦王政とは相性が悪く、反りが合わなかった事や、自身の破滅の引き金となった、嫪毐を後宮入りさせた事も、ある程度までは弁護出切る余地はあると思う。 |
| だがやはり人間的に、どこか重大な欠点があったのではなかろうか? |
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| その生前からの願望通り、位置的に息子の陵を東に望め、夫の陵を西に望めるような、両者に挟まれた地理的位置である、杜(と)【※31】の東に陵が建てられた。 |
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| ♛ 嫪毐の乱──────呂不韋の没落と破滅の始まり |
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| 紀元前238年の事。この年こそが秦王政と呂不韋の権力闘争において、権力の綱引きの勝敗、力の強弱関係等が逆転する分岐点となった。 |
| そしてそれは国内外において、権勢並ぶ者のない隆盛ぶりを誇っていた、呂不韋という天下に名の轟いた超大物の、破滅の始まりでもあった。 |
| ある者が秦王政に密告した。 |
| 「嫪毐は実は宦者(宦官)ではございませぬ。 |
| 嫪毐は常日頃から太后様と密通し、その挙句太后と嫪毐の間には、既に子が二人も生まれておりまするが、皆これ等の事々を隠しております。 |
| 嫪毐は太后様と語らい、『もし王が薨じた後には、我等が子を以って秦の王に立てようではないか。』とさえ嘯いております。」 |
| そして調査の結果、その話が事実であり、しかも相邦・呂不韋までもが関与していた事が、とうとう秦王政の知る所となった。 |
| そして嫪毐の方も、自身の行いが密告された事を聞き付け、不安を抱いた。 |
| だが事が王室内の、しかも太后と最高権力者である呂不韋の醜聞であるだけに、すぐには事を公にせず、一旦は秦王政の胸の内にしまっておいた。 |
| 秦王政は太后・嫪毐の暮らす離宮のある雍の地まで自ら出向き、郊祀(こうし)【※32】を執り行った。 |
| 嫪毐は罪に問われる事を恐れ、破滅する前に先手を打とうと決意した。 |
| そこで自身の党派と語らって、太后の印璽(いんじ)【※33】を私物化し、それを以って兵を動かし、蘄年宮(きねんきゅう)にて謀反を起こした。 |
| だがそれこそが秦王政の狙い通りであった。こういう展開を読んでいたからこそ、郊を執り行うのと同時に、手勢の兵をも引き連れて来ており、嫪毐の謀反に備えていたのである。 |
| 嫪毐の権勢がいくら盛んであっても、所詮は持って生まれた巨根だけで成り上がった男の悲しさであった。 |
| 思慮も浅く、同じ成り上がりでも呂不韋のような政治的手腕や見識など皆無であり、政治的天才であった秦王政の敵ではなかった。秦王政の掌の上で良い様に踊らされたのである。 |
| 嫪毐の謀反決起を聞き付けた秦王政は、直ちに手勢を遣って鎮圧に向かわせた。 |
| 嫪毐は戦いに敗れ逃走したが、秦王政の兵がそれを追跡し、とうとう追い付いかれて捕えられた。そうして嫪毐は車裂で処刑された。 |
| それから秦王政は嫪毐の三族を悉く誅殺し、嫪毐が太后に生ませた二人の子も、探し出して処刑した。 |
| 太后の身柄は雍に移され、そこに幽閉された。嫪毐の舎人は一人残らず全財産を没収し、蜀の地へ流した。 |
| 秦王政はこれを理由に、予てより嫌っていた呂不韋も連坐させて誅殺しようと思ったが、思い止まった。 |
| 何故なら呂不韋は先王(秦荘襄王)の治世以来、多大な功績を上げて来た事もあり、その功績に免じての事である。 |
| それだけでなく呂不韋の食客や弁舌の士たちが、挙って呂不韋を弁護した上に、呂不韋の息の掛かった者たちに、秦の利益の為に天下諸国で遊説をしている者が大勢いるので、呂不韋を誅殺するのは政治的に不味いと判断したからである。 |
| それで一旦は、呂不韋の処罰を不問とした。 |
| しかしそれでも、この後宮内での不祥事が発覚した事で、これまで飛ぶ鳥を落す勢いで、国内に権勢並ぶ者のなく、秦王以上の威勢を誇っていた呂不韋の、凋落の端緒となった。 |
| この天下に知らぬ者なき権勢家にも、遂にその権勢に翳りが見え始めたのであった。 |
|
| そこで倡楽(しょうがく)【※25】を演奏させて、嫪毐の並外れて大きな男根を、桐製の車輪の中心の穴に嵌め込ませて、その状態を保ったまま歩かせた。 |
| 何とも下品な宴会芸ではあるが、それはともかく呂不韋は、その噂が太后の耳に届くように仕向けた。 |
| 呂不韋の計算通り、太后はその噂に飛び付き、嫪毐を後宮に引き入れようとした。言うまでもなくその自慢の巨根で、自身の性欲を満足させようとしたからである。 |
| 呂不韋は嫪毐を太后の下に送ろうとして、嫪毐を後宮入りさせる為の口実作りの為に、腐刑(ふけい)【※26】を受けさせて宦官(かんがん)【※27】にしようとした。 |
| とは言っても本当に宦官にする訳ではない。それではわざわざ太后の下に送る意味がなくなる。 |
| あくまでも腐刑を受けたという事にして、太后の傍近くに常に侍らせる事を正当化させる為の計画である。 |
| そこで呂不韋は人を遣って、嫪毐には腐刑に当たる罪ありと、偽りの告訴をさせた。 |
| 呂不韋は前以て太后に因果を含めておいたので、太后は腐刑を執行する職務の吏(役人)に、秘かに賄賂を贈って、実際は刑を執行していないのに執行したという事にさせた。 |
| そしてばれないように、嫪毐の顎鬚(あごひげ)と眉毛を抜き取って、外見的に宦官らしく仕立て上げた。 |
| 何しろ宦官という人種は、去勢された影響で男性ホルモンが分泌されず、女性的な体型になったり、声色が女性的な甲高い声となったり、髭が生えなくなるという身体的特徴があるからである。 |
| こうして呂不韋と太后は、嫪毐を晴れて堂々と、後宮に召し出す事に成功したのであった。 |
| その後偽宦官となった嫪毐は、その大きな一物とその絶倫ぶりを、太后にこの上なく重宝がられ、毎晩のように寝所を共にしていた。 |
| これにより呂不韋は、太后の夜の相手の役目から解放され、これで破滅を回避出来、不安の種が消えたものだとばかり思った。 |
| だがこの事が後年の没落と破滅の種となるのだから、正に「一寸先は闇」である。 |
| 太后はその欲望の結果として、嫪毐の子を妊娠してしまった。 |
| そこで太后は発覚するのを防ぐ為に、偽りの卜占を行わせて、「時の祟りを避ける為に、宮殿を出て雍(よう)【※28】の離宮に移り住むべきである。」という意味の卦が出たと偽らせた。 |
| そして言うまでもなく嫪毐も、太后の移住に随行した。 |
| 嫪毐は太后の寵愛最も厚く、様々な褒賞を下賜されていたばかりか、後宮における一切の処務を、嫪毐に取り仕切らせていた。 |
| このように太后の深い寵愛が嫪毐の権勢の源泉となり、宦官の身でありながら(偽宦官だが)長信侯(ちょうしんこう)に封じられた。 |
| いつしか嫪毐の邸宅で仕える家僮は数千人にも達し、仕官を求めて嫪毐の舎人になった者が千余人もいた。 |
| 正しく嫪毐のその権勢ぶりは、呂不韋に次いで隆盛を誇った。 |
| 紀元前240年の事。秦王政の父・秦荘襄王の生母(秦王政の祖母)の夏太后(夏姫)が死んだ。 |
| 秦荘襄王の父(秦王政の祖父)・秦孝文王の正后で、秦荘襄王の義母であり、秦荘襄王即位実現の恩人であった華陽太后(華陽夫人)も、既にこの世を去っていた。 |
| 秦孝文王と華陽太后は同じ寿陵(じゅりょう)【※29】に会葬されており、秦荘襄王は芷陽(しよう)【※30】に葬られていた。そこで夏太后は生前に言っていた。 |
| 「東に我が子(秦荘襄王)を望みたく、西に我が夫(秦孝文王)を望みたいものです。百年の後に我の陵の周辺には、きっと一万戸の邑が出来ている事でしょう。」 |
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| この当時の天下では、高貴な生まれと身分を持ちながら、異能や一芸一能に秀でた人士たちに自ら遜り、そういった人種を食客(しょっかく)として招く事が流行っていた。 |
| 食客は普段は権勢家の邸に居候しており、働く事もなく、家賃を雇い主に払う事もなく、そういう意味ではいわば「タダ飯喰らい」ではあるが、それでもいざとなった時に、その権勢家に力や智恵を提供して補佐する私設秘書団、私設参謀団である。 |
| 主人とは五分五分の対等の関係であり、臣下ではないので、いつ去ろうと自由であり、引き止める事は出来なかった。 |
| そんな食客を好んで、何千人単位で抱えていた事で、天下に名を知られていた貴人が四人いた。 |
| 前出の魏の信陵君と楚の春申君の他に、斉の孟嘗君【もうしょうくん:姓は嬀(ぎ)、氏は田(でん)、名は文(ぶん)】と趙の平原君【へいげんくん:姓は嬴(えい)、氏は趙(ちょう)、名は勝(しょう)】である。 |
| これら四人の名望家たちを「戦国四君(せんごくよんくん)」と総称した。楚の春申君以外の三人は、その国の公子や王族である。 |
| 信陵君と春申君に関しては前出の通りのリンク先で語る。 |
| そして残りの孟嘗君と平原君であるが、孟嘗君に関しては【第二〇計 混水摸魚】の「鶏鳴狗盗」の故事(リンク先工事中)と同書庫の食客・馮驩の故事(リンク先工事中) で、平原君に関しては【第一二計 順手牽羊】の「嚢中の錐」の故事(リンク先工事中)で語る。 |
| 呂不韋は秦が当時の天下で最大最強の国力を誇っていながら、これら四君に匹敵する程の名望家がいない事を恥じて、自らが同じように戦国四君に対抗して、三千人もの食客を集め養った。 |
| そして呂不韋は集めた大勢の食客たちに、各人が学び得て来た知識を書物に書き記させた。 |
| それらを編集して『八覧(はちらん)』『六論(りくろん)』『十二紀(じゅうにき)』等の書物を編纂した。 |
| これらの書で、天地・万物・古今の事柄全てを完全に網羅したと自負した。そしてこれ等一連の書物を『呂氏春秋(りょししゅんじゅう)』と名付けた。 |
| 秦の国都・咸陽(かんよう)【※23】の市場の門にこの書物を並べて、その上に千金を掲げて見せた。 |
| 諸国の論客を招いて僅か一字でも、足りない箇所を書き加えられたり、あるいは余分な箇所を削ったり出来れば、その千金を差し出そうと告知した。 |
| 千金を実際に進呈された者がいたのかどうかは定かではないが、それはともかく、如何にも賈人(商人)上がりらしい、やり口が余りに露骨だと言えばその通りだが、これにより天下中から優れた人材を集めようとしていたのである。 |
| この逸話こそが「一字千金(いちじせんきん)」という故事成語の由来となった。 |
| 意味は「一文字が千金に値する程の、立派で優れた文字や文章」「例えようのない厚い恩恵」である。また他者の作品を称賛する時の言い回しとしても使われる。 |
| 呂不韋が秦の宰相(丞相)となってから年月も流れて行った。秦王政は即位当初の幼い身から、みるみる成長して成年に達していた。 |
| 最早何も知らない幼子ではないのだが、それにも関わらず太后は、相変わらず呂不韋との関係を、一向に終わらせようとはしなかった。 |
| 呂不韋は太后との密通が露見して、自身が破滅するのを避けようと、先手を打とうとした。 |
| 嫪毐(ろうあい)という巨根の男を探し出して、一先ずは自身の舎人(しゃじん)【※24】とした。 |
| 折を見ては自身の邸宅で酒宴を開き、大勢の招待客の前で、嫪毐を宴席の座興に出させた。 |
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