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まっ黒けーーー。ああ、色白だけが取り柄だったのに。(T-T)/東京

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  司馬遼太郎氏が、『街道をゆく』所収の『中国・江南のみち』で紹介している「乾隆帝漢人説」を読み、昔日、北京故宮博物院で見た乾隆帝の肖像画を思い出した。


1、乾隆帝漢人説

  乾隆帝(一七一一〜九九年)は、清朝(一六四四〜一九一二年)第六代皇帝である。諱は弘暦、廟号は高宗、その治世乾隆年間(一七三五〜九五年)は、清朝が最も隆盛を極めた時代であった。

  この清朝は、中国東北地方に興った満族の王朝であり、現在も中国の民の九割を占める漢族にとっては、異民族の王朝である。それまでの漢族による統一王朝としては、漢朝(西漢:紀元前二〇六〜紀元八年、東漢:二五〜二二〇年)と、明朝(一三六八〜一六四四年)が知られるが、清朝は後者の明朝を倒して成立した王朝であった。

  漢族の異民族王朝に対する心理には鬱屈したものがあった。文化的に劣ると認識している民族に、武力によってよんどころなく支配されている、中華が北狄に屈している、という鬱屈である。

  乾隆帝即位の頃は、満族が天下を取ってまだ百年足らずであり、民の大多数である漢族の抵抗は、根強く続いていた。「乾隆帝漢人説」は、そのような情況のもとで、民間に流布したという。

  以下は、『中国・江南のみち』の「乾隆帝奇譚」の項に書かれている話である。

  司馬氏は、一九八一年に、銭塘江の海嘯の地を訪れた帰途、海寧県の水田風景の美しさに魅かれ、「塩官鎮」という村に立ち寄った。そこで立派な華表(鳥居状の中国式門)のある「陳閣老」の邸宅を見学した。その際、案内役の沈先生から、この陳閣老は乾隆帝の実父であった、という奇説を紹介されたという。

  (正史に記録される乾隆帝の父は第五代皇帝雍正帝である。)帝が雍親王であった時、満族の納剌氏ナラシとの間に子を生したが、その子は女子であった。男子を欲していた王は、たまたま同時期、陳閣老に生まれた男子と自身の女子を取り替えた、という説である。

  初めてこの説を知った司馬氏の質問に答えて、沈先生は翌朝、奇説にまつわる文章を送って来た。文章は「陳閣老ニ関スル伝説」と題され、以下のように記されていた。

  陳閣老は名は元竜といい、漢人説の出典は、清代に出た『野史大観』という本である。

  沈先生は、この説の「真偽、考ジ難シ」としているものの、「当時、漢族のあいだには満族の統治に対する不満があった。こういう伝説が民間に流れていても、乾隆自身がこれを聴之任之(キキナガシ)にしていたのは、両族の矛盾を緩和しようとする意図がかれ(乾隆帝)にあったように思える」としている。

  そして、司馬氏は帰国後、この説の出典として『清朝全史』の、「一説に、乾隆帝は、納剌氏の出にあらず、実は浙江省海寧なる漢人陳氏の子なりといへど、詳かならず。」との記述を挙げている。


2、陳閣老と『書剣恩仇録』

  この陳閣老とはだれか。海寧の陳家は当時官吏を輩出しているが、該当する陳氏は、先述の陳元竜と陳世倌セイカンのどちらかと言われている。共に康熙帝の時の進士で、康煕雍正乾隆の三帝に仕えている。この稿では、乾隆帝の帝記にたびたび登場し、『清史稿』の列伝にも専伝が設けられている後者について、紹介する。

  即ち、「陳世倌、字は秉之、浙江海寧の人、父は詵セン、自ら伝有り。世倌、康煕四十二年(一七〇四年)の進士」とある。

  世倌は、生涯良吏として聞えた。

  例えば、山東巡撫の職に在った時、旱魃蝗害の中を自ら赴いて災害の軽重や官吏の管理能力を視察して廻り、貧民の税を軽くするよう上奏している。このように、天下の災害に当たっては度々上奏を繰り返していたため、乾隆帝に、「陳世倌が又来て百姓の為に哭す矣」と言わしめたほどである。

  また、回教(イスラム教)を禁止するよう上奏していることからは、当時の回教圏でも満族王朝に服していないことを窺わせる。

  この「乾隆帝漢人説」を下敷きに書かれた武侠小説が、金庸キンヨウ(一九二四〜)の『書剣恩仇録』(一九五四、五五年、香港『新晩報』連載)である。中国語圏ではよく知られた小説で、これまでに何度か映画化、テレビドラマ化されている。日本では、徳間書店から岡崎由美氏の日本語訳全四巻(一九九六〜九七年)が刊行されている。私もこの機会にアマゾンから文庫本を取り寄せて読んでみた。

  小説の主人公は、秘密結社紅花会の二代目を襲名した乾隆帝の実弟陳家洛。初め、自分が帝の弟であることを知らない。帝の方では、自身の出生の秘密(雍正帝の実子ではなく陳氏の子であること)を知る、結社の剣客文泰来の口封じをすべく、これを捕らえて尋問しようとする。

  紅花会は反清復明(滅満興漢)を図る秘密結社であり、その社員である剣客たちが、同じく反清の回族(イスラム教徒)族長父娘たちと共に、清朝に対する凄まじい戦いを繰り広げるのである。

  話は、実在の人物乾隆帝と陳氏、伝説の香妃(ウイグル族長の娘で、身体に芳香があると言われた、実在の容妃がモデルと言われる)、民話のアファンティ(日本の一休さんのようなウイグルの知恵者)等に、民間伝承の「乾隆帝漢人説」を絡めて展開してゆく。

  史上の乾隆帝は、南巡(南方行幸)を繰り返し、海寧にも四度足を運び、陳家の墓を建て直したと言われている。それらの史実と口承が相俟って、漢族の鬱屈を晴らす可く、「乾隆帝漢人説」が流布することとなったのであろう。

  また、陳閣老の出自は海寧県であり、『書剣恩仇録』の作者金庸の出身地も海寧県であった。幼時からこの口承に親しんでいた金庸は、武侠小説の執筆を請われた時、自然にこれを下敷きとした構想が浮かんだものであろう。二十一世紀の現在でも「乾隆帝漢人説」が巷間に盛行していることには、この小説の及ぼした影響も大きいと思われる。


3、乾隆帝の肖像

  「乾隆帝漢人説」の真偽について、司馬氏は『江南のみち』に、肖像画から見た乾隆帝の印象を以下のように記している。

  「かれには、二通りの肖像画がのこっている。乾隆自身が、その愛読書『文選』に挿入していたという肖像画は、中国画で、満洲の典型ともいうべき面長で一重瞼である。江南の顔は二重瞼が多く、さらには丸顔が多いとされる。〔改行〕いまひとつの肖像画は晩年のもので、洋画である。このほうは面長とはいいがたいが、目は北方ふうに細くするどく瞼は一重であり、しかも顔に肉がすくなく、いかにも北方民族の特徴ともいうべき筋肉質のするどい印象をあたえる。」

  即ち、上記の文では、(図版で見る)乾隆帝の顔容について、二幅中の一幅(中国画)は満洲の典型(面長で一重瞼)、一幅(洋画)は北方民族の特徴(目は細くするどく瞼は一重、筋肉質)を備えている、と述べている。肖像画からは、満族と解しているといえよう。

  史書によれば、乾隆帝の肖像画を描いた画家は、十人以上が知られている。前記の「二通り」というのは中国画と洋画の意であろうか。洋画の肖像画を描いた画家には、著名な郎世寧ランシーニン等のイタリア人画家が含まれており、写実的な肖像画が遺されている。


4、乾隆帝の耳毛

  さて、皇帝の耳毛である。

  筆者が乾隆帝の肖像画を見たのは、北京で美術学院に留学していた時である。一日、中国人学生と共に実習見学の為、故宮博物院の絵画室を訪れた。一人で乾隆帝の肖像画の前で漫然と眺めていると、満族の学生がやって来て、肖像画に耳毛が描き込まれていることを教えてくれた。

  迂闊なことに、当時は耳毛という日本語すら知らなかったので、中国語の「耳毛」という単語も初耳であったが、日中同字の為即座に解した。注意して見ると、果たして皇帝の両耳から幾本もの線が飛び出している。それは「耳毛」であると聞いたものの、やはり、「これは何か知らん」と不思議に思い、目を凝らして見つめていた。すると、学生が、耳毛と鼻毛は満族に多く見られる特徴であり、一般に漢族には無い、殊に耳毛は無い、と教えてくれた。

  確かに絵の中の皇帝の両鼻孔からは鼻毛が垂下していた。鼻毛は、皇帝のみが着用できる黄色い龍袍と相俟って、何か皇帝ファッションに重厚さを加えた、とでもいったような堂々たる趣を醸し出していた。何の違和感も感じられなかったのである。
  興味深いことに、これらの肖像画について、乾隆帝自身は写実を求めていた事が知られている。

  『故宮博物院』の「愛新覚羅弘暦的影集 清乾隆皇帝肖像画専題展」の解説によると、宮廷画家の一人繆炳泰ビュウヘイタイが、帝の肖像画を描いた時、七〇余の皇帝の耳からはぼうぼうと耳毛が出ていて、見た目が宜しくなかった。他の宮廷画家の多くは皇帝の威厳を損なうことを恐れ、これまで耳毛を描くことはなかった。しかし、写実を堅持していた繆炳泰は、これを悉く忠実に描き出した。すると思わぬことに、乾隆帝はこれを見て非常に満足し、繆炳泰に官職を与えたばかりか、それ以後八九歳に至るまでの肖像画を全て彼に描かせたという。

  日本人には一般に見かけない耳毛。なぜ乾隆帝の耳にあったのであろう。前記『故宮博物院』の解説からは、乾隆帝の老化に伴って育ったように推測される。また、満族学生の話では、耳毛は満族の特徴の一つであるとのことである。満族の老人には耳毛が珍しくない、ということであろうか。


5、極寒の東北地方

  満族の古都は、中国東北地方の瀋陽である。やはり、留学中、学校の実習で一度東北地方の長春や瀋陽の美術館を訪ねた。冬であったが、今のようなヒートテックの防寒衣料は無く、思い出すだに凄まじい恰好をすることとなった。

  下半身は、極太毛糸の股引(ももひき。当時の王府井では、それしか売っていなかった。或いは見つけられなかった)を二枚に、埃除けのズボン。足は靴下に綿入れの布靴。上半身は、セーターを重ね着して、綿入れのジャケットに、マフラーに、帽子に、マスク。手袋も二枚。その頃はまだ細かったというのに、まるで縫い包みにでもなったような具合で、まっすぐに歩くこともかなわず、ガニ股で歩いていた。外出の度に着脱が煩わしかった。

  しかし、如何に煩瑣でも、冬の東北地方では毎回、重装備を整えねばならない。素手でドアノブを握ると、手の皮がくっついて剥がれることもある、とのことであった。マスクを外せば気管支や肺が凍えそうであった。毎回愚直に言いつけを守り、外出時は着ぐるみと化していた。

  満族は、そんな極寒の地に、先祖代々何百年も暮らしていたわけであるから、寒さ対策が遺伝子に組み込まれたのであろう。そう思えば、故宮で聞いた、満族には、耳毛が生える人が多い、という説明に納得が行った。

  ところで、耳毛や鼻毛は寒いから育つのであろうか。寒さも要因であろうけれど、鼻毛は一般に空気が汚れていると育つ、と認識されている。埃に対するフィルターとしての機能がある、と推測される。最近、北京に駐在していた人からも、PM二・五等による空気汚染のせいか、鼻毛が伸びた、と聞いた。

  それでは耳毛はどうであろうか。冷たい気温に対する緩衝フィルターなのであろうか。耳毛が寒さ対策に由来するのか、埃対策に由来するのか判然としないが、何れ防御の為のものであろうと思われる。耳毛は、鼻毛より謎が深い。

  そこで、折よくこの秋(二〇一六年)鼓膜性中耳炎を患い、耳鼻科で切開処置を受けた機会に、まず、耳毛が遺伝による者か、それとも環境による者か、医師に訊ねてみた。すると、耳毛は個人的には遺伝と思うが、病気とは直接関係しないので、耳毛に関する研究論文は見たことがない、しかし興味はあるので、耳毛についての調べ物で何か進展が有れば教えて欲しい、と言われた。あいにく何の進展も無いので、代りにこの文章が活字になった暁にお見せすることとする。


6、「乾隆帝漢人説」

  さて、「乾隆帝漢人説」である。肖像画や『清史稿』等の記事から見ると、この説はやはり伝承に過ぎず、乾隆帝は満族の出身であり、父親は雍正帝であったと考えられる。ただ母親については、近年、満族ではなく漢族の銭氏であるとの説が出ているが、それについては今後の学会の考証結果を待ちたい。

  現在の中国でも漢族には、かつて異民族に統べられたことがある、との鬱屈が些かなりと残っているようで、武侠小説『書剣恩仇録』の人気も衰えていないようである。史実ではないと承知のうえで、その説を楽しんでいるように見受けられた。筆者もこの説を調べながら、やはり楽しい時間を過ごした。


  昨今は、インターネットの普及により、中国の基礎文献は何でも手軽に調べられるようになった。『清史稿』等の史書も、購入したり、大学図書館へ行って閲覧しなくとも、パソコンで読むことが出来る。下調べの手間はずいぶん省かれるようになった。

  中国語で『清史稿』を検索しながら、便利になったと思うと同時に、それが出来なかった頃の文章の重さや格調についても思いを致した。


(「乾隆帝の耳毛」は、昨年、同人誌に掲載したものです。掲載誌を渡せなかった友人知人から、読みたいと要望がありましたので、この機会に気づいた点を書き直し、アップ致しました。)

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20170712

お昼はZ園。御苑から歩き
蓄えていた体内冷房貯金を使い果たした。
Z園でまた貯めよう、と思ったのに
入口が開け放し💧
汗だくで食べた3号定食。
韮萌(もや)し筍鴨肉炒めに海老マヨ白菜スープ。
お茶で汗がひいたら元気回復。
画材屋さんに向った。🐽

白蛇伝物語16 劈塔

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千年の修行を経たさしもの妖蛇も宝鉢の力には敵(かな)いません。あわれ白素貞(はくそてい)は宝鉢に閉じ込められ、小青(しょうせい)は命からがら、法海和尚(ほうかいおしょう)の魔手を逃れて仙界に戻りました。法海は素貞を封じ込めた鉢の上に雷峰塔(らいほうとう)を置き、塔の重さで素貞を抑えつけました。

こうして年月が過ぎ去って行きましたが、その間、小青はたゆまずに厳しい修行を積み、遂に法海を超える術を身につけたのです。ある日、小青は水の眷属(けんぞく)を引き連れて杭州に降り、法海と雌雄を決しました。そして法海を破り、雷峰塔を打ち砕いて素貞を助け出し、共に仙界に帰って行ったのでした。(別伝:月日が経って、小青の育てた素貞の子は、科挙の試験に合格して雷峰塔の母に報告に来ました。すると、塔が崩れて、その下から素貞が現れたのでした。


二枚貝たちにやっつけられている法海は、民間伝承では逃げ延びて、上海蟹になったと言います。
ですから、上海蟹を食べることには白素貞の仇討ちをする意味があるようです。

別伝に基づく画像は、以前山東省高密県(さんとうしょうこうみつけん)の剪紙で
ご紹介しました。
若者(往々にして文官の服装)と塔と蛇身の女性の組み合わせは、
この別伝による白蛇伝のお話と考えて、ほぼ間違いありません。



追記:
明日からマレー半島縦断に出かけますので、今日までに区切りをつけようと
後半から記事が簡略になってしまいました。
また、時間がありましたら、少しづつ補充して行きたいと思います。

白蛇伝物語15 宝鉢

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断橋(だんきょう)で小青(しょうせい)に成敗されそうになったところを白素貞(はくそてい)に助けられた許仙(きょせん)は、今度こそ心を入れ替え、誠実に素貞と添うことを誓います。(別伝:そこで、小青は二人と別れて仙界へ帰り、)許仙と素貞は、杭州で二人水入らずで暮らすことにしました。

こうして二人仲良く暮らしていると、月が満ちて、素貞は玉のような男の子を産みました。しかし、その幸せも束の間でした。ある日のこと、素貞の居場所を嗅ぎつけた法海和尚が乗り込んできました。そして宝の鉢を投げつけるや、素貞を鉢の中に閉じ込めてしまったのです。


赤ちゃんの持っている太鼓のおもちゃにご注目下さい。
清朝の乾隆年間にはすでに「でんでん太鼓」があったことが知られます。

白蛇伝物語14 断橋

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一方、法海和尚(ほうかいおしょう)と死闘を繰り広げた白素貞(はくそてい)は、身重のために戦いを決することができませんでした。のみならず形勢は不利となり、結局小青と一緒に命からがら金山寺から杭州へと落ち伸びてきました。

すると奇遇にも、やはり先に金山寺から逃げ延びた許仙(きょせん)とばったり出くわしました。ここで遇ったが百年目。許仙の不実を憎んだ小青は、その命をもらい受けようと迫ります。しかし、素貞はその間に割って入り、小青の怒りをなだめて許仙を助けようとするのでした。


「断橋」は西湖の白堤にかかる橋で、この場面は「白蛇伝」中、最も有名な場面です。
京劇でも、尻もちをついた許仙を要として、成敗しようとする小青と素貞が、扇状に前後します。
色の付いていない剪紙でも、剣を二本振り上げているのが小青で、
許仙と小青の間にいるのが素貞です。

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