YAMINABE the Second Operation

この11年間の数多くの思い出を携え、私は新たな旅へと出発します。それでは皆さん、御達者で。

第二六計 指桑罵槐

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後続  故事其之壹 ─ 甲





 ♕  『将は軍に在りては君命をも受けざる所有り。』──────二姫の処刑

 そう言い終えると孫武は、左右の両隊長を、軍令違反の罪で刑に処すよう、刑吏に命令を下した。
 台上から遣り取りを見ていた呉王闔閭は、予想外の展開にさすがに驚き慌て、使者を送って命令を伝えさせた。


「直ちにその者たちへの刑を取り止めよ!
 寡人は将軍(孫武の事)が兵を用いる器量があるのはよく分かった!
 寡人はその二人がおらねば、何を食しても美味いとは思えぬ程に、その二人を愛おしく思っておるのだ!
 どうかその二人を処刑するのだけは考え直してもらいたい!」


 だが孫武はその命令を拒否した。


臣(しん)【※6】は既に大王様より命を受け、将となっております。」


 そして続け様に孫武は言い放った。


『将は軍に在りては君命をも受けざる所有り。』

【意味:将というのは軍中においては、例え君命と雖も従えぬ事もございます。】


 そう言って孫武は、二寵姫が泣き叫んで命乞いをするのも顧みず、遂に処刑を断行した。


「執行せよっ!」


 孫武の号令一下、刑吏が刑具の鈇鉞を振り下ろし、二寵姫を無惨に斬り捨てた。
 血が地面を染め、二人は物言わぬ骸と成り果てた。





 ♖ 「孫子勒姫兵(孫子、姫兵を勒す)」

 余りの凄惨な光景にショックを受けて、婦人たちは悲鳴を上げ、その場で失神する者も現れた。
 最早誰一人笑ったり、ふざけたりする者はいなくなり、一同は恐怖ですっかり青褪め凍り付いた。
 そして孫武は全員に改めて号令を下し、処刑した二人の寵姫に代わって、次席の婦人二人を新しく隊長に昇格させた。


 そうして孫武は合図の太鼓を打ち鳴らさせた。
 今度こそ婦人兵士たちは、全て合図通りに動作を合わせ、前後左右を向いたり、立ったり跪いたりの動作を誤る事もなくなった。
 笑い声どころか微かな声すら一切漏らさなくなった。
 高い代償を支払って婦人兵士団は、これが遊びではない真剣なものだという単純な事実を、漸くにして認識したのであった。
 こうして孫武は、後宮婦人たちに軍の規律を叩き込み、意のままに動かす事に成功した。


 やがて練兵が終わり、孫武は呉王闔閭の下まで使者を派遣して、こう伝えさせた。


「これら御婦人方は既に訓練が行き届き、乱れる事なく揃って進退出来るようになりました。
 真にそうなっているか否かを、大王様はこちらまで御降りなされて、実地に御検分なされるが宜しかろうと存じます。
 ただもう既に大王様がこれらの者たちを用いようと思われるのでございましたら、例え水火の中に飛び込む事でさえも、意のままに出来る事でございましょう。」


 呉王闔閭は孫武の使者に、不快そうに言った。


「こう伝えよ。将軍はもう練兵を切り上げて、宿舎で休まれるが宜しかろう。
 寡人は最早そちらまでわざわざ出向き、これ以上見とうない、とな。」


 使者からそう伝え聞いた孫武は言った。


「大王はただ、徒に兵事を論ずるを好むだけで、実際に兵を用いる事は御出来にはなるまいな。」


 こうして孫武は見せしめに処刑するという指桑罵槐策を用いて、見事に婦人兵士の一団の統率に成功したのであった。
 孫武が呉王闔閭の二人の寵姫を処刑し、婦人兵士団の練兵をやり遂げたこの故事は、後世「孫子勒姫兵(そんしろくきへい)」──────「孫子、姫兵を勒す」──────と呼ばれるようになった。





 ♗ その後

 これ以降呉王闔閭は、寵愛する二人の婦人を失ったものの、孫武の才覚だけは認め、孫武を将軍に登用した。
 それ以降の呉軍は孫武の指揮・統制の下、強大化して行き、一時は天下最強の威勢を誇るようになる。


 そしてこの年(紀元前515年)から9年後の、紀元前506年に起きる「柏挙の戦い(はくきょのたたかい)」において、隣の超大国・楚の軍勢を壊滅させ、楚王以下、群臣一同まで亡命して不在となった楚の国都・郢(えい)【※7】を陥落させ、一時的ながらも楚を滅亡へと追いやった。
 そして呉王闔閭以下、呉軍は短期間ながらも王のいなくなった国都の郢を占領統治をするに至る。
 郢の占領後に宰相の伍子胥は、【第一一計 李代桃僵】の故事(リンク先工事中)でも語ったように、父と兄を死に追いやった仇である嘗ての主君・楚平王に対して、死後の復讐を果たした。
 楚平王の墓を探し出し、墓を暴いて楚平王の遺骸に、散々に笞で打ち据え、遺骸を辱めた。
 この伍子胥の逸話こそが、「屍に笞打つ」「死屍に笞打つ」「死者に笞打つ」等の故事成語の由来となった。






「孫子勒姫兵(孫子、姫兵を勒す)」──────「兵聖」孫武の練兵法。呉王闔閭の二寵姫を斬る。
「孫子勒姫兵(孫子、姫兵を勒す)」──────「兵聖」孫武の練兵法。呉王闔閭の二寵姫を斬る。





 ♚ 兵法書『孫子』──────故国での模様

 元は春秋戦国時代の支那で生まれた『孫子(そんし)』という兵法書がある。「兵聖」とまで讃えられた、世界最高峰の偉大な兵法家である孫子の一大傑作である。
 恐らくは世界中で最も有名な兵法(軍事学)のテキストであり、世界史上最初の科学的・合理主義的考察に基づいて編み出された戦争のテキストであろう。
 本国の支那のみならず、我が国も含めた諸外国でも、数多くの英雄たちに読まれて来た。


 後世の三国時代の主役的存在として有名な曹操【姓は曹(そう)、名は操(そう)、字は孟徳(もうとく)、諡号は魏武帝(ぎのぶてい)】がこの『孫子』に秀逸な註釈を付けた事で知られる。
 この曹操が附註し、再編纂したヴァージョンが『魏武註孫子(ぎぶちゅうそんし)』と呼ばれ、後世現在にまで『孫子』の一般的なイメージとして浸透している、全十三篇から成るスタンダードな内容となっている。


 そして曹操と同時代を生きた高名な権謀家である諸葛亮【姓は諸葛(しょかつ)、名は亮(りょう)、字は孔明(こうめい)、諡号は忠武侯(ちゅうぶこう)】と司馬懿【姓は司馬(しば)、名は懿(い)、字は仲達(ちゅうたつ)、諡号は晋宣帝(しんのせんてい)】の二人もよく学び、実地に応用していた。


 近代20世紀になると、毛沢東(もうたくとう)が『孫子』をよく研究し、自らの戦略戦術に積極的に活用した。
 支那事変(しなじへん)の最中、どうすればライヴァルの蒋介石(しょうかいせき)率いる国民党に勝利し、日本軍にも負けず、一般大衆の支持を得られるかを考察するのに、『孫子』や歴史書からそれらのヒントを見出した。





 ♛ 兵法書『孫子』──────我が国での模様

 我が国に『孫子』を初めて伝えたのは、吉備真備(きびのまきび)だと伝えられる。
 奈良時代の天平宝字8(764)年に勃発した「藤原仲麻呂の乱(ふじわらのなかまろのらん)」(「恵美押勝の乱(えみのおしかつのらん)」とも)に際して、真備は兵法を学んだ事を見込まれて、反乱討伐軍の総司令官に任命された。
 そしてその期待に応え、真備は『孫子』の兵法を駆使して見事に乱を鎮圧した。


 平安時代後期の永保3(1083)年から寛治元(1087)年に懸けて続いた「後三年の役(ごさんねんのえき)」における、八幡太郎(はちまんたろう)こと源義家(みなもとのよしいえ)もそうである。
 義家が行軍中に、通常は整然と列を為して飛ぶ雁の群れが、列を為さず乱れて飛んでいたのを見て、敵の伏兵の存在を察知し、先手を打って伏兵を殲滅した。いわゆる「雁行の乱れ(がんこうのみだれ)」の故事である。
 これは『孫子』の第九篇『行軍篇(こうぐんへん)』の中にある記述の、


『鳥立つは、伏(ふく)なり。』

【意味:鳥の群れが飛び立つのは、伏兵が潜んでいる証拠である。】


に基づいた判断である。


 更に時代は下って戦国時代。
 甲斐国(かいのくに)の戦国大名・武田信玄(たけだしんげん)が自軍の旗印のフレーズにした事でも有名な「風林火山(ふうりんかざん)」の四文字。
 これも『孫子』の第七篇『軍争篇(ぐんそうへん)』の中にある一節である。


『故(ゆえ)にその疾(はや)きこと風の如く、その徐(しず)かなること林の如く、侵掠(しんりゃく)すること火の如く、動かざること山の如く、知り難(がた)きこと陰(いん)の如く、動くこと雷霆(らいてい)の如し。
 郷(きょう)を掠(かす)むるには衆を分かち、地を廓(ひろ)むるには利を分かち、権を懸けて動く。迂直の計を先知(せんち)する者は勝つ。
 これ軍争の法なり。』

【意味:故に作戦行動においては、風が吹いたように迅速に移動したかと思えば、林のようにしんと静まり返る。
 火が燃え盛るように襲撃したかと思えば、山のように微動だにしない。
 暗闇の中に身を潜ませたように、自軍の実情を敵に察知されないよう隠したかと思えば、雷のように突如轟き渡る。
 兵を分けて集落を襲撃させて奪い、各拠点に守備部隊を置きながら占領地の拡大を図り、彼我の情勢を秤に掛け、適切な判断を下して行動する。
 敵に先んじて「迂直の計(うちょくのけい)」──────迂(遠回り)を却って直(近道)と為し、弱点を却って強味へと転化させる発想の計略──────を用いるならば必ず勝つ。
 これぞ軍争における原理である。】


 信玄はこの一節の「風林火山」の箇所を抜き取り、原文そのままに旗印に採用した。
 この四文字(及びそれらに付随する文章)を、武田軍の陣中における心構え、戦術思想とした。





 その他にも我が国史上の名の知れた多くの英雄偉人たちにも読まれた。





 ♜ 兵法書『孫子』──────欧米での模様

 ヨーロッパに最初に『孫子』が伝わったのは、18世紀の清代の支那で布教活動をしていた、イエズス会所属のフランス人宣教師ジョセフ・マリー・アミオ(銭徳明)が、不完全ながらもフランス語に翻訳して以来である。
 1772年にパリで邦訳版が出版され、その影響で後世フランス皇帝にまでなるナポレオン・ボナパルト(大ナポレオン)が、『孫子』を愛読して、戦略戦術に活用したとも伝えられるが確証はない。


 またよく知られる逸話が、最後のドイツ帝国皇帝及び最後のプロイセン王国国王となったウィルヘルム2世に関するものである。
 第一次世界大戦における敗北の影響で「ドイツ革命」が勃発し、ウィルヘルム2世は退位に追い込まれ、オランダへ亡命する羽目となった。
 そんなウィルヘルム2世が晩年に、亡命先のオランダで『孫子』を手に取り読み、次のようにその時の心情を吐露したと言われる。


「もし20年前にこの本を読んでいたとしたら、あのような(第一次世界大戦での)敗北を味わわずに済んだであろうに。この本と出会うのが余りにも遅過ぎた。」


と嘆息しながら後悔の言を呟いたという。


 他に知られるのは、『戦略論(せんりゃくろん)』を著した20世紀イギリスの軍事思想家バジル・ヘンリー・リデルハートが『孫子』を、「古今東西の軍事学の書物の中で最も優れている。」と称賛した事である。


 近年だと1991年の湾岸戦争や、2003年のイラク戦争でも、アメリカ軍の作戦計画に『孫子』が参考にされたという。





 このように世界中で読み継がれ、世界各国の軍事学校のテキストとしても採用されている『孫子』。そんな書物の著者・孫子とはどういう人物だったのか?





 ♝ 著者・孫子(孫武)の人物像・出自

『孫子』の著者である孫子は、その生涯や事績に今一つ確証が弱いが、これから伝えられて来た通りに語る。





 孫子は姓は嬀(ぎ)、氏は孫(そん)、名は武(ぶ)、字は長卿(ちょうけい)という。
 生没年は不詳だが、史書の記録によれば、春秋時代後期の紀元前6世紀から紀元前5世紀に懸けて生きた。
 孫武は斉に仕える大夫・田氏一族から枝分かれした家系であると言う。
 【第三〇計 反客為主】の田氏一族の簒奪の故事(リンク先工事中)でも語るが、斉の大夫・田氏は嘗て政争から身を避けようと、紀元前670年に斉へ亡命して来た陳の公子完【姓は嬀(ぎ)、氏は陳(ちん)又は田(でん)、名は完(かん)、諡号は田敬仲(でんけいちゅう)】を氏祖とする。
 その亡命して来た年(紀元前670年)から284年後の紀元前386年に、氏祖・田完から数えて10世代目の子孫で、田氏第11代当主である田和【姓は嬀(ぎ)、氏は陳(ちん)又は田(でん)、名は和(か)、諡号は斉太公(せいのたいこう)】の代で、斉の君位と国の簒奪を完了させる。
 斉(姜斉)最後の国君となる第32代・斉康公【せいのこうこう:姓は姜(きょう)、氏は呂(りょ)又は斉(せい)、名は貸(たい)】を田和は実力で廃位して、代わって自身が一介の卿大夫の身から、新しく斉を統治する諸侯(国君)となったのであった。


 だがそれはずっと先の話であって、氏祖・田完(陳完)から数えて第5代当主の田無宇【姓は嬀(ぎ)、氏は陳(ちん)又は田(でん)、名は無宇(むう)、諡号は田桓子(でんかんし)】の子に、田書【姓は嬀(ぎ)、氏は陳(ちん)又は田(でん)、名は書(しょ)】という人物がいた。
「田完から五世の子孫」ともあるのであるいは、田完の玄孫である田無宇とは、田書は兄弟か同世代の従兄弟といった可能性もある。それはともかく、この田書が孫武の祖父である。
 紀元前523年に斉が莒という国を攻めた時に、従軍していた田書は功績を立てた。その功績により田書は、斉の国君より新しく「孫(そん)」という氏を賜った。
 以後は田氏の支流ではありながらも、田書の系統は代々孫氏を称するようになった。田書改め孫書である。
 孫書の嫡男は孫憑【姓は嬀(ぎ)、氏は孫(そん)、名は憑(ひょう)】と言い、すなわち孫武の父である。そして孫憑は孫武を生んだ。


 孫武は若い頃より兵書に親しみ、太古の伊尹(いいん)、太公望【姓は姜(きょう)、氏は呂(りょ)、名は望(ぼう)、諡号は斉太公(せいのたいこう)】、管仲【姓は不明、氏は管(かん)、名は夷吾(いご)、諡号は管敬仲(かんけいちゅう)】等の先人の用兵や計略を研究したという。
 本書庫の故事でも取り上げた司馬穰苴も、孫武と同じ田氏の支流の出であり、同じ兵法家でもある。
 そして二人は同時代を生きたようであり、通史・正史には記されてはいないものの、世代的には司馬穰苴の方が上だと思われるので、孫武は司馬穰苴から兵法を学び、その薫陶を受けた可能性が高い。





 ♞ 運命の地・呉にて

 やがて田氏一族内で内紛が起こり、孫武はそれを避ける為に斉を離れ、楚や越と共に当時南方で強盛を誇っていた呉に移り住んでいた。
 時の呉は第24代国君・呉王闔閭【姓は姫(き)、氏は呉(ご)、名は光(こう)改め闔閭(こうりょ)】の治世であった。


 【第二二計 関門捉賊】の呉王僚暗殺の故事(リンク先工事中)でも語ったように、呉王闔閭は腹心の側近・伍子胥【姓は不明、氏は伍(ご)、名は員(うん)、字は子胥(ししょ)】の献策に従い、従兄弟であった先代の呉王である僚【姓は姫(き)、氏は呉(ご)、名は僚(りょう)】を口実を設けて宴席に誘い出し、専諸(せんしょ)という勇士を刺客に据えて謀殺したのであった。
 そして従兄弟の僚を弑殺し、呉王に即位した闔閭は、即位実現の最大の功労者であった伍子胥を宰相に任命した。
 これら一連の事件は紀元前515年の出来事である。そして闔閭の治世は紀元前496年に死ぬまで20年間(数え)と長く続く。


 孫武は呉の宰相となった伍子胥の知遇を得た事で、その後に伍子胥によって推挙される切っ掛けとなった。
 それまでの間、孫武は呉の国都・姑蘇(こそ)【※1】の郊外の山中に隠棲しながら、兵法書『孫子』の原型となる十三篇の兵法理論の著述に没頭していた。
 そして孫武が書き上げた書物『孫子』を、伍子胥が呉王闔閭に献上し、七度にも亘って呉王闔閭に孫武を登用するよう説得したのであった。
 そしてとうとう伍子胥は闔閭を説き伏せ、孫武を宮廷まで召し出してその人物と才覚の程を試しに見てみようという運びとなった。





 ♟ 後宮婦人を兵士に

 呉王闔閭の即位と同年内に、孫武は王との謁見が実現し宮廷へ赴いた。
 そして呉王闔閭は孫武に奇妙な申し出をした。


寡人(かじん)【※2】子(し)【※3】の著した十三篇もの兵法の書を全て読んだ。
 そこで此度は実地に子に兵を勒(ろく)させたいと思っておるが、如何かな?」


「勒する」とは「整える」「統御する」という意味である。すなわち兵の統率の手腕の程を見てみたいという事である。
 それに対し、孫武は即答した。


「可なり(宜しいでしょう)。」


 そこで呉王闔閭は、孫武に対して予想外な条件を申し出た。


「それに付いてだが・・・・練兵には我が後宮の女たちを兵士として試みてもらいたと思うが、如何かな?」


 当時の常識では、後宮の婦人たちというのは、濫りに外へ出る事は許されていなかったので、そんな婦人たちを公衆の面前に晒すのは、異例な事であった。
 だがそれ以前に、女では本質的に兵事に向かないのは明らかである。
 呉王闔閭の意図は、孫武に無理難題を吹っ掛けて、孫武の力量を試してみようとしただけではあるまい。
 恐らくは後宮婦人には我儘な者も多かったようで、そんな女たちを呉王闔閭も持て余して、辟易させられていた所もあったのであろう。いわば一種の「躾」も秘かに意図していたかと思われる。


 孫武はこれまた即答した。


「可なり。」





 ♔ 戯れ気分

 そうして呉王闔閭の後宮の美女たちを駆り出して、練兵場まで集合させた。その数は百八十人にも上った。
 孫武はその婦人たちを二隊に分けて、特に呉王闔閭の寵愛が深い二人の寵姫を、それぞれの隊の隊長に任命した。
 そして百八十人の婦人全員に戟を持たせ、呉王闔閭以下、文武百官の見守る中で、いよいよ孫武は練兵を開始した。


 だが後宮婦人たちから成る即席兵士たちは、これが真剣な軍事教練である事が全く解っていなかった。呉王闔閭の趣向を凝らした新手の遊び程度にしか思っていなかったのである。
 だからこそいざ始まる段になっても、婦人団には緊張感が欠片もなく、好き勝手に喋り合ってたり、笑っていたりするばかりであった。
 そんな勘違いがこれより間もなくして、惨劇の光景を現出させる事となる。


 まず孫武は軍令を布告した。孫武は皆に尋ねた。


「そなた等は己の胸と、左右の手と、背中が分かるか?」

「はい、勿論ですとも。」

「ならば我が太鼓で“前”という合図をすれば胸を見よ。“左”という合図をすれば左手を見よ。
“右”という合図をすれば右手を見よ。“後ろ”という合図をすれば背中を見よ。」

「諾(承知致しました)。」


 合図の種類とそれに対応する動作の打合せが一先ず済んでから、孫武は軍令に従わない者を処刑する為の刑具である鈇鉞(ふえつ)【※4】を用意した。
 その上で念には念を入れて、五回程も同じ事を繰り返した。諄(くど)い位に念押ししてから、孫武はいよいよ本番を開始した。


 即席の婦人兵士全員に対して、太鼓を打ち鳴らして“右”と合図を出した。
 だが両隊長以下、婦人兵士たちは相変わらず大いに笑い出し、誰も真面目にやらなかった。
 そこで孫武は言った。


「軍令や合図の打合せが不徹底だったりするのは、将(司令官)たる者(すなわち孫武自身)の罪である。」


 そう言って孫武は再び、五回程も繰り返し繰り返し、諄い位に入念に説明をした。
 そしてそれが済むと、孫武は練兵を再開し、合図の太鼓を打ち鳴らした。
 だがそれ程にまで念を入れて打ち合わせたにも関わらず、両隊長以下、婦人兵士たちは大声で笑い出し、全く従わない有り様であった。
 そこで孫武は言った。


「軍令や合図の打合せが不徹底だったりするのは、将たる者の罪である。
 しかしそれら全てがきちんと行き渡らせられたにも関わらず、兵が軍令に従わぬのは、吏士(りし)【※5】たる者の罪である。」


 すなわち隊長である二人の寵姫の責任という事である。





後続  故事其之壹 ─ 乙(完結編)
承前  故事其之陸 ─ 乙





 市場で踊が高価という事の背景には、刖刑(げっけい)【※24】を受けた者が多くて、よく売れる為に生産が追い付かず、値段が上がってしまったという事である。
 反対に普通一般の者が履く屨が低価なのは、刖刑を受けた者が多くなった影響で、履く者が減ったので、すっかり売れなくなった事を示していた。
 屨は健常な足だからこそ履けるのであって、刖刑を受けた者にとっては無用の長物である。
 それは斉景公が刑罰を頻繁に科していた事の影響であった。つまり晏嬰は市場の売れ筋の話題をダシに使って、斉景公を遠回しに諌めたのであった。
 晏嬰に諷諌された事により、斉景公は刑罰の濫用を慎むようになった。





 世の君子はこの一事を評して言った。


『仁人(じんじん)の言(げん)、其(そ)の利(り)博(ひろ)い哉(かな)。』

【意味:(晏嬰のような)仁愛ある者の言葉とは、何と広く世に利益を行き渡らせられるものであろうか!】


 晏嬰の一言で、斉景公は刑罰を減らし、濫用を慎むようになった。





『詩経』の【小雅(しょうが)】、その小雅の中の≪好言篇(こうげんへん)≫に言う。


『君子(くんし)如(も)し祉(さいわい)せば、乱(らん)庶(こいねがわ)くは遄(すみや)かに已(や)まん。』

【意味:君子が嘉(よみ)すべきを嘉すれば、乱は速やかに止むであろう。】


と。これは正しく、晏嬰のこの件のような事を指して言ったものかと。





 以上の八本の逸話が、『晏子春秋』に集録されている、晏嬰の採った指桑罵槐策の数々である。
 これら以外の晏嬰に関する数多くの逸話は、また別の機会に紹介する。





『晏子春秋』──────姜斉最後の巨星・晏嬰。高潔にして仁慈に溢れた賢者の生涯。
承前  故事其之陸 ─ 甲





爾(なんじ)【※13】には死罪に当たる三種の罪がある。
 先ず爾は君公より馬を養うよう任されておりながら、任を果たせずに馬を死なせてしまった。これが死罪に当たる第一の罪である。
 次に爾は、中でも君公の最も愛する馬をみすみす殺してしまった。これが死罪に当たる第二の罪である。


 最後に爾は、高々一頭の馬の為に、わざわざ君公に人を殺させてしまうに至った。
 百姓がこれを聞けば、必ずや我が君公を怨む事であろう。天下中の諸侯がこれを聞けば、必ずや我が斉を軽んじるようになるであろう。


 爾はたった一頭の君公の馬を死なせる事によって、百姓に対して君公への怨恨を募らせ、その結果、我が斉の軍を隣国よりも弱らせてしまうのだ。
 これが死罪に当たる第三の罪である。これらの罪の故に、爾を今より獄へ投じるのだ。」


 これを聞き終えた斉景公は顔色が変わり、慌てて止めた。


「待つのだ!夫子よ!この者を赦すのだ!直ちに赦すのだ!決して寡人の仁を損ねてはならぬぞ!!」


 こうして晏嬰は巧妙に諷諌、すなわち遠回しに諌めた事で、斉景公にその不仁ぶりと、それが引き起こす損失を悟らせ、圉人の命を救う事に成功したのであった。





 ♔ 晏嬰の指桑罵槐策 其之四:名声は君主に、汚名は自身に──────民を苦役から解放する

 更なる第四本目の逸話は『晏子春秋』の【内篇】、その内篇の中の【諌下第二(かんかだいに)】の第五章の逸話。
 この逸話は指桑罵槐策の少々変則的で珍しい運用法である。そして二段階の運用である。





 晏嬰が隣国の魯に使者として赴いた。
 そして使者の役目を果たし、晏嬰が斉へ帰還を果たそうとした折に、斉景公は民衆を使役して、「大台(たいだい)」という名の台(うてな)の建造工事を始めた。「台(うてな)」とは四方を眺める為に建てられた、高い建物の事である。
 季節が冬だったからか、余りの寒さに凍え、飢える者がどの郷にも現れた。その為に斉の国人は皆、晏嬰の帰国を待ち望んだ。


 やがて晏嬰が魯から帰還し、斉景公に復命を果たした。
 その後に斉景公は、晏嬰を労う為に酒宴の席を設けた。宴の最中に、晏嬰は斉景公に申し出た。


「君公よ、もしも臣に御許し頂けるのであれば、臣はある歌を歌いとうございます。」


 そして斉景公の許しを得て、晏嬰は次のように歌い出した。


『庶民の言に曰く、凍水(とうすい)我を洗ふ(あらう)、これを若何(いかん)せん。太上(たいじょう)我を靡散(びさん)す、これを若何せんと。』

【意味:庶民はこう言っている。凍った水は我を洗い、我を凍え死にさせようとしている。これをどうしたら良いのか?
 太上(斉景公の事)は我を破滅させようとしている。これをどうしたら良いのか?】


 歌い終わり晏嬰は、喟然(きぜん)【※14】として涙を流した。斉景公はその様子を見咎めて、


「夫子よ、何故に涙を流すのか?もしや大台の役(労役)の為か?ならば寡人はすぐにでもこれを取り止めようではないか。」


 それを聞き、晏嬰は再拝して席を退出した。以上が指桑罵槐策の第一段階の顛末である。
 歌で諷刺した事で、民衆に過酷な労役を課している過ちを、斉景公に悟らせたのであった。


 そして指桑罵槐策の第二段階である。
 斉景公が建造中止を決定した事実を、晏嬰は自分一人だけの胸に仕舞い込み、そのまま大台の建造工事現場まで向かった。
 そして笞(むち)を手に取り、働きの良くない者を笞で打ち、皆に向かって叱咤した。


「我等は庶民であるが、皆家屋があり、それで乾燥や湿気を防いでおる。
 今、君公が台を一つ建てようとされておられるのに、それが速やかに完成しておらんと来たものだ。そのような体たらくでは、到底労役とは呼べぬぞ。」


 晏嬰の余りに意外な態度に、斉の国人は皆驚いて言った。


「晏子(晏嬰)は君公に与して我等を虐げるのか!?」


 そうして晏嬰はその場を去り、自邸に帰った。
 晏嬰が自邸に帰り着く前に、工事現場に斉景公からの勅命が届き、工事を中止する旨が労役人夫たちに伝えられた。
 人夫たちは皆歓喜の声を上げ、苦役から解放された喜びの余り、その場から勢い良く走り出した。


 晏嬰が何故このような、わざわざ自分を悪者にするような真似をしたのか?
 それは本来ならば、斉景公に向けられていた批難を自分の方へ逸らさせ、斉景公には名誉だけを受けるように取り計らったのである。
 敢えて自身を犠牲にし、汚名を着る事で、その仕える主君には民衆からの名声を博させたのである。
 人は自分が害されると思って不安や恐怖に脅えていた時、その相手から思い掛けない恩恵や慈悲を与えられると、普通に与えられるだけの時よりも、数段大きな喜びや嬉しさを感じるものである。そういう心理効果も計算した上での事であった。
 それで晏嬰が歌で諷刺した事により、斉景公が中止を決定した事は一切伏せたままにしておき、あたかも斉景公が、慈悲心を自発的に覚えて中止したかのように思わせたのである。
 以上が指桑罵槐策の第二段階の顛末である。





 儒教の祖である孔子【こうし:姓は子(し)、氏は孔(こう)、名は丘(きゅう)、字は仲尼(ちゅうじ)】はこの話を聞いて、感嘆しながら晏嬰をこう評した。


「古(いにしえ)の良き人臣たる者は、名声は君主に帰させ、災禍や汚名は己自身に帰させたものであった。
 朝廷の内にあっては、君主の悪しき所を正し、朝廷の外にあっては、君主の徳義を称賛する。
 例え惰君(だらしのない君主)に仕えていようとも、殊更に作為を巡らせる事なく、己の君主を諸侯を従える覇者にまで押し上げる。
 それでいながら、その功績を決して誇示する事はなかった。
 今の世でこれに当て嵌まる者と言えば、正しく晏子(晏嬰)がそうであろうか。」





 ♕ 晏嬰の指桑罵槐策 其之五:「牛首馬肉(羊頭狗肉)」──────婦人の男装を止ませる

 続いて第五本目の逸話は『晏子春秋』の【内篇(ないへん)】、その内篇の中の【雑下第六(ざつかだいろく)】の第一章の逸話。
 登場するのは斉荘公・斉景公兄弟の父である斉霊公である。





 斉霊公は男性のような服装を着た婦人を好んだ。斉霊公の後宮の側妾たちも、斉霊公の趣味に合わせて男装をしていた。
 その為に斉の国中の女性たちがそれに倣って、皆男性のような格好をするようになった。
 そこまで国内の風俗が乱れたので、斉霊公は禁令を発して、官吏に取り締まらせた。


「女子でありながら男子の衣を着る者は、その着衣を引き裂き、その帯を断ち切るものとする。」


 このように勅命を発して、実際にその通りに実行させた。
 街中で男装している婦人を見掛けたら、官吏よりも先に、市井の男たちが率先して次々衣服を引き裂き、帯を断ち切った。
 だがそれでも効果はなく、次から次へと婦人の男装が後を絶たなかった。そんな中で晏嬰は、宮中で斉霊公に拝謁した。


 斉霊公は晏嬰に疑問を問い質した。


「寡人は官吏に命じて、女子が男子の形(なり)をするのを禁じ、その令に反した者たちの衣を引き裂き、帯を断ち切らせておるにも関わらず、どうした訳か一向に収まらん。これは何故であろうか?」


 これに晏嬰は答えた。


「君公は朝廷の内では(つまり後宮内では)女子に男装を許しておきながら、朝廷の外ではこれを禁じております。
 これは喩えるならば、店頭に牛首(牛の頭)を掲げておきながら、実際には客に馬肉を売っているかの如きでございます。
 君公は何故に朝廷の内にて、女子の男装を禁じられぬのでありましょうや?
 もし朝廷の内において禁じられましたならば、民の婦女子も君命に背いてまで、敢えて男子の衣を装うとする事もありますまい。」


「うむ、分かった。」


 斉霊公は不明を悟り、後宮内でも婦女子の男装を禁じた。
 すると一月も経たない内に、国中から男装する婦人が一人もいなくなった。


 ちなみにこの時に晏嬰が用いた比喩こそが、「牛首(ぎゅうしゅ)を懸けて馬肉を売る」という故事成語、「牛首馬肉」という四字熟語の由来となった。
 意味は「名実が一致しない様」「立派そうな名目や外見に、実質や内容が伴わない様」など。つまり「羊頭狗肉」「羊頭を懸けて狗肉を売る」と同義である。
「牛首馬肉」の方が大元であるが、後世に表現が転化した「羊頭狗肉(羊頭を懸けて狗肉を売る)」の方が、ずっと人口に膾炙している。





 ♖ 晏嬰の指桑罵槐策 其之六:楚の侮辱を二度に亘って跳ね返す

 そして第六本目の逸話は『晏子春秋』の【内篇】、その内篇の中の【雑下第六】の第九章の逸話。





 晏嬰が南方の超大国・楚へ使者として赴いた時の事。
 晏嬰は辣腕の宰相というだけでなく、その人徳の高さでも天下に高名であったが、前述の通り体格的にも小男としても有名であった。
 現代的な尺度だと、身長135cmにも満たない低身長であった。
 そんな外貌の晏嬰を楚人は侮り、小柄さを種に、意地悪く晏嬰を辱めてやろうと画策した。


 そこで楚人は前以って宮殿の入り口の大きな門の脇に、わざわざ小さな門を拵えた。
 案内役の者が晏嬰を宮殿まで導き、晏嬰にその小さな門から潜るよう指し示した。
 晏嬰はそこから入ろうはせず、楚の無礼極まる侮辱に対し、こう皮肉ってやり返した。


「狗国(犬の国)へ使節として参ったのであらば、我も狗門(犬の門)より入りましょう。
 しかし我は今、楚に使節として参ったのですぞ。故にこの門より入る訳には参りませんな。」


 こう言われてしまっては、敢えて無理強いすれば、自身の国を狗国(犬の国)だと貶めた事になってしまう。
 そこで案内の者は、改めて大きな門から晏嬰を入らせた。





 さて、いよいよ国君である楚霊王【そのれいおう:姓は羋(び)、氏は熊(ゆう)、名は囲(い)改め虔(けん)】との謁見を果たした。
 そこで楚霊王はいきなり、晏嬰を侮辱するような事を言い出した。


「斉には人がおらぬのか?」


 晏嬰はそれに淡々と答えた。


「斉の国都・臨淄(りんし)【※15】は三百もの町がございます。
 人々が一斉に袖を広げれば、帷(とばり)となって日陰を作り、人々が一斉に汗を揮えば、雨となって降り注ぎます。
 街路を歩けば常に人々の肩と肩、踵と踵が互いにぶつかり合う程に混雑し、賑わっている程に人が多いのでございます。
 何故に斉には人がおらぬなどと申せましょうや?」


 すると楚霊王は小馬鹿にするように言った。


「ならば何故そなたの如き者が使節として参ったのだ?」


 それにも晏嬰は淡々と答えた。


「我が斉では人を諸侯に使いに出すに当たって、各々の賢愚に応じて、適任だと思われる所へ送られるのでございます。
 賢者は賢君の居られる下へ送られ、愚者は愚君の居られる下へ送られるのでございます。
 故にこの嬰こそが、斉では最も愚かでありますゆえ、この楚への使節こそが相応しいとされたのでございます。」

「・・・・・・・!!!」


 こうして楚霊王はやり込められ、言葉を失った。これまた晏嬰の勝ちであった。





 ♗ 晏嬰の指桑罵槐策 其之七:「南橘北枳(江南の橘、江北の枳となる)」──────環境が違えば

 さて第七本目の逸話は『晏子春秋』の【内篇】、その内篇の中の【雑下第六】の第十章の逸話。
 恐らくは前項の逸話と同じ時であろうかと思われる。晏嬰が楚に使節として派遣された時の事。





 前項での逸話で晏嬰にやり込められたのが悔しかったのか、楚霊王は左右の側近に尋ねた。


「どうにかして彼の者(晏嬰)を辱めてやりたいのだが、さてどのように致せば良いものか?」


 左右の者は答えた。


「晏嬰が来ましたならば、臣がある一人の者を縄で縛ったまま、大王様の御傍近くを通り過ぎましょうぞ。
 そこで大王様はこう仰られませ。『その者は何ぞ?』と。
 そして臣がこう答えます。『この者は斉人でございます。』と。
 そこで大王様は『その者は何の罪を犯したか?』と御尋ねになられませ。
 臣は『盗みを働きましてございます。』と御答え致します。」


 打ち合わせの後、楚霊王は晏嬰との謁見を果たし、その後に酒宴を催した。
 その宴席の最中に、二人の官吏が事前の打ち合わせ通り、縄で縛った一人の男をその場に連れて来た。
 そこで打ち合わせ通りに楚霊王と官吏の問答が始まった。


「その者は何ぞ?」

「この者は斉人でございます。」

「その者は何の罪を犯したか?」

「盗みを働きましてございます。」


 そこで楚霊王は晏嬰の方を向いて、皮肉を言った。


「斉人というのは、日頃より盗人をしておるのであろうかのう?」


 晏嬰はまたも淡々と答えて言った。


「嬰はこう聞いております。
 橘は淮南(わいなん)【※16】の地に生ずれば橘となりましょうが、淮北(わいほく)【※17】の地に生ずれば、忽ち枳(からたち)【※18】となってしまうと。
 両者は単に葉の形のみが似ているだけで、果実の味わいはまるで異なります。
 何故そのように異なって来るのでありましょうや?その所以はその土地の風土の違いにこそあるのでございます。
 あの者も斉にいた頃は盗みなど致さなんだのに、この楚へやって来てから盗みを働くようになったのでございます。
 すなわち楚の風土こそが、あの者に盗みを働かせるように仕向けたのでありましょう。」


 それを聞き楚霊王は、ぐうの音も出ずに詰まってしまった。その後、楚霊王は笑いながら言った。


「聖人というのは共に戯れて良い相手ではないのう。寡人は晏嬰を辱めようとして、却って寡人が辱められる羽目になってしまったわ。」


 この時の晏嬰が用いた比喩こそが、「南橘北枳(なんきつほくき)」「橘化為枳(きつかいき)」という四字熟語、「江南(こうなん)の橘、江北(こうほく)の枳となる」という故事成語の由来となった。
 尚この逸話は『説苑』という書物にも記されており、こちらでは「淮南」「淮北」ではなく、「江南」「江北」と記されている。
 それはともかく、これら故事成語・四字熟語の意味は、「人は住む所や周囲の環境によって、良くも悪くもなる。」「人の善悪は周囲の環境によって左右される。」という意味である。
 似たような意味のものに、「朱に交われば赤くなる」がある。


 こうして晏嬰は、機智に富んだ弁舌や当て擦りを用いて、南方の雄国・楚の国君を、三度にも亘って遣り込めたのであった。





 ♘ 晏嬰の指桑罵槐策 其之八:踊が高く、屨が安く──────市場の売れ筋で諷諌する

 そしていよいよ最後の第八本目の逸話は『晏子春秋』の【内篇】、その内篇の中の【雑下第六】の第二十一章の逸話。





 晏嬰の邸が市場のすぐ近くに建っているので、斉景公はどうにも煩わしく思い、別の静かで落ち着いた場所柄に、邸を新築させようではないかと申し出た。


「夫子の邸は市場に近い為に、土地が低くて狭く、騒々しくて汚らしい。
 そこでだ、いっその事、土地が高くて明るい場所に変えてみてはどうだな?」


 晏嬰はその申し出を辞退した。


「臣の父も住まわりましたのに、臣が住まわぬは、贅沢に奢る事となりましょう。
 尚且つ臣の如き小人(しょうじん)【※19】が市場近くに住み、朝に夕に求める物を買えるのは、正しく便利でございます。
敢えて里旅(りりょ)【※20】を煩わす事もございませぬ。」


 それを聞き、斉景公は笑いながら言った。


「夫子はわざわざ市場の近くに住んでおるならば、さぞや物の値段の高い安いをよく知っておるのであろうな?」

「臣は曲がりなりにも、市場の利便性を享受している身にございます。何故存ぜぬ事がありましょうや。」

「ならば尋ねるが、今市場では何が高価で、何が低価であるか?」


 晏嬰は答えた。


踊(よう)【※21】が高価で、屨(く)【※22】が低価でございます。」


 それを聞いて斉景公は、愁然(しゅうぜん)【※23】として、そして姿勢を正した。





後続  故事其之陸 ─ 丙(完結編)
『晏子春秋』──────姜斉最後の巨星・晏嬰。高潔にして仁慈に溢れた賢者の生涯。





 ♚ 斉(姜斉)の黄金期

 本故事は前回の司馬穰苴の故事にも登場し、司馬穰苴【姓は嬀(ぎ)、氏は田(でん)・司馬(しば)、名は穰苴(じょうしょ)】を推挙した晏嬰【姓は不明、氏は晏(あん)、名は嬰(えい)、諡号は晏平仲(あんへいちゅう)】が主人公である。

 支那大陸最東端に位置し、周代の諸侯国の中でも有数の大国であった斉。
 斉の歴史は(推定で)紀元前1045年(実際の処は不詳)に、周王朝創建の最大の功労者である太公望【姓は姜(きょう)、氏は呂(りょ)、名は望(ぼう)、字は尚(しょう)又は子牙(しが)、諡号は斉太公(せいのたいこう)】が、周王朝初代・周武王【しゅうのぶおう:姓は姫(き)、名は発(はつ)】により、現在の山東省の地に封じられた事で始まった。
 以来紀元前386年に臣下の田氏一族に簒奪されるまで、数えで32代660年続いた事になる。


 斉はそんな長い歴史の中で、黄金期を二度も迎えた。史上高名な二人の名宰相が、国君を輔弼して執政に当たった時代である。
 一人目は第16代国君・斉桓公【せいのかんこう:姓は姜(きょう)、氏は呂(りょ)、名は小白(しょうはく)】の宰相を務め、斉桓公を一躍春秋最初の覇者にまで押し上げた管仲【姓は不明、氏は管(かん)、名は夷吾(いご)、字は仲(ちゅう)、諡号は管敬仲(かんけいちゅう)】である。
 そして二人目が第24代国君・斉霊公【せいのれいこう:姓は姜(きょう)、氏は呂(りょ)、名は環(かん)】、第25代国君・斉荘公【せいのそうこう:姓は姜(きょう)、氏は呂(りょ)、名は光(こう)】、第26代国君・斉景公【せいのけいこう:姓は姜(きょう)、氏は呂(りょ)、名は杵臼(しょきゅう)】の三代に仕えた晏嬰である。


 斉桓公の治世は紀元前685年〜紀元前643年の43年間であり、管仲はその初年から宰相として抜擢された。
 その経緯は 【第二一計 金蝉脱殻】の故事(リンク先工事中)で語った。
 そして管仲は斉の最盛期をもたらし、斉桓公の治世41年目の紀元前645年に死んだ。管仲の死から百年程経って、晏嬰は歴史の表舞台に登場した。





 ♛ 晏嬰の生きた時代──────暗君三代の治世

 晏嬰が仕えた三君の治世は以下の通り。


☆第24代国君・斉霊公:紀元前582年〜紀元前554年:29年間

☆第25代国君・斉荘公:紀元前554年〜紀元前548年:7年間

☆第26代国君・斉景公:紀元前548年〜紀元前490年:59年間


 残念な事にこれら三君は皆道理に暗く、人間的に欠点ばかりが目立ち、悪政・暴政を次々と重ねた。
 礼節を弁えず、言動を慎まず、奢侈や女色や遊蕩に耽り、税を重くし、佞臣に惑わされ、讒言を鵜呑みにし、賢者を遠ざけた。
 民衆を無益な工事に駆り立て、濫りに刑罰を課し、民衆が生活に苦しみ、死のうとも、顧みようとしなかった。
 その度ごとに晏嬰に厳しく諌められてばかりいたので、御世辞にも名君とは言い難かった。


 余談だが第25代の斉荘公には、その祖先に同じ諡号を持つ人物がいる。
 斉の第12代国君の斉荘公である。姓は姜(きょう)、氏は呂(りょ)、名は贖(しょく)である。
 司馬遷【姓は司馬(しば)、名は遷(せん)】の『史記(しき)』などでは「名は購(こう)」と記されているが、これは「贖」の誤記だとされる。
 同じ諡号で紛らわしい為に、諡号の後にそれぞれの諱を連ねて呼び分けたりもする。前代の方を「荘公贖(そうこうしょく)」、後代の方を「荘公光(そうこうこう)」というように。
 だがこの本稿では両者を区別する必然性がない為に、後代の第25代の方を「斉荘公」とだけ呼ぶ。
 この斉荘公(荘公光)は、本書庫の後出の故事で語る通り、「蟷螂の斧」の故事成語(リンク先工事中)の当事者ともなった。


 斉荘公は斉霊公の嫡子であったが、性格に粗暴さが目立った。
 その上に斉霊光が寵愛していた夫人で、宋の公女の戎姫【じゅうき:姓は子(し)、名は不明】の策動によって、一旦は父・斉霊公によって太子の位から廃された。
 斉荘公は徳に欠ける君主であったので、即位実現の恩人でもあった、臣下の崔杼【姓は姜(きょう)、氏は崔(さい)、名は杼(ちょ)、諡号は崔武子(さいぶし)】の妻・東郭姜【姓は姜(きょう)、氏は東郭(とうかく)、名は不明】と不義密通した事から崔杼の怒りを買い、その結果崔杼によって暗殺される。
 斉荘公を弑殺した後に、崔杼は斉荘公の異母弟である公子杵臼を擁立し、即位させた。これが斉景公である。
 これらの詳細は【第二二計 関門捉賊】の故事(リンク先工事中)で語る。


 これら三君の中では、この斉景公の治世が群を抜いて長いので、晏嬰に関する逸話は、必然的にこの斉景公との遣り取りが、圧倒的大部分を占める。





 ♜ 晏嬰概論──────その人となり

 斉霊公の治世27年目の紀元前556年に、晏嬰の父・晏弱【姓は不明、氏は晏(あん)、名は弱(じゃく)、諡号は晏桓子(あんかんし)】が死んだ。それにより晏嬰は歴史の表舞台に登場した。
 そして晏嬰は斉景公の治世49年目の紀元前500年に死んだ。晏嬰は生年不詳な為に、享年も不詳である。


 そして晏嬰の出自も不詳である。管仲と晏嬰を主人公に採り上げた、前出の司馬遷の『史記』、その『史記』の中の【管晏列伝(かんあんれつでん)】では、


『晏平仲嬰(晏嬰)は、萊(らい)の夷維(いい)の人なり。』


という記述がある。
 晏嬰の父・晏弱が斉霊公に命じられて、斉よりも東方に位置した小国・萊の攻略を担い、何年も掛けて紀元前567年に遂に攻め滅ぼした。
 萊は斉と同様、現在の山東省に存在した。
 つまりは晏嬰は父・晏弱がその地に滞在していた時に生まれた、という事なのであろうか?それとも晏弱が滅ぼした後に、その地に住むようになっていたのか?その辺りが不明確である。


 そして晏嬰の生まれた晏氏という氏族のルーツも、史書には記載されていないので、本姓や祖先の事が不明である。
 為に晏氏はいつ頃から斉の大夫として仕えていたのかも判然としない。だが晏氏は斉では身分が高い氏族ではなく、権勢もなかった。


 晏嬰は辣腕の宰相として、その政治的手腕だけでなく、賢明ぶりや人徳の高さでも天下に高名であったが、稀に見る小男としても有名であった。
 身長が六尺にも満たなかったと言う。周代の一尺は22.5cmだったと言うから、晏嬰は135cmにも満たない低身長だった事になる。
 つまり現代で言う所の低身長症(小人症)だったのであろう。だが晏嬰はそのような体格的なハンディキャップなど、ものともしなかった。


 また晏嬰はその生涯において、質素倹約を好み贅沢を嫌った。卿に昇進してからも家庭内においては、食事に肉料理を二品と食さず、家族にも家に仕える妾(下女)にも、絹などの上等な衣類を着せなかった。
 晏嬰が宮廷に出仕している時は、国君に下問された時は正しい意見を述べ、なければ己のみで正しい振る舞いをしていた。
 国に道が正しく行われている時は君命に従い、道が正しく行われていない時は君命を慎重に検討し、行うべき事を行った。
 相手が国君であろうと、過ちや道理に外れた言動があれば、決して媚び諂う事なく、常に誅殺を覚悟で諫言した。
 晏嬰はこのように執政を行ったので、斉霊公・斉荘公・斉景公の三代の治世において重んじられ、晏嬰の名と共に斉の声威も天下に轟いた。
 国君が悪政や失政続きでも、晏嬰の威光によって支えられていた。それこそ管仲の執政期以来の、斉の第二の黄金期であった。


 そして父・晏弱の死から家督を継いで以来、57年間もの長きに亘って生きた後、紀元前で丁度500年に没した。
 晏嬰の死から114年後の紀元前386年に、斉は田氏一族に簒奪され、国祖・太公望以来続いた姜姓による統治は終焉を迎える。
 太公望以来の姜姓(呂氏)一族の支配による斉は「姜斉」、田氏が乗っ取って以降の斉は「田斉」と呼び分けられる。
 田斉が誕生するまでの間に、晏嬰に匹敵するだけの偉大な賢人は、遂に現れる事はなかった。晏嬰こそは斉(姜斉)における最後の星であった。





 さて、いよいよこれより以降の話は、晏嬰の生涯の言行録とも言うべき『晏子春秋(あんししゅんじゅう)』から取り上げる。
 その『晏子春秋』に集録された数多くの逸話の中から、晏嬰が指桑罵槐策を用いたと見做せる逸話を、全部で八本ばかり取り上げる。
 だが紹介する順番は『晏子春秋』に集録されている順であって、決して時系列順という訳ではなく、紀元前何年の出来事かも不詳である。





 ♝ 晏嬰の指桑罵槐策 其之一:礼無き事を望めば──────身を以て非礼を顕示する

 まず最初の第一本目の逸話は『晏子春秋』の【内篇(ないへん)】、その内篇の中の【諌上第一(かんじょうだいいち)】の第二章の逸話。





 ある日の事、斉景公が群臣を集めて宴席を催した。そして宴も酣になった頃に、斉景公は一座に向かって言い出した。


「本日寡人(かじん)【※1】は諸大夫と共に、楽しく飲み合いたいと思っておる。よってこの席では礼など無用である。」


 晏嬰には日頃から口煩く、特に礼に反していると諌められてばかりいたので、斉景公は内心面白くなかった。それでこのように晏嬰に対して、当て付けるように言ったのであった。
 それを聞き晏嬰は、慎んで姿勢を正して、斉景公の誤りを諌め始めた。


「君公の只今の御言葉は、間違っておられますぞ。群臣というのは元々、君主に礼がなき事を望んでおるのです。
 力が多く集まれば上の者に勝てるまでに至り、勇が多く集まれば君主を弑殺するまでに至ります。しかしそれらの振る舞いは、礼を守る立場からは許されませぬ。
 禽獣は力を恃んで政治を行い、強者は弱者を犯し、日々仕える主君を変えて行きます。もし今、君公が礼を捨て去るならば、それ即(すなわ)ち禽獣と何ら変わらなくなります。
 その結果、群臣は力を恃んで政治を行うようになり、強者は弱者を犯し、日々仕える主君を変えるようになるでありましょう。そうとなれば君公は、一体何処に身の置き所がありましょうや?」


 ここから晏嬰は、書物に記された詩文を引き合いに出した。


「凡そ人が禽獣よりも貴き存在であるのは、単(ひとえ)に礼があればこそ。
『詩経(しきょう)』【※2】の【国風(こくふう)】(の中の「相鼠篇(そうそへん)」の一節)にもこうあります。


『鼠を相(み)るに體(たい)有り、人にして禮(れい)無し。人にして禮無きは、胡(なん)ぞ遄(すみ)やかに死せざる。』

【意味:鼠を見れば、人と同じく手足が備わっている。
 それでも人と異なるのは、鼠には礼(禮)というものがないからである。
 だからこそ人でありながら礼がないのならば、何故さっさと死んでしまわないのか。】


と。故に礼はなくてはならぬものなのでございます。」


 だが斉景公はそんな晏嬰の諫言に、耳を傾ける素振りも見せなかった。
 それで晏嬰は一計を案じ、言葉では伝わらないのなら、実際の振る舞いを示して、間接的に諌めようと思った。


 それから少ししてから、斉景公が中座しようと席を立った。
 斉景公が退出する時に、礼儀として一同は立ち上がって見送ったが、唯一人晏嬰だけが起立せずに座ったままでいた。斉景公はその光景を内心見咎めたが、そのまま退出した。
 暫くして斉景公が席に戻って来たが、その時も同様に、一座の中で晏嬰一人だけが起立もせずに、座ったままでいた。これまた斉景公は気になった。
 そして君臣一同が交挙(こうきょ)【※3】しても、晏嬰は御構いなしに一人だけ先に飲み始めた。
 そんな晏嬰の度重なる非礼な態度に、斉景公は怒り顔色を変えた。斉景公は手を撫で睨み付けながら言った。


「先程夫子(ふうし)【※4】が寡人に教えし事は、無礼は良からず、という事ではなかったか!?
 然るに夫子の先程からの非礼な振る舞いは何ぞ!?
 寡人がこの場を出入するに際し、夫子だけは立ち上がらず、交挙すれば先に飲み始めると来たものだ!それが礼だと申すか!?」


 晏嬰は座席から出て、再拝稽首(さいはいけいしゅ)【※5】をしながら言った。


「この嬰が君公に申しました事を、何故に忘れましょうや?
 臣(しん)【※6】は無礼とは如何なるものなのかを、実際に振る舞う事によって示したのでございます。
 君公が礼のなき事を御望みにならば、このようになるという事でございます。」


 そこまで聞き、斉景公はとうとう己の非を認めるに至った。


「これは寡人の罪である。夫子よ、もう席に戻るが良い。寡人は夫子の言に従おうではないか。」


 そして觴三行(しょうさんこう)【※7】して、そこで酒を止めた。
 この一事以降、斉景公は法を整え、礼を修め、それで国政に臨んだので、百姓(ひゃくせい)【※8】は慎むようになった。





 ♞ 晏嬰の指桑罵槐策 其之二:桀紂でなくて幸い

 続いて第二本目の逸話は『晏子春秋』の【内篇】、その内篇の中の【諌上第一】の第四章の逸話。





 斉景公は酒宴を開き、それが七日七晩も続いた。
 いつまで経っても酒宴を止めようとしない斉景公に対して、弦章【姓(あるいは氏)は弦(げん)、名は章(しょう)】という臣下が遂に堪り兼ねて諌めた。


「君公が宴を始められてから、既に七日七夜にもなります。
 この章、君公にはこれ以上の酒宴は御止め下さるよう願います。
 もし御止めにならぬのであらば、何とぞこの章に死を賜り下さりますよう。」


 こう言われて斉景公は、ほとほと困り果ててしまった。
 丁度そこに晏嬰が現れた。斉景公は晏嬰に事の次第を告げた。


「弦章が寡人を諌めてこう申したのだ。これ以上の酒宴を止めよ、もしその気がなければ、死を賜りたい、と。
 これを聞き容れれば臣制(しんせい)【※9】となってしまい、宜しからず。
 かと言って聞き容れないとなれば、弦章に死を命じねばならなくなるので、それもまた惜しい。」


 そこで晏嬰は巧妙な弁舌を展開して、両者の窮状を救い出した。


「諌めた相手が君公で、弦章は幸いと言うべきでございました。
 もしも相手が君公ではなく桀紂(けっちゅう)であったなら、弦章はとうの昔に死んでおりましたぞ。」


「桀紂」とは夏王朝最後の天子となった夏桀王【かのけつおう:姓は姒(じ)、氏は夏后(かこう)、名は履癸(りき)】と、殷(商)王朝最後の天子となった殷紂王【いんのちゅうおう:姓は子(し)又は好(し)、名は辛(しん)】の二人の事である。
 両者とも無道な暴君として支那史上に悪名を遺し、遂にはそれぞれの王朝を滅ぼしてしまった。
 このように言われてしまった以上、斉景公が弦章に自裁(自死)を命じれば、自分を嘗ての暴君と同類だと認めた事になってしまう。
 ここにおいて斉景公は、遂に酒宴を止めざるを得なくなった。
 こうして晏嬰は巧妙な弁舌の術を用いて、斉景公の面子を損なう事なく、弦章の命をも救ったのであった。





 ♟ 晏嬰の指桑罵槐策 其之三:圉人を誅殺より救う

 次に第三本目の逸話は『晏子春秋』の【内篇】、その内篇の中の【諌上第一】の第二十五章の逸話。この逸話では晏嬰が指桑罵槐策を、二度連続で使う。





 斉景公には御気に入りの馬があった。しかしその愛馬が突如病死してしまった。
 斉景公は大層怒り、責任者の圉人(ぎょじん)【※10】肢解(しかい)【※11】という酷刑に処そうとした。
 さていよいよ刑場にて、刑吏が刑具の刀を持って、圉人に肢解を執行しようとした所、その場に現れた晏嬰は、一先ずは刑吏を押し止めて、斉景公に拝謁した。
 そして斉景公に尋ねた。


「古の聖天子たる堯舜(ぎょうしゅん)【※12】は、人を肢解するに、体のどの部分より始められましたでありましょうや?」


 斉景公は予想外の事を問われて驚き、思考が混乱した。その為に、


「寡人より始まる。」


 などと、意味不明な返答をした。
 支那史上聖天子として讃えられているだけあって、慈悲深い堯舜が肢解などという酷刑をする筈がないので、晏嬰はそれを承知で問い掛けたのである。
 斉景公に慈悲の心を呼び起こそうとするのが狙いである。
 そして前述の言動から、斉景公にも悔悟の念が生じた事が窺える。即ちこれが一度目の指桑罵槐である。


 斉景公はさすがに行き過ぎたと悔いて、圉人への肢解の執行は取り止めた。
 代わりに圉人の身柄を獄吏に引き渡し、獄(牢獄)に繋ぐように命令した。
 つまり肢解まではしないにしても、いずれは別の方法で処刑するという事であり、処刑そのものを取り止めた訳ではない。
 そこで晏嬰は二度目の指桑罵槐を用いようと考え、斉景公にこう申し出た。


「この者は己の罪を知らずして死ぬ事となります。それ故に臣から君公に御願い申し上げます。
 この者の罪状を一つ一つ数え上げながら責め立て、己の罪を知らしめさせてから、この者を獄へ投じましょう。」

「うむ。そうするが良かろう。」


 そうして晏嬰は圉人の前に進み出て、圉人に罪状を告げ始めた。





後続  故事其之陸 ─ 乙

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