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封建時代では、女性の貞操は生死に係わる大事であった。
19世紀に禁止令が出されたにも係わらず、
今世紀に入ってもまだ行われているというインドのサティー(寡婦殉死かふじゅんし)しかり。
強姦されたと疑われただけで、身の潔白を証明するため自尽して、
烈婦と称された清朝の夫人しかり。
江戸時代の日本でも、男性は側室・妾を持つことが許され、
庶民は公娼をあがなうことができた一方で、女性にはその自由が無かった。
不義密通の行き着く先は死であった。
さて、中国では王朝は交代しても、後宮の存在は変わらずに在ったというのに、
ここにただ一人、後宮の美女たちとの同床を許されなかった、
見方によってはまことに気の毒な皇帝がいる。
別に彼が男性として不健康であったわけでもなく、同性愛であったわけでもないのだけれど。
彼が後宮に足を踏み入れることをはばんだのは、皇后である彼の妻の嫉妬であった。
そのすさまじいまでの嫉妬は、史書に「奇嫉」と記されたほどである。
その皇后とは、隋の初代皇帝文帝の皇后にして、第二代皇帝煬帝の生母独孤氏であった。
鮮卑族の名門独孤氏
独孤氏の祖先は漠北鮮卑族の名門であり、北魏の拓跋氏が中原に入ると共に南遷し、
最終的には中原に定住した。
北朝の皇帝一族や多くの貴族がそうであるように、漢民族ではなく少数民族である。
独孤氏の父独孤信は、少年時代から名声があり、「独孤郎」と呼ばれていた。
いまならさしずめ、ミスター独孤とでもいうところだろうか。
彼は容姿も端麗であり、遠近の人々から慕われ、崇拝されていたようで、
こんなチャーミングなエピソードが残っている。
ある日のこと、独孤信は狩猟に出たが、狩場で日が暮れてしまった。
そこで馬を疾走させて帰宅の道を急いだため、彼の帽子が少し曲がってしまった。
するとどうであろう。
翌日、町中の帽子を被った男たちの帽子は、みな前日の彼がそうであったように、
少し傾けて被られていたのであった。
北魏孝武帝永熙三(五三五)年、北魏王朝が西遷して東西魏に分裂した時、
独孤信も孝武帝に従って関中長安に入った。
続く
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