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遂に、半歩も進めないままに2016年が暮れてしまった。

一応、年の〆に、何が原因で作業の足が止まっているのかに付いて書いておこうと思う。

先の戦争で「日本殺し」を主導した勢力は3つ。
上海のアヘン商(と、それに繋がる英政治家達)、ソ連、そしてルーズベルト・ホワイトハウス(と国務省)だ。
まぁ、アヘン商達は恐らく日本のシナへの進出を止めようとしていただけで、元から「日本殺し」を目論んでいたという訳ではないんだろうと思うけど、その為にF・ルーズベルト、スターリンという2大狂人をシナ情勢の中に引っ張り込んだのだから、『「日本殺し」を主導した勢力』に数えて間違いないだろう。

シナ人や朝鮮人達は、それぞれの勢力に飼われていた手先に過ぎない。

で・・・所謂「ハルノート」の原案を書いたホワイトがソ連のスパイだった事もあり、アメリカの枢要部がソ連に乗っ取られていたという認識を持っている人が少なからず居る様なのだが、恐らくそれは違う。勿論、アメリカの政界やメディアにソ連のスパイやシンパがごっそりと入り込んでいたのは事実で、だからこそ、後にマッカーシーの音頭で「レッドパージ」をやったんだけど、だからと言って、アメリカが『ソ連の影響によって「日本殺し」に傾いた』という訳ではないんだわ。

アメリカの枢要部は、元から日本を滅ぼしたがっていた。
だから、「日本殺し」という目的に関してソ連と「意気投合」したんだわ。

アメリカでの「黄禍論」の流行に関しては、
「日露戦争に於ける日本の勝利によって、アメリカで日本に対する警戒心が高まり云々・・・」
という様な説明が為されている場合が多い。アメリカで「黄禍論」が持ち上がったのが1905〜6年頃からで、時期的に符合しちゃうものだから、何となくその説明が流通してしまっているみたいなのだが・・・恐らくその認識は間違いだ。まぁ、間違いと言うよりも、「嘘」というべきなのかも知れないが。

20世紀に入ってすぐに、アメリカ政府は、
「フロンティアは存在しない」
と宣言した。つまり、北米大陸は白人が完全に制圧したと宣言した訳ね。
それで、アメリカが次に何をしたかというと・・・ハワイ王国の侵略に取り掛かったんだわ。

侵略されかかったハワイ王国は、日本に救援を要請。
それを受けて日本政府はハワイに軍艦を派遣し、アメリカ人達が無法を働かない様に睨みを利かせて、アメリカ人によるハワイ侵略を食い止めていた。

しかし、1904年に日露戦争が勃発。
日本としてはハワイに軍艦を出しておく余裕が無くなり、已む無く日本に呼び戻した。
で、日本は何とか日露戦争に勝利したのだが、その間にハワイ王国はアメリカに併合され、滅びてしまった。

真珠湾攻撃の遥か以前に既に、日本はアメリカに対して軍事的対立の意思を示した事があるんだわ。
1905〜6年頃からアメリカで「黄禍論」が喧伝される様になった理由は、恐らく日露戦争なんかじゃなくて、こっちなのよ。

で・・・「フィクション」を続けて行くと、何れF・ルーズベルトの日本に対する偏執的な悪意に論及する事になるんだけど、その遠因として、この「ハワイ侵略妨害」の一件に触れる事になる、と。
で、その論じ方に付いて考えている内に、ヨーロッパ系の連中の「根源的な異常性」にぶち当たって・・・そこで躓いて、足が止まってしまっているんだわ。

ヨーロッパ系の連中ってねぇ・・・自分達が他所を侵略しようとして、現地人に抵抗されると怒るし、侵略を妨害されたり侵略に失敗したりすると、相手を恨むのよ。
コレがどうにも理解しづらいと言うか、抽出し難いんだよね。

「ハワイ侵略を妨害された事に対する怒りと恨み」
「日露戦争に負けた事に対する復讐」
・・・日本人からすると、
「何処にヲ前らが恨みを云々する筋合いが有るんじゃ」
って話なんだけど、事実として奴等は「怒る」し「恨む」んだわ。

で、その辺の事を振り出しに、欧米系の何と言うか、「心性」の様なモノに付いて考えていたんだけど、考えれば考える程、不気味と言うのか、気色悪いと言うのか・・・

ヨーロッパからアメリカ大陸に最初に辿り着いたのは、スペイン王室に雇われたジェノバ人、一般的には「コロンブス」と呼ばれているクリストフ・コロンボで、そもそもこのコロンボが中央アメリカ一帯でやりたい放題の虐殺をやらかしているんだけど、その後、スペイン、ポルトガルから続々とアメリカ大陸に渡った所謂「コンキスタドーレス」達も中南米一帯で略奪と虐殺を行い、ヨーロッパ人が入って以降、中南米一帯で3000万人以上の原住民が死亡したと考えられている(ヨーロッパから持ち込まれた疫病による死者を含む)。

その後、イギリス人がアメリカ大陸に渡る様になり、スペイン、ポルトガルが余り手を付けていなかった北米に入り込み、現地人から土地を奪い取り、だまし取り、更には現地人を駆除する為に意図的に天然痘を撒き散らし、抵抗する者はぶち殺し、19世紀までに原住民を絶滅寸前にまで追い込んだ。

また、オーストラリアにはイギリス人が入り込んで原住民をハンティングで殺しまくり、タスマニアの原住民に関しては本当に絶滅させてしまった。

他に、フランスやオランダ、ベルギー、イタリアなんかも東南アジアやアフリカで似たり寄ったりな事をやらかしているんだが、書いていたら果てが無いので・・・。

で・・・ヨーロッパ各国の人間が、ヨーロッパの外に出てやらかした種々の暴戻に関して、一かけらの罪悪感も持ち合わせていないという事に付いては、彼の地の「差別主義」の賜物として理解は出来る。

理解できないのは・・・
アメリカやオーストラリアでは20世紀に入ってから、原住民に対する「保護政策」を採っている。その事自体は別にどうという話でもないんだけど、アメリカ人もオーストラリア人も・・・
その事を以て、自分達が「原住民を大切にしている」と思っている臭いんだわ。
更に言うと、自分達が「原住民を大切にするGoodperson」だと思っている臭いんだわ。
更に更に言うと、その事で他国の人間から「Goodperson」と思われていると思っている臭いんだわ。

この辺の「歪み」が、どうにも抽出し難いのよ。

思惟の形態だけを見れば、朝鮮人のそれに構造的には近いんだと思うけど・・・朝鮮人が自分達が「善」だという事にする為に自分達の悪行そのものを無かった事にするのに対して、ヨーロッパ人は自分達が略奪や詐取、虐殺、搾取、強姦、人身売買などをやらかしていた事を隠しもせず、それを知った上で、当たり前の様に自分達の事を「善」だと「思っている」し、自分達が「善」だという立場で世界を見、語るんだわ。

この辺の精神構造がもう少し見えないと、日本が直面した「悪意」の形を論じるのが難しいのよね。

2016年の内に投稿する心算だったんだけど、年が明けてしまった。文末に書くのも妙だけど・・・

新年、明けましておめでとうございます。
ちょっとまだ、作業再開の目途は立っていないのですが、今年も宜しくお願い致します。








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あの作業をやっている理由というか、根っ子に有る問題意識の様なモノを書いておこうかと思う。
・・・「安倍談話」にちょっと失望した部分もあるもので。

90年代から現在にかけての日本の外交を、現在から遡って冷静に評価すると、「失敗」とかいった生温い話ではなく、「意味不明」とか「基地外沙汰」とでも評するしかないレベルだと思う。
現在、二十年余りに亘って猛烈な軍拡を進めて来た中国が、その軍事力を背景に四方八方に侵略行為、威嚇行為、不法行為を繰り返し、日本もそのターゲットになっている。
現在の安保法の改正も、要はそれが原因な訳でね。

で、その中国の軍拡を可能にしたのは改めて言うまでもなく、過去十数年間に亘る凄まじい経済成長なのだが・・・その経済成長というのは、ハッキリ言えば、100パーセント「日本が作ったモノ」なのよ。
この様に書くと、「欧米からも投資はされている」「と言うか、額面で言えば欧米からの投資の方が遥かに多い」といった反論をする人が居るのだろうと思う。
しかし、中国への欧米からの投資が行われ始めたのは、中国に各種インフラが整備されて投資に適すると判断される様になってからの話で、その「インフラ」が100パーセント日本の支援で整備されたのよ。

で・・・異常なのは、その日本の支援が、1993年に中国が江沢民体制になって、現在に連なる凶悪で偏執的な反日路線に転換して以降に行われているという事なんだわ。
真面目な話、事象だけを見たら、当時の日本の外交に携わっていた連中の脳疾患を疑うレベルだ。

この異常状況を読み解くカギが、恐らく1993年の、所謂「天皇訪中」なのだろうと思う。

「天皇訪中」に関して、一般的には、
『1989年の所謂「6.4天安門事件」の際の中国政府による民主化を要求する勢力に対する虐殺、弾圧への制裁措置として、アメリカの音頭取りで中国への経済封鎖が掛けられ、それによって中国は青息吐息になっていた。しかし、1993年に日本政府が天皇を中国に訪問させ、それによって対中包囲網は実質的に無効化し、中国は窮地を脱した。』
という様な形で論じられている。

まず押さえておかねばならんのは、日本政府の行った「天皇訪中」というのが、アメリカの音頭取りによる対中経済封鎖の最中に行われたものであるならば、それは間違い無く、アメリカ政府の承認、最低限、黙認を取り付けた上で行われたものだという事だ。

これは、軽薄な「アメポチ論」とかの話ではなくて、「不意打ちこそ交渉の華」という腐った精神文化を持った民族や、国際社会に対して一度も責任を担った事の無い国なんかは別として、まともな国であれば、国際情勢、国際関係に影響の出る様な案件を何の根回しも無しに独断でやる様な乱暴な外交はしないものなんだわ。

実際・・・まぁ、当時は現実の政治に特段に関心は持っていなかったので、この件に関してつぶさに報道等を追っていた訳ではないけれど・・・記憶する範囲では、この件に関してアメリカからクレームが来たとかいった話は全く無かった。
そこから推しても、アレに関してアメリカに話が通っていたというのは、まず間違いの無い所だと思う。

さて、その上で・・・次に、アレが誰から、何処から出たプランだったのか、という話だ。
この点に関しては表に出ている話というのが全く無いので、推測するしかないんだが・・・

普通に考えて、日本側からだったという事は、まず無いだろうと思う。日本側から中国に、
「中国はん、どうやらかなりお困りの様ですなぁ。どうです、一丁、天皇陛下でも中国に行かせましょか?」
と申し入れたという様な事は、流石に無いだろう。

無論、日本側に(と言うか、日本国内に)対中包囲網を解除させたい、中国を経済的、政治的に支援したいと考えた勢力は居たのかも知れないし、まぁ、恐らくは実際に居たのだろうけど・・・そう考えた連中が居たとしても、その目的の為に採れる手段というのは色々と有った筈で、それが『「天皇訪中」でなくてはならない理由』が有ったとは思えんのよ。
「天皇訪中」という手段を選ぶというのは、実現へのハードルを無駄に上げるだけなんだよね、恐らく。

では、中国側からだったのか?
「プランの出所」という事で言うならば、恐らくその通りだ。しかし、中国側から日本に、
「天皇を中国に来させるアルッ!」
と申し入れて来たのだろうかというと・・・恐らくそれは、違う。

それだと、陛下御臨席の晩餐会での、江沢民のあの非礼極まりないスピーチに説明が付かなくなるんだわ。

中国が日本政府に「天皇訪中」を要請したとした場合に、
「6.4天安門事件で地に落ちた共産党の威信を取り戻す為に、日本の天皇をスケープゴートとしてブッ叩いて見せねばならないアル。だから、天皇を中国に来させるアル。」
という「本当の理由」を言って来た筈は無いんだわ。その場合、中国は間違い無く「中日友好」を表看板に出して来ていた筈なのよ。

で、その看板で日本側と交渉して、首尾良く「天皇訪中」を実現したとして・・・その上で、江沢民のあの侮辱的スピーチが行われたのだとすると、どうなるか?
日本側で「天皇訪中」の実現の為に骨を折った連中は、当然、ヘソを曲げる事になるわね。
そうなると、中国共産党と江沢民にとって「天皇侮辱」と同じくらい、と言うか、恐らくはそれよりも重要な「その後の日本からの経済的、政治的支援」が危うくなる可能性がある。
そして・・・まぁ、これはあくまで「たられば」の話でしかないんだが、90年代の日本からの経済支援が無ければ、共産中国は確実に20世紀中に潰れていただろうと言われている。

あの江沢民の侮蔑的スピーチというのは、本来、「有り得ない」んだわ。
外交儀礼上とかいった話ではなくて、政治的に「有り得ない」のよ、リスクを勘案すると。

しかし、それは「実際に行われた」。
それが意味するのは・・・恐らくそれに付いて、江沢民に「確実な勝算が有った」という事なのね。

さて・・・「天皇訪中」に関しては、アメリカの要請によるものだったという説を唱える者が、以前から居る。

つまり・・・1989年の「6.4天安門事件」での民主化勢力に対する弾圧への制裁として中国に経済封鎖を掛けていたら、その間にソ連は崩壊するわ、アフガニスタンは完全に無政府状態になるわ、中東は湾岸戦争の残り火で燻るわ、更にアメリカに関して言えば、裏庭の中米のニカラグアやらエルサルバドルやらパナマやらが慢性的な政情不安で・・・
「更にこの上、チャイナやノースコリアまでどうにかなったら、流石に手に負えねぇぜ、HAHAHA!」
「しかし、チャイナへの経済封鎖は、民主化要求への弾圧に対する制裁という看板でやっているから、こっちから拳を下すという形を採るのはちょっと具合が悪いぜ、HAHAHA!」
「何か適当なイベントでもでっち上げて、対中包囲網はそのどさくさでなし崩しにしちまうぜ、HAHAHA!」
「その後は、チャイナが潰れない様にジャップに支えさせる事にするぜ、HAHAHA!」
・・・ってな話だったんじゃないのか、と。

ワシも、「天皇訪中」の背景に関しては、大筋に於いてはこの様な感じだったのではないかと思っている。
しかし、この説だけだと、『それが「天皇訪中」だった事』に説明が付かないんだわ。

「天皇訪中」は、まず間違い無く「中国の意向」だ。
日本側から出る話ではないし、ましてやアメリカ側から出て来る筋の話でもない。

という事は、「天皇訪中」というのがアメリカの要請に基づいて行われたものだったのだとするならば・・・それが意味するのは、『アメリカが「中国の意向」を汲んだ』という事なんだわ。

で、ここから先は、完全にワシの推測と言うか想像に過ぎないのだが・・・ワシは中国がアメリカを脅迫したのではないかと考えている。
「もしも我が国が崩壊して我々の統制が効かない様な事態になれば、美国や英国にとって非常に都合の悪い話が表沙汰になったりするかも知れないアルが・・・それでも構わないアルか?」

・・・まぁ、正直な所を言うと、この推測に関しては、自分の中でもちょっとまだ「揺らぎ」が残っている。
と言うのは、1993年に江沢民・中国が反日路線に転換したのと時期を同じくして、金泳三・韓国も強硬な反日路線に転じており、その背景を考えた時に、中国がアメリカを脅迫したという形なのかどうかに関しては留保が付く部分は有る。
その「背景」の話に付いては、ここでは置いておくけど。

しかし、あの「天皇訪中」が、「中国の意向」に基づいて、「アメリカの要請によって行われたもの」であろうという事に付いては、ワシ個人としては確信している。
だから、江沢民は安心してあの侮蔑的なスピーチを行う事が出来たのよ、恐らく。
日本側の「何やねん、アレは」というクレームは、アメリカに行くんだもの。

ただ、その場合、日本からのクレームを受けたアメリカが江沢民に対して怒りを抱く可能性があるのでは、と思う人が居るのかも知れない。
実はそれが、ワシが「中国がアメリカを脅迫したのではないか」と推測する根拠なんだわ。

多分、江沢民には「アメリカからのクレームは絶対に来ない」という確信が有った筈なのよ。
で、シナ人がそれを確信するという事は、何らかの形で「相手のキ○タマを握っている」と考えていたのだろう、と。

その様なフレームで、あの「天皇訪中」という出来事を眺め直してみると・・・江沢民のあの非礼極まりないスピーチが、意味合いの違うものに見えて来るんだわ。

そもそも、江沢民が偏執的な反日政策の強化に乗り出したのは1993年、「天皇訪中」以降の事だ。
つまり、その当時の中国は、中国共産党が「反日教育、反日政策の徹底的な強化が必要だと判断する様な状況」だったという事でね。
その様な状況下で、「中国に来訪した日本の天皇を侮辱する」というパフォーマンスが、中国人の心情にいかほどの訴求力が有ったのだろうかと考えると・・・個人的にはちょっと疑問を抱いてしまうのよ。

事によるとアレは、中国人に見せる為のパフォーマンスだったのではなくて、アメリカの「天皇訪中」実現の為に労を執ってくれた連中に対する、
「我々は日帝の侵略と暴虐の被害者という立場をこれからも堅持して行くので、安心してもらって良いアルよ。」
というメッセージだったのではないか、と。

・・・と、まぁ、ワシ個人は1993年の「天皇訪中」に関して、この様な考え方をしている。
で、その立場から、過去20年余りの日本の対中政策と、その結果としての現状を見ると・・・本当に、余りの愚かしさに気が遠くなるんだわ。

20年余りに亘って野放図に金と技術を垂れ流しに与え続け、それによって肥え膨れた相手から軍事的な脅迫を受けて、それへの対抗策として今やっているのが、恐らくは1990年代に潰れかけた共産中国を生き残らせた張本人であろうアメリカとの同盟強化という・・・

アメリカが今後も先の大戦、特に対日戦争に於いて「自分達が正義だった」という薄っぺらなフィクションにしがみつく事をやめる事ができないのであれば、日米安保は日本の安全保障政策上の「政治的足枷」となる公算が高い。
そのフィクションを維持する為には、アメリカは究極的には共産中国と「敵対できない」んだもの。

そして、その上でワシが危惧するのは、中国共産党が「アメリカは絶対に自分達と敵対できない」という判断に確信を持っている場合、共産中国が軍事的冒険をする必要に迫られた際に、「最も安全な相手」として日本を選ぶ可能性があるという事だ。日本が相手であれば、トラブルを起こしてもアメリカが日本にブレーキを掛けるだろう、と。

下手をすると、個別的自衛権の範囲の事象でまで、「日米安保」を口実としてアメリカに足を引っ張られる可能性があるんじゃないかと思っている。

だからこそ、「戦後レジームからの脱却」というのが重要であり、急務だと考えているんだけど・・・
「安倍談話」を見た限りでは、それを放棄したかどうかまでは分からんけど、棚上げにしたというのは間違い無い様で。

まぁ、政治に限らず何事も、「今までの結果としての現在」の上でやるしかない訳で、現状の「政治的現実」の中では、あの辺が一杯一杯なのかなとは思うんだけどね。

で・・・政治の方での「戦後レジームからの脱却」が諸事情によって停滞するというのであればそっちは置いといて、民間は自由にサクッと「戦後レジーム」から抜けちゃえば良い訳で・・・民間が先に脱却してしまえば、政治も後からついて来るだろう、と。日本は一応は民主主義国家だからな、政治制度的には。

そんな様な考えで「フィクション」の続きに取り掛かろうとは思っているんだけど・・・実の所、あの先をどういう手順で書いて行くかという事に付いて、まだ考えが纏まっていない。事が一本道じゃないんで、どういう手順で書いても「この件に関して書くのなら、先にこっちの話を書いておかんと訳がわからん様になる」というのが出て来るのよ。

まぁ、ボチボチとやって行きます。







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フィクション(29)

今書いているのは、単なる「フィクション」だ。
実在の人物や団体、事件等と関連している様に感じられても、それは偶然に過ぎない。

サッスーン家は元々は、代々イラクに住んで来たユダヤ人一族だった。
それが政治的な事情でペルシャに移り、デビッドの時代にアヘン取引で一山当てて、一財産築いた。
その後、ペルシャ駐在のイギリス東インド会社の人間からインドの様子を聞き、1832年に一族を引き連れてインドに移住、ボンベイで「サッスーン商会」を設立し、東インド会社からの認可を受けて、シナとのアヘン貿易を開始した。

上海が開港された際には、デビッドはいの一番に乗り込み、1845年には現地支社として「沙遜洋行」を開設し、シナでのアヘン商売に本腰を入れる準備を整えた。
「沙遜洋行」は順調に業務を拡大して行き、デビッドの死後、1872年にはデビッドの次男が分社として「新沙遜洋行」を設立、2社体制となったサッスーングループは、シナでのアヘン商売に更に邁進して行った。

「沙遜洋行」が設立された頃、シナのアヘン市場に対してサッスーンが持っていたシェアは、2割強程度だった。
まぁ、「2割強」でも大したモノなんだが、それがサッスーングループが2社体制となった後の1880年代に入る頃には、「沙遜洋行」と「新沙遜洋行」の2社で、シナで流通するインド産アヘンの7割以上を扱う様になっていた。

シナでのアヘン商売は、完全にサッスーングループの「一強体制」になってしまっていたのね。

だから、「洋薬公所」を作った際も、当然、サッスーンが中心になっていた。
と言うか・・・恐らく、体裁としては「組合を作った」という形なんだけど、実質的には「シナのアヘン商売がサッスーンの下で一本化された」のだという認識で、ほぼ間違い無いのだろうと思う。

・・・だから、「アメリカのキリスト教会によるアヘン批判」から「洋薬公所設立」までの流れそのものが、「アヘン利権の独占」を目論むサッスーングループが仕込んだマヌーバだったんじゃないかという疑義を、個人的には捨てる事が出来んのだけどね。

まぁ、それはそれとして・・・

前回の記事で、アヘン商人達が自分達の手にしていた利権を手放したとはとても思えないと書いた。
まぁ、実際の所、「手放さなかった」という事を示唆するモノは、色々と残っているんだわ。

で、アヘン商人達が(まぁ、実質は「サッスーンが」だ)それを「手放さなかった」のだとして、その為には何が必要だったかと考えると・・・普通に考えると、「供給元を抑えておく」事なんだよね。

更に言うと、「サッスーン商会」の設立者であるデビッド・サッスーンは、上で書いた様に、上海に来る前から10年以上、インドでアヘン貿易に携わっていたのだが、その頃から「アヘン生産」の方にも関わっていたのよ。
つまり、上海のアヘン商売の胴元だったサッスーンは、インドの「アヘン生産利権」も持っていたのね。

そっちの方面から考えても、サッスーンがアヘン利権を手放さなかったのだとするならば、「インドからのアヘンの輸入」を削減、縮小したとは思えないんだわ。

しかし、これも前回書いた様に、1910年代のシナでは、
「シナで流通しているアヘンの内、8割はシナ産、輸入アヘンは2割程度」
と語られていた、と。

1910年代当時のシナでのアヘン需要の総量に関しては正確な所は分らないけど、少なくとも「6000トン以上」だったという事は、ほぼ間違い無いだろう。
だから、その8割となると、少なくとも「5000トン」規模だったという事になる。
5000トンもの乾燥アヘンを作るのに、具体的にどれだけの広さのケシ畑と人手が必要なのかは知らんけど、まぁ、「誰にも知られずひっそりと」やって行ける様な規模ではないだろう。

1911年までは、色々とガタが来ていたとは言え、清朝の行政システムは活きていた。
だから、その頃に清朝の版図内で5000トンものアヘンが生産されていたのであれば、公文書レベルで何らかの記録が残っている筈なのよ。
1908年には清朝政府として、「アヘンの禁絶を目指す」と公式に宣言しているんだから。
ところが、そういった記録が全く無いのね。

小規模に作っている者がもの凄くたくさん居て、その生産量を全部併せると5000トンくらい有ったという可能性も、「可能性としてはゼロではない」が・・・現実的には無理というか、アヘンを作っている者がそんなにたくさん居たのであれば、尚更、清朝政府の記録に残っていないとおかしいんだわ。
多ければ多い程、人目に触れる機会は増えるんだから。

その様な理由で、ワシ個人としては、1910年代にシナで、流通量の8割を占める程の大量のアヘンが生産されていたとは考えていないのよ。

では、実際には何がどうなっていただろうかと考えると・・・まぁ、具体的な証拠は無いので、あくまで想像でしかないが・・・恐らくは「産地偽装」が行われたという事なのだろうと思う。
つまり、それまでは「インド産アヘン」として堂々と港に荷揚げしていたのを、堂々と揚げる分を減らし、減らした分をこっそりと荷揚げする様にして、その「こっそり揚げた分」を「シナ産アヘン」として流通に乗せた、と。

「シナ産が8割」というのも、恐らくは意図的に流された話なのだろう。
インド産とシナ産の割合なんか「洋薬公所」にしか分らないんだから、情報の出所はそこしかないしな。
そして、「シナ産が8割で輸入アヘンの割合は減っています」というのが、「洋薬公所」というかサッスーンが意図的に流した話だったとするならば・・・実際の所は、
「本当は全然減らしてないんだけどな!HAHAHA!」
という事だったんじゃないか、と。

ってな訳で、ワシ個人は、1920年代以降も、シナで流通していたアヘンは、サッスーンが持ち込む「インド産アヘン」が中心だったのではないかと考えている。
・・・そう考えないと理解出来ない「出来事」が、ずっと後に有るのよ。

次回は、蒋介石の話に戻れると思う。

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フィクション(28)

今書いているのは、単なる「フィクション」だ。
実在の人物や団体、事件などと関連している様に感じられても、それは偶然に過ぎない。

1919年に「洋薬公所」は手持ちのアヘンの在庫を北京政府に買い取らせ、それを以って、
「我々イギリス商人は、シナでのアヘンビジネスを手仕舞いしましたよ。」
というアピールとした。
で、それ以降、シナのアヘン事情に関して、確かにイギリス商人達の名は表には出て来なくなっている。

・・・ここから先の話が、書くのが非常に難しいというか、ややこしいんだわ。

まず・・・イギリスのアヘン商人達がアヘン商売から手を引いたという事になっている、1919年。
しかし、この前後にシナでのアヘンの供給に混乱を来したという様な話が、全く残っていないのね。
シナ全土のアヘン窟は、フツーに平穏に営業を続けていたのよ。

シナでのアヘン供給に関しては、19世紀に始まったシナでのアヘン生産が年々増加していて、1910年代にはシナで流通するアヘンの内、輸入アヘンは2割程度で8割は国内産だったとされている場合がある。
しかし、この説、元になっているのが、その当時の文書や文章の中で、
「シナで流通しているアヘンの内、輸入アヘンは2割ほどで、8割は国内産だと言われている」
と書かれているという程度の事でしかないのね。
つまり、その当時、「噂話」レベルでその様に言われていたという事であって、何らかの調査結果に基づいているという様な話ではないのよ。

インドからシナに輸入されていたアヘンの量は、年を追って増加を続け、1770年代に年平均で約5000トン、1880年代には年平均で約6000トンにまで達していた。
それ以降に関しては資料が見当たらないんで良く分らないんだけど、1890年代以降にシナでのアヘン需要が特に減少したという様な話も無いから、恐らくはその辺りの水準で移行していたのだろうと思う。

で・・・具体的に何時頃始まったのかというのは正確には分らんのだけど、清朝末期にシナでのアヘンの生産が始まっていたというのは事実だし、その後もシナ各地でアヘンが生産されていたというのも事実だ。
そして、作られていた以上、流通ルートに乗ってもいたのだろう。

しかし、シナでアヘンが作られていたというのは事実なのだが、上に書いた様な数千トン水準の輸入アヘンを代替できる程の生産能力があったとは、とても思えないのよ。
それだけ大規模な生産が行われていたのであれば、「誰が、何処で」という事が、公的な記録としてでなくても話として残っていないとおかしいんだけど、そういう話が全く残っていないのね。

勿論、比較的良く知られている様に、後年の軍閥割拠の時代に、各軍閥がアヘンを作って戦費の足しにしていたという話なんかは残っているのよ。
しかし、1910年代にアヘンの輸入が削減されて行き、その分がシナ産アヘンに置き換わったという話になっているのに、その「シナ産アヘン」を誰が何処で作り、どの様に流通していたのかといった事に付いては、具体的な話が全く残っていない訳。

・・・おかしな話でしょ?

さて、そこまでを踏まえて・・・

シナでのアヘン商売の規模に関しては、正確な所は分らない。
公式な統計とか、そういった資料が全く存在していないのね。

ただ、当時のアヘン常用者のアヘン使用量の平均が年間で約600グラム程度というデータがあって・・・そこから推すと、1880年代のアヘン輸入量6000トンという数字から、恐らくシナでのアヘン常用者数は、その当時で1000万人を超えていたと考えられる。
となると・・・末端まで含めた総売り上げで言えば、現在の貨幣価値に換算するなら、恐らく年間で「兆円」のオーダーに乗っていたのではないか、と。

勿論、それが全て上海のアヘン商人の懐に入っていたという訳ではないんだけどね。
しかし、それでもその規模から考えると・・・アヘン商人達の懐に入る売り上げは、恐らく現在の貨幣価値で言えば、年間で「千億円」単位に乗っていたのではないかと思う。

まぁ、あくまで「推定値」以前の「想像値」に過ぎんのだけどね。

で・・・それだけの「巨大利権」を、上海のアヘン商人達が、手放す訳が無いのよ。

そもそも、上海に乗り込んでいた連中というのは、ただひたすらに「銭儲けが好き」な奴らだったのね。
「銭になる」から上海に乗り込んでいたのであって、銭にならないのなら上海なんぞに来る理由が無いのよ。

その様な連中が、事業そのものが消滅してしまったとかいうんならともかく、シナでのアヘン商売自体が1919年以降も変わり無く続いているという状況の中で、自らが手にしている「千億円」単位の売り上げが入るポジションを他の誰かに「譲る」なんて事は・・・まぁ、少なくともワシ個人としては、考えられない話だと思う。

ちょっと長くなったので、この続きは次回に。

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フィクション(27)

今書いているのは、単なる「フィクション」だ。
実在の人物や団体、事件などと関連がある様に感じられても、それは偶然に過ぎない。

前回の記事の最後に、今回の記事で「アヘン商人」から「麻薬マフィア」に表記を変更した理由に付いて書くと書いたんだけど・・・良く考えると、1912年から1914年頃は、まだ「麻薬マフィア」にはなっていない時期だった。
という訳で、前回の記事内の「麻薬マフィア」と表記した部分は、「アヘン商人」と読み替えて頂けたらと思う。

1839年の所謂「アヘン戦争」の際、国庫からの戦費の支出に関してイギリス議会で採決しているのだが、その時の投票の結果は賛成261票に対して反対257票で、かなりの僅差だった。
その当時からイギリス国内には、清教徒を中心にシナでのアヘン商売を批判する人々は少なからず居て、その後もずっとイギリス国内で、アヘン商売に対する批判は燻り続けていた。

状況が変化したのは、1906年で・・・アメリカのキリスト教会が、イギリス商人達によるシナでのアヘン商売を批判する声明を出したんだわ。
それを切欠に世界各国から批判が出始め、更にはイギリス国内でも燻っていた批判に火が付いたのよ。

・・・シナでのアヘン商売に対する批判声明を出したのがアメリカのキリスト教会だったという事に付いて、個人的にはその「背景」に疑問を感じる部分はあるんだが、そこを論じるだけの手材料が無いのでそれは置いておく。
まぁ、「アメリカのキリスト教会」も一枚岩ではなかったのだろうから、色々な立場が有っただろうしな。

で・・・そうした国際的な批判の高まりを背景に、清朝政府は1907年に、
「イギリス政府がアヘン輸出の削減に同意するのであれば、清朝政府はアヘン禁絶に向けた措置を講じて行く準備が有る」
という宣言を出した。それに対してイギリス政府側も、
「イギリス政府としても、10年後のアヘン禁絶を目標にアヘン輸出を削減して行く意向がある」
と応じた。
まぁ、国内外から批判が噴出している状況では、イギリス政府としてはそう応じるしかなかったのだろうね。

その結果、イギリス政府と清朝政府との間で1908年に「中英禁煙協約」が結ばれた。
内容は、上に書いてある通りだ。10年間の猶予期間を設けて、段階的にアヘン貿易を縮小して行くというもの。

これを受けて、上海のアヘン商人達は「洋薬公所」という組織を作った。
要するに、アヘン商の組合を作ったのよ。
つまり、輸入量を削減して行くとなると、全量を把握してコントロールしなくてはならないから、組合を作ってアヘン貿易を一本化したという事ね。

その後、上海のアヘン商人によるアヘンの輸入は徐々に縮小され、1919年には在庫を中華民国政府(段祺瑞政権時代になるのかな)に買い取らせ、1772年から続いたインドーシナ間のアヘン貿易は、終了した。
・・・という事になっている。表向きには。

だから、1919年以降のシナでのアヘン商売は公式に「非合法化」され、地下化しているので、それ以降のアヘン商売に携わっていた者は、「アヘン商人」ではなく「麻薬マフィア」と呼ぶべき(「アヘンマフィア」ではちょっと響きが悪いので)だと思うのね。
「アヘン商人」から「麻薬マフィア」に表記を変えたのはそういう理由で・・・だから、1912年から1914年の段階ではまだ「アヘン商人」と書くべきだったな、と。

さて、イギリス政府の公式な、表向きの動きは上に書いた様な感じだったのだが・・・

当然の事ながら「アヘン貿易」という事柄に対して、インドにはインドの立場と考えが有り、上海や香港に居た連中にもそれぞれに都合や思惑が有って・・・イギリス政府がトップダウンで「縮小せい」と命令を出して、それで事が収まる様な単純な状況ではなかったのよ。

インドにとっては対シナのアヘンの生産、輸出は基幹産業の一つだったし、上海、香港辺りのイギリス商人達にとっては、アヘンの売り上げは自分達の経済活動を支えるキャッシュフローの中核だった訳で・・・それを「10年でゼロにする様に」と政府から言われたからといって、おいそれと実行できるもんじゃない。

イギリス政府としてもその辺は十二分に承知していた訳で・・・恐らくイギリス政府は、国内外の批判に対応する為に「アヘン禁止」という主張に同調する様なポーズを採っていただけで、アヘン商売を停止しようとか禁止しようとかいった考えは、全く考持っていなかったのではないか、と。
・・・何しろ、英領・香港のアヘン窟の取締りすら、全くやっていないからねぇ。

後年の状況から見ても、イギリスの、少なくとも「アヘン利権に関係していた連中」は、アヘン商売を止める気も縮小する気も全く無かったと考えて良いと思う。
ただ、外部状況を鑑みて、イギリス政府としては表向きには「アヘン禁止」という国際世論に同調するしかないので、対応策としてシナでのアヘン商売を「イギリス人が表に出ない形」に再編しようと考えたのではないか、と。
そして、10年という猶予期間は、その「再編」の為に設けられたものだったのではないか、と。
個人的には、その様に推測している。

実際、「洋薬公所」が作られてアヘンの流通量がコントロールされる様になると、「洋薬公所」の手で意図的に作り出された品薄状態によってアヘン価格が急上昇し、アヘン商売は更に「旨味」を増した。
そして、アヘン商売が「旨味」を増した事により、アヘン商人達は更に商売に精を出す様になって、その結果、「アヘンの禁絶」に向かう為に設けられた筈の1919年までの「10年の猶予期間」の間に、シナのアヘン中毒患者の数は却って増加したと考えられている。

思っていたより長くなってしまったので、続きは次回に。

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