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			<title>ギロニズムの地平へ</title>
			<description>雑多な事柄について考えてきた事や考えている事あれこれ。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/zombiepart6</link>
			<language>ja</language>
			<copyright>Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.</copyright>
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			<title>ギロニズムの地平へ</title>
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		<item>
			<title>年が明けてしまった・・・</title>
			<description>遂に、半歩も進めないままに２０１６年が暮れてしまった。
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;一応、年の〆に、何が原因で作業の足が止まっているのかに付いて書いておこうと思う。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;先の戦争で「日本殺し」を主導した勢力は３つ。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;上海のアヘン商（と、それに繋がる英政治家達）、ソ連、そしてルーズベルト・ホワイトハウス（と国務省）だ。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;まぁ、アヘン商達は恐らく日本のシナへの進出を止めようとしていただけで、元から「日本殺し」を目論んでいたという訳ではないんだろうと思うけど、その為にF・ルーズベルト、スターリンという２大狂人をシナ情勢の中に引っ張り込んだのだから、『「日本殺し」を主導した勢力』に数えて間違いないだろう。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;シナ人や朝鮮人達は、それぞれの勢力に飼われていた手先に過ぎない。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;で・・・所謂「ハルノート」の原案を書いたホワイトがソ連のスパイだった事もあり、アメリカの枢要部がソ連に乗っ取られていたという認識を持っている人が少なからず居る様なのだが、恐らくそれは違う。勿論、アメリカの政界やメディアにソ連のスパイやシンパがごっそりと入り込んでいたのは事実で、だからこそ、後にマッカーシーの音頭で「レッドパージ」をやったんだけど、だからと言って、アメリカが『ソ連の影響によって「日本殺し」に傾いた』という訳ではないんだわ。&lt;br&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;アメリカの枢要部は、元から日本を滅ぼしたがっていた。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;だから、「日本殺し」という目的に関してソ連と「意気投合」したんだわ。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;アメリカでの「黄禍論」の流行に関しては、&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;「日露戦争に於ける日本の勝利によって、アメリカで日本に対する警戒心が高まり云々・・・」&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;という様な説明が為されている場合が多い。アメリカで「黄禍論」が持ち上がったのが１９０５～６年頃からで、時期的に符合しちゃうものだから、何となくその説明が流通してしまっているみたいなのだが・・・恐らくその認識は間違いだ。まぁ、間違いと言うよりも、「嘘」というべきなのかも知れないが。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;２０世紀に入ってすぐに、アメリカ政府は、&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;「フロンティアは存在しない」&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;と宣言した。つまり、北米大陸は白人が完全に制圧したと宣言した訳ね。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;それで、アメリカが次に何をしたかというと・・・ハワイ王国の侵略に取り掛かったんだわ。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;侵略されかかったハワイ王国は、日本に救援を要請。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;それを受けて日本政府はハワイに軍艦を派遣し、アメリカ人達が無法を働かない様に睨みを利かせて、アメリカ人によるハワイ侵略を食い止めていた。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;しかし、１９０４年に日露戦争が勃発。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;日本としてはハワイに軍艦を出しておく余裕が無くなり、已む無く日本に呼び戻した。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;で、日本は何とか日露戦争に勝利したのだが、その間にハワイ王国はアメリカに併合され、滅びてしまった。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;真珠湾攻撃の遥か以前に既に、日本はアメリカに対して軍事的対立の意思を示した事があるんだわ。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;１９０５～６年頃からアメリカで「黄禍論」が喧伝される様になった理由は、恐らく日露戦争なんかじゃなくて、こっちなのよ。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;で・・・「フィクション」を続けて行くと、何れF・ルーズベルトの日本に対する偏執的な悪意に論及する事になるんだけど、その遠因として、この「ハワイ侵略妨害」の一件に触れる事になる、と。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;で、その論じ方に付いて考えている内に、ヨーロッパ系の連中の「根源的な異常性」にぶち当たって・・・そこで躓いて、足が止まってしまっているんだわ。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;ヨーロッパ系の連中ってねぇ・・・自分達が他所を侵略しようとして、現地人に抵抗されると怒るし、侵略を妨害されたり侵略に失敗したりすると、相手を恨むのよ。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;コレがどうにも理解しづらいと言うか、抽出し難いんだよね。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;「ハワイ侵略を妨害された事に対する怒りと恨み」&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;「日露戦争に負けた事に対する復讐」&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;・・・日本人からすると、&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;「何処にヲ前らが恨みを云々する筋合いが有るんじゃ」&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;って話なんだけど、事実として奴等は「怒る」し「恨む」んだわ。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;で、その辺の事を振り出しに、欧米系の何と言うか、「心性」の様なモノに付いて考えていたんだけど、考えれば考える程、不気味と言うのか、気色悪いと言うのか・・・&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;ヨーロッパからアメリカ大陸に最初に辿り着いたのは、スペイン王室に雇われたジェノバ人、一般的には「コロンブス」と呼ばれているクリストフ・コロンボで、そもそもこのコロンボが中央アメリカ一帯でやりたい放題の虐殺をやらかしているんだけど、その後、スペイン、ポルトガルから続々とアメリカ大陸に渡った所謂「コンキスタドーレス」達も中南米一帯で略奪と虐殺を行い、ヨーロッパ人が入って以降、中南米一帯で３０００万人以上の原住民が死亡したと考えられている（ヨーロッパから持ち込まれた疫病による死者を含む）。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;その後、イギリス人がアメリカ大陸に渡る様になり、スペイン、ポルトガルが余り手を付けていなかった北米に入り込み、現地人から土地を奪い取り、だまし取り、更には現地人を駆除する為に意図的に天然痘を撒き散らし、抵抗する者はぶち殺し、１９世紀までに原住民を絶滅寸前にまで追い込んだ。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;また、オーストラリアにはイギリス人が入り込んで原住民をハンティングで殺しまくり、タスマニアの原住民に関しては本当に絶滅させてしまった。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;他に、フランスやオランダ、ベルギー、イタリアなんかも東南アジアやアフリカで似たり寄ったりな事をやらかしているんだが、書いていたら果てが無いので・・・。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;で・・・ヨーロッパ各国の人間が、ヨーロッパの外に出てやらかした種々の暴戻に関して、一かけらの罪悪感も持ち合わせていないという事に付いては、彼の地の「差別主義」の賜物として理解は出来る。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;理解できないのは・・・&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;アメリカやオーストラリアでは２０世紀に入ってから、原住民に対する「保護政策」を採っている。その事自体は別にどうという話でもないんだけど、アメリカ人もオーストラリア人も・・・&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;その事を以て、自分達が「原住民を大切にしている」と思っている臭いんだわ。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;更に言うと、自分達が「原住民を大切にするGoodperson」だと思っている臭いんだわ。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;更に更に言うと、その事で他国の人間から「Goodperson」と思われていると思っている臭いんだわ。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;この辺の「歪み」が、どうにも抽出し難いのよ。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;思惟の形態だけを見れば、朝鮮人のそれに構造的には近いんだと思うけど・・・朝鮮人が自分達が「善」だという事にする為に自分達の悪行そのものを無かった事にするのに対して、ヨーロッパ人は自分達が略奪や詐取、虐殺、搾取、強姦、人身売買などをやらかしていた事を隠しもせず、それを知った上で、当たり前の様に自分達の事を「善」だと「思っている」し、自分達が「善」だという立場で世界を見、語るんだわ。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;この辺の精神構造がもう少し見えないと、日本が直面した「悪意」の形を論じるのが難しいのよね。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;２０１６年の内に投稿する心算だったんだけど、年が明けてしまった。文末に書くのも妙だけど・・・&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;新年、明けましておめでとうございます。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;ちょっとまだ、作業再開の目途は立っていないのですが、今年も宜しくお願い致します。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/zombiepart6/56193047.html</link>
			<pubDate>Sun, 01 Jan 2017 00:11:24 +0900</pubDate>
			<category>倫理学</category>
		</item>
		<item>
			<title>「フィクション」の続きに掛かる前に</title>
			<description>あの作業をやっている理由というか、根っ子に有る問題意識の様なモノを書いておこうかと思う。
&lt;div&gt;・・・「安倍談話」にちょっと失望した部分もあるもので。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;９０年代から現在にかけての日本の外交を、現在から遡って冷静に評価すると、「失敗」とかいった生温い話ではなく、「意味不明」とか「基地外沙汰」とでも評するしかないレベルだと思う。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;現在、二十年余りに亘って猛烈な軍拡を進めて来た中国が、その軍事力を背景に四方八方に侵略行為、威嚇行為、不法行為を繰り返し、日本もそのターゲットになっている。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;span style=&quot;line-height:1.4;&quot;&gt;現在の安保法の改正も、要はそれが原因な訳でね。&lt;/span&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;で、その中国の軍拡を可能にしたのは改めて言うまでもなく、過去十数年間に亘る凄まじい経済成長なのだが・・・その経済成長というのは、ハッキリ言えば、１００パーセント「日本が作ったモノ」なのよ。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;この様に書くと、「欧米からも投資はされている」「と言うか、額面で言えば欧米からの投資の方が遥かに多い」といった反論をする人が居るのだろうと思う。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;しかし、中国への欧米からの投資が行われ始めたのは、中国に各種インフラが整備されて投資に適すると判断される様になってからの話で、その「インフラ」が１００パーセント日本の支援で整備されたのよ。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;で・・・異常なのは、その日本の支援が、１９９３年に中国が江沢民体制になって、現在に連なる凶悪で偏執的な反日路線に転換して以降に行われているという事なんだわ。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;真面目な話、事象だけを見たら、当時の日本の外交に携わっていた連中の脳疾患を疑うレベルだ。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;この異常状況を読み解くカギが、&lt;span style=&quot;line-height:1.4;&quot;&gt;恐らく１９９３年の、所謂「天皇訪中」なのだろうと思う。&lt;/span&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;span style=&quot;line-height:1.4;&quot;&gt;&lt;br&gt;
&lt;/span&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;「天皇訪中」に関して、一般的には、&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;『１９８９年の所謂「６．４天安門事件」の際の中国政府による民主化を要求する勢力に対する虐殺、弾圧への制裁措置として、アメリカの音頭取りで中国への経済封鎖が掛けられ、それによって中国は青息吐息になっていた。&lt;span style=&quot;line-height:1.4;&quot;&gt;しかし、１９９３年に日本政府が天皇を中国に訪問させ、それによって対中包囲網は実質的に無効化し、中国は窮地を脱した。』&lt;/span&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;という様な形で論じられている。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;まず押さえておかねばならんのは、日本政府の行った「天皇訪中」というのが、アメリカの音頭取りによる対中経済封鎖の最中に行われたものであるならば、それは間違い無く、アメリカ政府の承認、最低限、黙認を取り付けた上で行われたものだという事だ。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;これは、軽薄な「アメポチ論」とかの話ではなくて、「不意打ちこそ交渉の華」という腐った精神文化を持った民族や、国際社会に対して一度も責任を担った事の無い国なんかは別として、まともな国であれば、国際情勢、国際関係に影響の出る様な案件を何の根回しも無しに独断でやる様な乱暴な外交はしないものなんだわ。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;実際・・・まぁ、当時は現実の政治に特段に関心は持っていなかったので、この件に関してつぶさに報道等を追っていた訳ではないけれど・・・記憶する範囲では、この件に関してアメリカからクレームが来たとかいった話は全く無かった。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;そこから推しても、アレに関してアメリカに話が通っていたというのは、まず間違いの無い所だと思う。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;さて、その上で・・・次に、アレが誰から、何処から出たプランだったのか、という話だ。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;この点に関しては表に出ている話というのが全く無いので、推測するしかないんだが・・・&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;普通に考えて、日本側からだったという事は、まず無いだろうと思う。&lt;span style=&quot;line-height:1.4;&quot;&gt;日本側から中国に、&lt;/span&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;「中国はん、どうやらかなりお困りの様ですなぁ。どうです、一丁、天皇陛下でも中国に行かせましょか？」&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;と申し入れたという様な事は、流石に無いだろう。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;無論、日本側に（と言うか、日本国内に）対中包囲網を解除させたい、中国を経済的、政治的に支援したいと考えた勢力は居たのかも知れないし、まぁ、恐らくは実際に居たのだろうけど・・・そう考えた連中が居たとしても、その目的の為に採れる手段というのは色々と有った筈で、それが『「天皇訪中」でなくてはならない理由』が有ったとは思えんのよ。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;「天皇訪中」という手段を選ぶというのは、実現へのハードルを無駄に上げるだけなんだよね、恐らく。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;では、中国側からだったのか？&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;「プランの出所」という事で言うならば、恐らくその通りだ。しかし、中国側から日本に、&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;「天皇を中国に来させるアルッ！」&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;と申し入れて来たのだろうかというと・・・恐らくそれは、違う。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;それだと、陛下御臨席の晩餐会での、江沢民のあの非礼極まりないスピーチに説明が付かなくなるんだわ。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;中国が日本政府に「天皇訪中」を要請したとした場合に、&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;「６．４天安門事件で地に落ちた共産党の威信を取り戻す為に、日本の天皇をスケープゴートとしてブッ叩いて見せねばならないアル。だから、天皇を中国に来させるアル。」&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;という「本当の理由」を言って来た筈は無いんだわ。その場合、中国は間違い無く「中日友好」を表看板に出して来ていた筈なのよ。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;で、その看板で日本側と交渉して、首尾良く「天皇訪中」を実現したとして・・・その上で、江沢民のあの侮辱的スピーチが行われたのだとすると、どうなるか？&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;日本側で「天皇訪中」の実現の為に骨を折った連中は、当然、ヘソを曲げる事になるわね。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;そうなると、中国共産党と江沢民にとって「天皇侮辱」と同じくらい、と言うか、恐らくはそれよりも重要な「その後の日本からの経済的、政治的支援」が危うくなる可能性がある。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;そして・・・まぁ、これはあくまで「たられば」の話でしかないんだが、９０年代の日本からの経済支援が無ければ、共産中国は確実に２０世紀中に潰れていただろうと言われている。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;あの江沢民の侮蔑的スピーチというのは、本来、「有り得ない」んだわ。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;外交儀礼上とかいった話ではなくて、政治的に「有り得ない」のよ、リスクを勘案すると。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;しかし、それは「実際に行われた」。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;それが意味するのは・・・恐らくそれに付いて、江沢民に「確実な勝算が有った」という事なのね。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;さて・・・「天皇訪中」に関しては、アメリカの要請によるものだったという説を唱える者が、以前から居る。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;つまり・・・１９８９年の「６．４天安門事件」での民主化勢力に対する弾圧への制裁として中国に経済封鎖を掛けていたら、その間にソ連は崩壊するわ、アフガニスタンは完全に無政府状態になるわ、中東は湾岸戦争の残り火で燻るわ、更にアメリカに関して言えば、裏庭の中米のニカラグアやらエルサルバドルやらパナマやらが慢性的な政情不安で・・・&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;「更にこの上、チャイナやノースコリアまでどうにかなったら、流石に手に負えねぇぜ、HAHAHA!」&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;「しかし、チャイナへの経済封鎖は、民主化要求への弾圧に対する制裁という看板でやっているから、こっちから拳を下すという形を採るのはちょっと具合が悪いぜ、HAHAHA!」&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;「何か適当なイベントでもでっち上げて、対中包囲網はそのどさくさでなし崩しにしちまうぜ、HAHAHA!」&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;「その後は、チャイナが潰れない様にジャップに支えさせる事にするぜ、HAHAHA!」&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;・・・ってな話だったんじゃないのか、と。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;ワシも、「天皇訪中」の背景に関しては、大筋に於いてはこの様な感じだったのではないかと思っている。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;しかし、この説だけだと、『それが「天皇訪中」だった事』に説明が付かないんだわ。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;「天皇訪中」は、まず間違い無く「中国の意向」だ。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;日本側から出る話ではないし、ましてやアメリカ側から出て来る筋の話でもない。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;という事は、「天皇訪中」というのがアメリカの要請に基づいて行われたものだったのだとするならば・・・それが意味するのは、『アメリカが「中国の意向」を汲んだ』という事なんだわ。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;で、ここから先は、完全にワシの推測と言うか想像に過ぎないのだが・・・ワシは中国がアメリカを脅迫したのではないかと考えている。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;「もしも我が国が崩壊して我々の統制が効かない様な事態になれば、美国や英国にとって非常に都合の悪い話が表沙汰になったりするかも知れないアルが・・・それでも構わないアルか？」&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;・・・まぁ、正直な所を言うと、この推測に関しては、自分の中でもちょっとまだ「揺らぎ」が残っている。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;と言うのは、１９９３年に江沢民・中国が反日路線に転換したのと時期を同じくして、金泳三・韓国も強硬な反日路線に転じており、その背景を考えた時に、中国がアメリカを脅迫したという形なのかどうかに関しては留保が付く部分は有る。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;その「背景」の話に付いては、ここでは置いておくけど。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;しかし、あの「天皇訪中」が、「中国の意向」に基づいて、「アメリカの要請によって行われたもの」であろうという事に付いては、ワシ個人としては確信している。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;だから、江沢民は安心してあの侮蔑的なスピーチを行う事が出来たのよ、恐らく。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;日本側の「何やねん、アレは」というクレームは、アメリカに行くんだもの。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;ただ、その場合、日本からのクレームを受けたアメリカが江沢民に対して怒りを抱く可能性があるのでは、と思う人が居るのかも知れない。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;実はそれが、ワシが「中国がアメリカを脅迫したのではないか」と推測する根拠なんだわ。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;多分、江沢民には「アメリカからのクレームは絶対に来ない」という確信が有った筈なのよ。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;で、シナ人がそれを確信するという事は、何らかの形で「相手のキ○タマを握っている」と考えていたのだろう、と。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;その様なフレームで、あの「天皇訪中」という出来事を眺め直してみると・・・江沢民のあの非礼極まりないスピーチが、意味合いの違うものに見えて来るんだわ。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;そもそも、江沢民が偏執的な反日政策の強化に乗り出したのは１９９３年、「天皇訪中」以降の事だ。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;つまり、その当時の中国は、中国共産党が「反日教育、反日政策の徹底的な強化が必要だと判断する様な状況」だったという事でね。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;その様な状況下で、「中国に来訪した日本の天皇を侮辱する」というパフォーマンスが、中国人の心情にいかほどの訴求力が有ったのだろうかと考えると・・・個人的にはちょっと疑問を抱いてしまうのよ。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;事によるとアレは、中国人に見せる為のパフォーマンスだったのではなくて、アメリカの「天皇訪中」実現の為に労を執ってくれた連中に対する、&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;「我々は日帝の侵略と暴虐の被害者という立場をこれからも堅持して行くので、安心してもらって良いアルよ。」&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;というメッセージだったのではないか、と。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;・・・と、まぁ、ワシ個人は１９９３年の「天皇訪中」に関して、この様な考え方をしている。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;で、その立場から、過去２０年余りの日本の対中政策と、その結果としての現状を見ると・・・本当に、余りの愚かしさに気が遠くなるんだわ。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;２０年余りに亘って野放図に金と技術を垂れ流しに与え続け、それによって肥え膨れた相手から軍事的な脅迫を受けて、それへの対抗策として今やっているのが、恐らくは１９９０年代に潰れかけた共産中国を生き残らせた張本人であろうアメリカとの同盟強化という・・・&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;アメリカが今後も先の大戦、特に対日戦争に於いて「自分達が正義だった」という薄っぺらなフィクションにしがみつく事をやめる事ができないのであれば、日米安保は日本の安全保障政策上の「政治的足枷」となる公算が高い。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;そのフィクションを維持する為には、アメリカは究極的には共産中国と「敵対できない」んだもの。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;そして、その上でワシが危惧するのは、中国共産党が「アメリカは絶対に自分達と敵対できない」という判断に確信を持っている場合、共産中国が軍事的冒険をする必要に迫られた際に、「最も安全な相手」として日本を選ぶ可能性があるという事だ。日本が相手であれば、トラブルを起こしても&lt;span style=&quot;line-height:1.4;&quot;&gt;アメリカが日本にブレーキを掛けるだろう、と。&lt;/span&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;span style=&quot;line-height:1.4;&quot;&gt;&lt;br&gt;
&lt;/span&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;span style=&quot;line-height:1.4;&quot;&gt;下手をすると、個別的自衛権の範囲の事象でまで、「日米安保」を口実としてアメリカに足を引っ張られる可能性があるんじゃないかと思っている。&lt;/span&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;だからこそ、「戦後レジームからの脱却」というのが重要であり、急務だと考えているんだけど・・・&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;「安倍談話」を見た限りでは、それを放棄したかどうかまでは分からんけど、棚上げにしたというのは間違い無い様で。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;まぁ、政治に限らず何事も、「今までの結果としての現在」の上でやるしかない訳で、現状の「政治的現実」の中では、あの辺が一杯一杯なのかなとは思うんだけどね。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;で・・・政治の方での「戦後レジームからの脱却」が諸事情によって停滞するというのであればそっちは置いといて、民間は自由にサクッと「戦後レジーム」から抜けちゃえば良い訳で・・・民間が先に脱却してしまえば、政治も後からついて来るだろう、と。日本は一応は民主主義国家だからな、政治制度的には。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;そんな様な考えで「フィクション」の続きに取り掛かろうとは思っているんだけど・・・実の所、あの先をどういう手順で書いて行くかという事に付いて、まだ考えが纏まっていない。事が一本道じゃないんで、どういう手順で書いても「この件に関して書くのなら、先にこっちの話を書いておかんと訳がわからん様になる」というのが出て来るのよ。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;まぁ、ボチボチとやって行きます。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/zombiepart6/55553824.html</link>
			<pubDate>Sun, 06 Sep 2015 12:33:16 +0900</pubDate>
			<category>倫理学</category>
		</item>
		<item>
			<title>フィクション（２９）</title>
			<description>&lt;div&gt;今書いているのは、単なる「フィクション」だ。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;実在の人物や団体、事件等と関連している様に感じられても、それは偶然に過ぎない。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;サッスーン家は元々は、代々イラクに住んで来たユダヤ人一族だった。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;それが政治的な事情でペルシャに移り、デビッドの時代にアヘン取引で一山当てて、一財産築いた。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;その後、ペルシャ駐在のイギリス東インド会社の人間からインドの様子を聞き、１８３２年に一族を引き連れてインドに移住、&lt;span style=&quot;line-height:1.4;&quot;&gt;ボンベイで「サッスーン商会」を設立し、東インド会社からの認可を受けて、シナとのアヘン貿易を開始した。&lt;/span&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;上海が開港された際には、デビッドはいの一番に乗り込み、１８４５年には現地支社として「沙遜洋行」を開設し、シナでのアヘン商売に本腰を入れる準備を整えた。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;span style=&quot;line-height:1.4;&quot;&gt;「沙遜洋行」は順調に業務を拡大して行き、デビッドの死後、１８７２年にはデビッドの次男が分社として「新沙遜洋行」を設立、２社体制となったサッスーングループは、シナでのアヘン商売に更に邁進して行った。&lt;/span&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;span style=&quot;line-height:1.4;&quot;&gt;&lt;br&gt;
&lt;/span&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;span style=&quot;line-height:1.4;&quot;&gt;「沙遜洋行」が設立された頃、シナのアヘン市場に対してサッスーンが持っていたシェアは、２割強程度だった。&lt;/span&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;span style=&quot;line-height:1.4;&quot;&gt;まぁ、「２割強」でも大したモノなんだが、それがサッスーングループが２社体制となった後の１８８０年代に入る頃には、「沙遜洋行」と「新沙遜洋行」の２社で、シナで流通するインド産アヘンの７割以上を扱う様になっていた。&lt;/span&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;span style=&quot;line-height:1.4;&quot;&gt;&lt;br&gt;
&lt;/span&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;span style=&quot;line-height:1.4;&quot;&gt;シナでのアヘン商売は、完全にサッスーングループの「一強体制」になってしまっていたのね。&lt;/span&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;span style=&quot;line-height:1.4;&quot;&gt;&lt;br&gt;
&lt;/span&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;だから、「洋薬公所」を作った際も、当然、サッスーンが中心になっていた。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;と言うか・・・恐らく、体裁としては「組合を作った」という形なんだけど、実質的には「シナのアヘン商売がサッスーンの下で一本化された」のだという認識で、ほぼ間違い無いのだろうと思う。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;span style=&quot;line-height:1.4;&quot;&gt;&lt;br&gt;
&lt;/span&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;span style=&quot;line-height:1.4;&quot;&gt;・・・だから、「アメリカのキリスト教会によるアヘン批判」から「洋薬公所設立」までの流れそのものが、「アヘン利権の独占」を目論むサッスーングループが仕込んだマヌーバだったんじゃないかという疑義を、個人的には捨てる事が出来んのだけどね。&lt;/span&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;span style=&quot;line-height:1.4;&quot;&gt;&lt;br&gt;
&lt;/span&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;span style=&quot;line-height:1.4;&quot;&gt;まぁ、それはそれとして・・・&lt;/span&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;前回の記事で、アヘン商人達が自分達の手にしていた利権を手放したとはとても思えないと書いた。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;まぁ、実際の所、「手放さなかった」という事を示唆するモノは、色々と残っているんだわ。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;span style=&quot;line-height:1.4;&quot;&gt;で、アヘン商人達が（まぁ、実質は「サッスーンが」だ）それを「手放さなかった」のだとして、その為には何が必要だったかと考えると・・・普通に考えると、「供給元を抑えておく」事なんだよね。&lt;/span&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;span style=&quot;line-height:1.4;&quot;&gt;&lt;br&gt;
&lt;/span&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;span style=&quot;line-height:1.4;&quot;&gt;更に言うと、「サッスーン商会」の設立者であるデビッド・サッスーンは、上で書いた様に、上海に来る前から１０年以上、インドでアヘン貿易に携わっていたのだが、その頃から「アヘン生産」の方にも関わっていたのよ。&lt;/span&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;span style=&quot;line-height:1.4;&quot;&gt;つまり、上海のアヘン商売の胴元だったサッスーンは、インドの「アヘン生産利権」も持っていたのね。&lt;/span&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;span style=&quot;line-height:1.4;&quot;&gt;&lt;br&gt;
&lt;/span&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;span style=&quot;line-height:1.4;&quot;&gt;そっちの方面から考えても、サッスーンがアヘン利権を手放さなかったのだとするならば、「インドからのアヘンの輸入」を削減、縮小したとは思えないんだわ。&lt;/span&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;span style=&quot;line-height:1.4;&quot;&gt;&lt;br&gt;
&lt;/span&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;span style=&quot;line-height:1.4;&quot;&gt;しかし、これも前回書いた様に、１９１０年代のシナでは、&lt;/span&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;span style=&quot;line-height:1.4;&quot;&gt;「シナで流通しているアヘンの内、８割はシナ産、輸入アヘンは２割程度」&lt;/span&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;span style=&quot;line-height:1.4;&quot;&gt;と語られていた、と。&lt;/span&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;span style=&quot;line-height:1.4;&quot;&gt;１９１０年代当時のシナでのアヘン需要の総量に関しては正確な所は分らないけど、少なくとも「６０００トン以上」だったという事は、ほぼ間違い無いだろう。&lt;/span&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;span style=&quot;line-height:1.4;&quot;&gt;だから、その８割となると、少なくとも「５０００トン」規模だったという事になる。&lt;/span&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;span style=&quot;line-height:1.4;&quot;&gt;５０００トンもの乾燥アヘンを作るのに、具体的にどれだけの広さのケシ畑と人手が必要なのかは知らんけど、まぁ、「誰にも知られずひっそりと」やって行ける様な規模ではないだろう。&lt;/span&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;span style=&quot;line-height:1.4;&quot;&gt;&lt;br&gt;
&lt;/span&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;span style=&quot;line-height:1.4;&quot;&gt;１９１１年までは、色々とガタが来ていたとは言え、清朝の行政システムは活きていた。&lt;/span&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;span style=&quot;line-height:1.4;&quot;&gt;だから、その頃に清朝の版図内で５０００トンものアヘンが生産されていたのであれば、公文書レベルで何らかの記録が残っている筈なのよ。&lt;/span&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;span style=&quot;line-height:1.4;&quot;&gt;１９０８年には清朝政府として、「アヘンの禁絶を目指す」と公式に宣言しているんだから。&lt;/span&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;span style=&quot;line-height:1.4;&quot;&gt;ところが、そういった記録が全く無いのね。&lt;/span&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;小規模に作っている者がもの凄くたくさん居て、その生産量を全部併せると５０００トンくらい有ったという可能性も、「可能性としてはゼロではない」が・・・現実的には無理というか、アヘンを作っている者がそんなにたくさん居たのであれば、尚更、清朝政府の記録に残っていないとおかしいんだわ。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;多ければ多い程、人目に触れる機会は増えるんだから。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;その様な理由で、ワシ個人としては、１９１０年代にシナで、流通量の８割を占める程の大量のアヘンが生産されていたとは考えていないのよ。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;span style=&quot;line-height:1.4;&quot;&gt;&lt;br&gt;
&lt;/span&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;span style=&quot;line-height:1.4;&quot;&gt;では、実際には何がどうなっていただろうかと考えると・・・まぁ、具体的な証拠は無いので、あくまで想像でしかないが・・・恐らくは「産地偽装」が行われたという事なのだろうと思う。&lt;/span&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;span style=&quot;line-height:1.4;&quot;&gt;つまり、それまでは「インド産アヘン」として堂々と港に荷揚げしていたのを、堂々と揚げる分を減らし、減らした分をこっそりと荷揚げする様にして、その「こっそり揚げた分」を「シナ産アヘン」として流通に乗せた、と。&lt;/span&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;span style=&quot;line-height:1.4;&quot;&gt;&lt;br&gt;
&lt;/span&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;span style=&quot;line-height:1.4;&quot;&gt;「シナ産が８割」というのも、恐らくは意図的に流された話なのだろう。&lt;/span&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;span style=&quot;line-height:1.4;&quot;&gt;インド産とシナ産の割合なんか「洋薬公所」にしか分らないんだから、情報の出所はそこしかないしな。&lt;/span&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;span style=&quot;line-height:1.4;&quot;&gt;そして、「シナ産が８割で輸入アヘンの割合は減っています」というのが、「洋薬公所」というかサッスーンが意図的に流した話だったとするならば・・・実際の所は、&lt;/span&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;span style=&quot;line-height:1.4;&quot;&gt;「本当は全然減らしてないんだけどな！ＨＡＨＡＨＡ！」&lt;/span&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;span style=&quot;line-height:1.4;&quot;&gt;という事だったんじゃないか、と。&lt;/span&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;span style=&quot;line-height:1.4;&quot;&gt;&lt;br&gt;
&lt;/span&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;span style=&quot;line-height:1.4;&quot;&gt;ってな訳で、ワシ個人は、１９２０年代以降も、シナで流通していたアヘンは、サッスーンが持ち込む「インド産アヘン」が中心だったのではないかと考えている。&lt;/span&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;・・・そう考えないと理解出来ない「出来事」が、ずっと後に有るのよ。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;次回は、蒋介石の話に戻れると思う。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/zombiepart6/55415325.html</link>
			<pubDate>Tue, 09 Jun 2015 01:03:33 +0900</pubDate>
			<category>倫理学</category>
		</item>
		<item>
			<title>フィクション（２８）</title>
			<description>今書いているのは、単なる「フィクション」だ。
&lt;div&gt;実在の人物や団体、事件などと関連している様に感じられても、それは偶然に過ぎない。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;１９１９年に「洋薬公所」は手持ちのアヘンの在庫を北京政府に買い取らせ、それを以って、&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;「我々イギリス商人は、シナでのアヘンビジネスを手仕舞いしましたよ。」&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;というアピールとした。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;span style=&quot;line-height:1.4;&quot;&gt;で、それ以降、シナのアヘン事情に関して、確かにイギリス商人達の名は表には出て来なくなっている。&lt;/span&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;・・・ここから先の話が、書くのが非常に難しいというか、ややこしいんだわ。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;まず・・・イギリスのアヘン商人達がアヘン商売から手を引いたという事になっている、１９１９年。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;しかし、この前後にシナでのアヘンの供給に混乱を来したという様な話が、全く残っていないのね。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;シナ全土のアヘン窟は、フツーに平穏に営業を続けていたのよ。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;シナでのアヘン供給に関しては、１９世紀に始まったシナでのアヘン生産が年々増加していて、１９１０年代にはシナで流通するアヘンの内、輸入アヘンは２割程度で８割は国内産だったとされている場合がある。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;しかし、この説、元になっているのが、その当時の文書や文章の中で、&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;「シナで流通しているアヘンの内、輸入アヘンは２割ほどで、８割は国内産だと言われている」&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;と書かれているという程度の事でしかないのね。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;つまり、その当時、「噂話」レベルでその様に言われていたという事であって、何らかの調査結果に基づいているという様な話ではないのよ。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;インドからシナに輸入されていたアヘンの量は、年を追って増加を続け、１７７０年代に年平均で約５０００トン、１８８０年代には年平均で約６０００トンにまで達していた。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;それ以降に関しては資料が見当たらないんで良く分らないんだけど、１８９０年代以降にシナでのアヘン需要が特に減少したという様な話も無いから、恐らくはその辺りの水準で移行していたのだろうと思う。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;で・・・具体的に何時頃始まったのかというのは正確には分らんのだけど、清朝末期にシナでのアヘンの生産が始まっていたというのは事実だし、その後もシナ各地でアヘンが生産されていたというのも事実だ。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;そして、作られていた以上、流通ルートに乗ってもいたのだろう。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;span style=&quot;line-height:1.4;&quot;&gt;&lt;br&gt;
&lt;/span&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;span style=&quot;line-height:1.4;&quot;&gt;しかし、シナでアヘンが作られていたというのは事実なのだが、上に書いた様な数千トン水準の輸入アヘンを代替できる程の生産能力があったとは、とても思えないのよ。&lt;/span&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;span style=&quot;line-height:1.4;&quot;&gt;それだけ大規模な生産が行われていたのであれば、「誰が、何処で」という事が、公的な記録としてでなくても話として残っていないとおかしいんだけど、そういう話が全く残っていないのね。&lt;/span&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;勿論、比較的良く知られている様に、後年の軍閥割拠の時代に、各軍閥がアヘンを作って戦費の足しにしていたという話なんかは残っているのよ。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;しかし、１９１０年代にアヘンの輸入が削減されて行き、その分がシナ産アヘンに置き換わったという話になっているのに、その「シナ産アヘン」を誰が何処で作り、どの様に流通していたのかといった事に付いては、具体的な話が全く残っていない訳。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;・・・おかしな話でしょ？&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;さて、そこまでを踏まえて・・・&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;シナでのアヘン商売の規模に関しては、正確な所は分らない。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;公式な統計とか、そういった資料が全く存在していないのね。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;ただ、当時のアヘン常用者のアヘン使用量の平均が年間で約６００グラム程度というデータがあって・・・そこから推すと、１８８０年代のアヘン輸入量６０００トンという数字から、恐らくシナでのアヘン常用者数は、その当時で１０００万人を超えていたと考えられる。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;となると・・・末端まで含めた総売り上げで言えば、現在の貨幣価値に換算するなら、恐らく年間で「兆円」のオーダーに乗っていたのではないか、と。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;勿論、それが全て上海のアヘン商人の懐に入っていたという訳ではないんだけどね。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;span style=&quot;line-height:1.4;&quot;&gt;しかし、それでもその規模から考えると・・・アヘン商人達の懐に入る売り上げは、恐らく現在の貨幣価値で言えば、年間で「千億円」単位に乗っていたのではないかと思う。&lt;/span&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;span style=&quot;line-height:1.4;&quot;&gt;&lt;br&gt;
&lt;/span&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;span style=&quot;line-height:1.4;&quot;&gt;まぁ、あくまで「推定値」以前の「想像値」に過ぎんのだけどね。&lt;/span&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;で・・・それだけの「巨大利権」を、上海のアヘン商人達が、手放す訳が無いのよ。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;そもそも、上海に乗り込んでいた連中というのは、ただひたすらに「銭儲けが好き」な奴らだったのね。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;「銭になる」から上海に乗り込んでいたのであって、銭にならないのなら上海なんぞに来る理由が無いのよ。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;その様な連中が、事業そのものが消滅してしまったとかいうんならともかく、シナでのアヘン商売自体が１９１９年以降も変わり無く続いているという状況の中で、自らが手にしている「千億円」単位の売り上げが入るポジションを他の誰かに「譲る」なんて事は・・・まぁ、少なくともワシ個人としては、考えられない話だと思う。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;ちょっと長くなったので、この続きは次回に。&lt;/div&gt;</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/zombiepart6/55413461.html</link>
			<pubDate>Sun, 07 Jun 2015 23:42:59 +0900</pubDate>
			<category>倫理学</category>
		</item>
		<item>
			<title>フィクション（２７）</title>
			<description>今書いているのは、単なる「フィクション」だ。
&lt;div&gt;実在の人物や団体、事件などと関連がある様に感じられても、それは偶然に過ぎない。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;前回の記事の最後に、今回の記事で「アヘン商人」から「麻薬マフィア」に表記を変更した理由に付いて書くと書いたんだけど・・・良く考えると、１９１２年から１９１４年頃は、まだ「麻薬マフィア」にはなっていない時期だった。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;という訳で、前回の記事内の「麻薬マフィア」と表記した部分は、「アヘン商人」と読み替えて頂けたらと思う。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;１８３９年の所謂「アヘン戦争」の際、国庫からの戦費の支出に関してイギリス議会で採決しているのだが、その時の投票の結果は賛成２６１票に対して反対２５７票で、かなりの僅差だった。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;その当時からイギリス国内には、清教徒を中心にシナでのアヘン商売を批判する人々は少なからず居て、その後もずっとイギリス国内で、アヘン商売に対する批判は燻り続けていた。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;状況が変化したのは、１９０６年で・・・アメリカのキリスト教会が、イギリス商人達によるシナでのアヘン商売を批判する声明を出したんだわ。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;それを切欠に世界各国から批判が出始め、更にはイギリス国内でも燻っていた批判に火が付いたのよ。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;・・・シナでのアヘン商売に対する批判声明を出したのがアメリカのキリスト教会だったという事に付いて、個人的にはその「背景」に疑問を感じる部分はあるんだが、そこを論じるだけの手材料が無いのでそれは置いておく。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;まぁ、「アメリカのキリスト教会」も一枚岩ではなかったのだろうから、色々な立場が有っただろうしな。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;で・・・そうした国際的な批判の高まりを背景に、清朝政府は１９０７年に、&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;「イギリス政府がアヘン輸出の削減に同意するのであれば、清朝政府はアヘン禁絶に向けた措置を講じて行く準備が有る」&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;という宣言を出した。それに対してイギリス政府側も、&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;「イギリス政府としても、１０年後のアヘン禁絶を目標にアヘン輸出を削減して行く意向がある」&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;と応じた。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;span style=&quot;line-height:1.4;&quot;&gt;まぁ、国内外から批判が噴出している状況では、イギリス政府としてはそう応じるしかなかったのだろうね。&lt;/span&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;その結果、イギリス政府と清朝政府との間で１９０８年に「中英禁煙協約」が結ばれた。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;内容は、上に書いてある通りだ。１０年間の猶予期間を設けて、段階的にアヘン貿易を縮小して行くというもの。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;これを受けて、上海のアヘン商人達は「洋薬公所」という組織を作った。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;要するに、アヘン商の組合を作ったのよ。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;つまり、輸入量を削減して行くとなると、全量を把握してコントロールしなくてはならないから、組合を作ってアヘン貿易を一本化したという事ね。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;その後、上海のアヘン商人によるアヘンの輸入は徐々に縮小され、１９１９年には在庫を中華民国政府（段祺瑞政権時代になるのかな）に買い取らせ、１７７２年から続いたインドーシナ間のアヘン貿易は、終了した。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;・・・という事になっている。表向きには。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;だから、１９１９年以降のシナでのアヘン商売は公式に「非合法化」され、地下化しているので、それ以降のアヘン商売に携わっていた者は、「アヘン商人」ではなく「麻薬マフィア」と呼ぶべき（「アヘンマフィア」ではちょっと響きが悪いので）だと思うのね。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;「アヘン商人」から「麻薬マフィア」に表記を変えたのはそういう理由で・・・だから、１９１２年から１９１４年の段階ではまだ「アヘン商人」と書くべきだったな、と。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;さて、イギリス政府の公式な、表向きの動きは上に書いた様な感じだったのだが・・・&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;当然の事ながら「アヘン貿易」という事柄に対して、インドにはインドの立場と考えが有り、上海や香港に居た連中にもそれぞれに都合や思惑が有って・・・イギリス政府がトップダウンで「縮小せい」と命令を出して、それで事が収まる様な単純な状況ではなかったのよ。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;インドにとっては対シナのアヘンの生産、輸出は基幹産業の一つだったし、上海、香港辺りのイギリス商人達にとっては、アヘンの売り上げは自分達の経済活動を支えるキャッシュフローの中核だった訳で・・・それを「１０年でゼロにする様に」と政府から言われたからといって、おいそれと実行できるもんじゃない。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;イギリス政府としてもその辺は十二分に承知していた訳で・・・恐らくイギリス政府は、国内外の批判に対応する為に「アヘン禁止」という主張に同調する様なポーズを採っていただけで、アヘン商売を停止しようとか禁止しようとかいった考えは、全く考持っていなかったのではないか、と。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;・・・何しろ、英領・香港のアヘン窟の取締りすら、全くやっていないからねぇ。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;後年の状況から見ても、イギリスの、少なくとも「アヘン利権に関係していた連中」は、アヘン商売を止める気も縮小する気も全く無かったと考えて良いと思う。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;ただ、外部状況を鑑みて、イギリス政府としては表向きには「アヘン禁止」という国際世論に同調するしかないので、対応策としてシナでのアヘン商売を「イギリス人が表に出ない形」に再編しようと考えたのではないか、と。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;そして、１０年という猶予期間は、その「再編」の為に設けられたものだったのではないか、と。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;個人的には、その様に推測している。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;実際、「洋薬公所」が作られてアヘンの流通量がコントロールされる様になると、「洋薬公所」の手で意図的に作り出された品薄状態によってアヘン価格が急上昇し、アヘン商売は更に「旨味」を増した。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;そして、アヘン商売が「旨味」を増した事により、アヘン商人達は更に商売に精を出す様になって、その結果、「アヘンの禁絶」に向かう為に設けられた筈の１９１９年までの「１０年の猶予期間」の間に、シナのアヘン中毒患者の数は却って増加したと考えられている。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;思っていたより長くなってしまったので、続きは次回に。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/zombiepart6/55411887.html</link>
			<pubDate>Sun, 07 Jun 2015 00:50:55 +0900</pubDate>
			<category>倫理学</category>
		</item>
		<item>
			<title>フィクション（２６）</title>
			<description>今書いているのは、単なるフィクションだ。
&lt;div&gt;実在の人物や団体、事件などに関連している様に感じられても、それは偶然に過ぎない。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;１９１２年に宋嘉樹は、（恐らく上海の麻薬マフィアの代理人という様な立場で）孫文に接触し、支援を申し出た。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;ただ、この時点では宋嘉樹（麻薬マフィア）側には特段の意図があったという訳ではなくて、１９１１年の末に「国民党」という新たな政治勢力が突然現れたものだから、「一応、その代表者に粉をかけておこうか」程度の考えで接近したのではないかと思う。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;しかし、長年に亘る金主だった日本人達から支援を断られ、自らが就く筈だった「新中華の指導者」の座を袁世凱に掠め取られ、「革命派のリーダー」の椅子も宋教仁に持って行かれて、殆ど実権の無い&lt;span style=&quot;line-height:1.4;&quot;&gt;「国民党理事」という肩書きだけを渡されて鬱々としていた孫文にとっては・・・何と言うか・・・「勇気を掻き立てられる出来事」だったのではないか、と。&lt;/span&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;で、その結果、何が起きたかというと・・・１９１３年の３月に宋教仁が暗殺されたんだわ。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;コレ、一般的には袁世凱の仕業という事になっているんだが、ワシはその説を採る気は全く無い。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;袁世凱政権は「国の近代化」を最優先課題としていて、その為の「外国の支援」を引き出す事を重要視していたので、国内に関しては「政情の安定化」を最優先にしていた（外国からの投資、融資を引き出すには、政治的混乱は禁物、内戦なんか以ての外だから）のよ。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;だから、国民党にも協力を求め、上手くやって行こうとしていたのね。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;で、「袁世凱犯人説」を採っている人々は、それが上手く行かなくて業を煮やした袁世凱が、自分の政権への協力を頑なに拒む宋教仁に刺客を送って暗殺したのだとするのだが・・・そうだとすると、袁世凱は、宋教仁暗殺後に国民党を懐柔し、抱き込む手を打っていないとおかしいんだわ。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;ところが実際には、コレが孫文によって「反袁世凱闘争」の口実として、煽動に利用されてしまった訳で・・・&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;また、袁世凱が何れかの時点で「国民党との敵対已む無し」と考えを改めていたのであれば、宋教仁暗殺などといった裏手なんか使わず、国民党自体を潰しに掛かる筈でね。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;どうも、「袁世凱犯人説」には乗る気になれない。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;では、宋教仁を殺したのは誰なのか？&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;まぁ、余人には分り様の無いプライベートな理由で殺されたのかも知れないし、その場合は犯人など推測のし様も無いんだけど、そうでなく、それが「政治的」な理由で起きた事であるならば、犯人は・・・孫文だろう。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;勿論、実行犯ではないのよ。宋教仁が殺された時、孫文は日本に居たからな。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;しかし・・・出先で国民党の実質的なリーダーである宋教仁が殺されたと聞いて、慌てて日本からシナに帰ったのであれば、普通は&lt;span style=&quot;line-height:1.4;&quot;&gt;「宋教仁を殺ったんは誰なら？」&lt;/span&gt;&lt;span style=&quot;line-height:1.4;&quot;&gt;「誰が宋教仁を殺したんなら？」という話になると思うんだわ。&lt;/span&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;span style=&quot;line-height:1.4;&quot;&gt;ところが、そうはならなかったのよ。&lt;/span&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;span style=&quot;line-height:1.4;&quot;&gt;そうはならず、孫文は犯人探しなんか全くそっちのけで、「反袁世凱闘争」の呼び掛けを始めたのね。&lt;/span&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;・・・何か、変でしょ？&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;更に言うと、その孫文の呼び掛けによって１９１３年７月に起こされた「反袁世凱闘争」を、孫文は「第二次革命」と呼称していたんだけど・・・この呼称に、ワシなんかは、&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;「オレの革命はまだ終わっちゃいねぇぜ！」&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;という孫文の「魂の叫び」を感じるんだよね。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;恐らく孫文には、「盗まれちまったオレの革命」を「あるべき姿」に戻すという意識が有ったのだと思う。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;では、「オレの革命」を「あるべき姿」に戻すに当たって、邪魔なモノは何か？&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;・・・自分が座る筈だった椅子に座っている、袁世凱と宋教仁だろうね、普通に考えれば。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;「宋教仁暗殺」と、それを切欠とした孫文の「第二次革命」、更にはそれに続く孫文による一連の「闘争」に関して、&lt;span style=&quot;line-height:1.4;&quot;&gt;ワシは、孫文の「私的な動機」による「天下獲りゲーム」だったと解釈している。&lt;/span&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;で・・・この孫文の行動を見て、上海の麻薬マフィアは、早々に孫文を見限ったのよ。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;麻薬マフィア側としては、「国民党」という政治勢力が新しく出来たから、（名目上だけとはいえ）そのトップである孫文に顔繋ぎとして支援を申し出ただけで、孫文を政治的に支持するとかいった話では全くなかったのね。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;で、清朝から統治権を引き継いだシナの正統政権というのは、誰が何処からどう見ても袁世凱政権な訳で、麻薬マフィアとしては、孫文がその正統政権にケンカを売るのを支援する理由など毛頭無いし、それを支援しているなどと思われるだけでも大迷惑だったのよ。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;span style=&quot;line-height:1.4;&quot;&gt;更に言えば、麻薬マフィアの目的は「金儲け」であって、望んでいたのは自分達の「商売」が平穏に行える事であり、その意味でも孫文の志向する「武装闘争」なんかは、絶対に願い下げだった訳。&lt;/span&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;恐らくその様な事情で、麻薬マフィアは孫文を見限った。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;具体的に言うと・・・１９１４年に、宋嘉樹が蒋介石のパトロンになったのよ。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;つまり、孫文から蒋介石に乗り換えたのね。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;次回は、麻薬マフィアが支援対象として蒋介石を選んだ理由に付いての推測になる。今回から「アヘン商人」から「麻薬マフィア」に表記が変った理由に付いても、その中で書く事になると思う。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/zombiepart6/55410251.html</link>
			<pubDate>Sat, 06 Jun 2015 00:54:44 +0900</pubDate>
			<category>倫理学</category>
		</item>
		<item>
			<title>フィクション（２５）</title>
			<description>今書いているのは、単なる「フィクション」だ。
&lt;div&gt;実在の人物や団体、事件などと関連している様に感じられても、それは偶然に過ぎない。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;１８４２年の南京条約によって、上海が国際貿易港として開港する事が決定された。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;開港前の上海は人口一万人にも満たない漁村だった様だが、開港される事が決まってからは港湾施設の建設事業などで人が集まり始め、更には周辺の施設が整い始めてからは、イギリス商人との取引をしようとするシナ商人達や貿易が開始されたら発生するであろう様々な需要を当て込む者なども集まり出し、１８４３年に開港した頃には人口が二十万人程度まで増えていたらしい。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;１８４３年に上海が開港、イギリスの商船が続々と入港し始め、商取引が始まった。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;そして、商取引が開始されて間も無く、イギリス商人達は次々に上海に乗り込み、支社を開設し始めた。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;で、細かい事なんだが、一応書いておかねばならない事が一つあって・・・&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;前回書いた様に、イギリス東インド会社の清へのアヘン輸出は１７７０年代から始められたのだが・・・実態がどうあれ、清朝が公式にはアヘン取引を禁止している以上、&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;「（実質的にイギリス政府の直轄組織である）東インド会社自体が、直接的にアヘン輸出に携わるというのはどうなの？」&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;という話になったみたいで・・・コレは、道義とか倫理とかの話ではなくて、清朝からクレームが来た場合にイギリス政府が矢面に立たなくてはならなくなる事に関して、「どうなの？」という話になったという事ね。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;それで、インドから清へのアヘン輸出に関しては、幾つかの商人を選んで・・・まぁ、簡単に言えば「下請け」として使ってやらせていたんだわ。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;その後、１９世紀に入り、アダム・スミスの影響でイギリス本国で「自由貿易論」が支持される様になり、東インド会社によるアジア貿易の独占が批判される様になったのね。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;そうした世論に押されて、イギリス王室は１８１３年に東インド会社に対するインド貿易の独占の勅許を更新せず、１８３３年には対清貿易の独占の勅許も更新しなかったので、それによって東インド会社のアジア貿易の独占体制は終了した。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;で、それ以降、東インド会社自体は貿易事業を終了し、１８３４年以降のアジア方面での貿易は、東インド会社が下請けとして使っていた商人達に引き継がれた。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;上海に乗り込んで支社を開設したのは、その連中なのね。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;要するに、全員が「アヘン商人」なのよ。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;で、そいつらが上海で始めたのも当然、従来通りの「アヘンを売って、茶を買う」という商売だった。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;上海というのは、生粋の「アヘン取引の場」として成り立った港であり、町なのね。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;で・・・だ。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;この、イギリスの「アヘン商人」達がやっていた商売の構造というのは、&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;#9312;インドでアヘンを買って清に持ち込み&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;#9313;清でアヘンを売って、その代金で茶を中心として絹織物や陶磁器などを買い入れ、&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;#9314;買い入れた商品と残りの銀を船に積み込んで、イギリスに持ち帰る&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;というもの。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;span style=&quot;line-height:1.4;&quot;&gt;&lt;br&gt;
&lt;/span&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;span style=&quot;line-height:1.4;&quot;&gt;・・・上海には金が落ちない構造だったんだわ。&lt;/span&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;勿論、船員の宿泊や飲食、或いは桃色関係の需要、積荷の上げ下ろしなどの港湾労働、更には航海に必要な各種資材の補給など、そうした事に関する代金やら賃金なんかは落ちていたのよ。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;それ以外には金は落ちていないという事ね。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;イギリスに売り上げを持って帰るのが目的だったから。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;で、その後、商品はともかく、代金の銀を一々船に積んでイギリスに持って行くのは面倒だし効率が悪いという話が出て、１８６５年にアヘン商人達が共同で出資して、香港に銀行を設立した。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;それが、香港上海銀行（ＨＳＢＣ）だ。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;これにより、本国への送金や各種取引が銀行決済になったのだが、それによって商売の構造が変わった訳ではない。取引の形態が変わっただけで。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;ＨＳＢＣ設立後も、アヘンの代金はイギリスに送金され、上海には落ちなかった。暫くは。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;上海に金が落ち始めた、つまり、アヘン商人達が上海で「不動産投資」や「事業投資」を行う様になったのが何時頃からなのかという事に関して、ハッキリした事は言えない。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;span style=&quot;line-height:1.4;&quot;&gt;何らかの公的な「決定」に基づいて行われ始めたという様なモノではないから。&lt;/span&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;span style=&quot;line-height:1.4;&quot;&gt;&lt;br&gt;
&lt;/span&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;span style=&quot;line-height:1.4;&quot;&gt;手掛かりとして一つ言えば、サッスーングループが最初に上海で不動産を購入したのが１８７７年で・・・そこから推すと、「不動産投資」に関しては１８８０年代辺りからボツボツ行われ始めていたのかも知れない。&lt;/span&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;ただ、アヘン商人達の上海への「投資」が本格的に行われる様になったのは、まず間違い無く２０世紀に入ってから、完全に上海が縄張り化した、「義和団事件」の後の事だろうと思う。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;さて・・・やっと宋嘉樹の話に戻れる。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;宋嘉樹はこの上海に、恐らく１８７０年代末から１８８０年代初頭辺りの時期に、宣教師として派遣されて来た。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;そして、「ビジネスの世界に身を投じた」、と。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;その「ビジネス」とは何だったのか？&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;・・・どう考えても、「アヘン関連」だったとしか考えられんのよ。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;上で書いた様に、１８８０年代頃にはアヘン商人達による不動産投資は始まっていた可能性があるし、また、１８６０年代からは上海は対日貿易のハブとして機能し始めていて、当初程には「アヘン一辺倒」の町ではなくなっていたんだけど、地元出身でもない、自己資金も持たない、ニューカマーの青二才が、不動産投資やら対日貿易といった商売に噛めたとは思えんし、そもそも、キャリアの振り出しがそういった商売だったのであれば、「聖書の印刷販売」などという無理矢理な話で隠蔽する必要も無い訳で・・・&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;だから、恐らく「アヘン関連」だと思うんだわ。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;で、問題は、宋嘉樹が手掛けた「ビジネス」というのが「アヘン関連」だったとして、それが「具体的にどういうモノだったのか」という事だ。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;恐らく、「売人」ではないのよ。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;「麻薬の密売」&lt;span style=&quot;line-height:1.4;&quot;&gt;なんてのはネットワークビジネスなので、金も人脈も持たない人間がいきなり出来る様な商売ではないし・・・更に言えば、宋嘉樹が上海に来た時点で、イギリスのアヘン輸出が始められてからだけで１００年以上が経過していて、その間、イギリス商人からアヘンを買ってエンドユーザーに販売して来た業者というのが確実に居た訳で、ポッと出の人間が簡単に新規参入出来る様な状況だったとはとても思えない。&lt;/span&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;では、「売人」ではなかったとして、それ以外にどの様な形態が可能だったのか？&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;ワシは、宋嘉樹は「イギリスのアヘン商人」と「アメリカのキリスト教会」を繋いだのではないかと推測している。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;つまり、当時の清に在ったアメリカのキリスト教会のネットワークを、アヘンの販売網として利用する枠組みを作ったのではないかと考えている、という事だ。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;言うまでもない事だが、この推測には確証は無い。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;あくまで、ワシの個人的な推測に過ぎない。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;span style=&quot;line-height:1.4;&quot;&gt;ただ、宋嘉樹のキャリアのスタートに関しては推測、憶測に過ぎないんだが、宋嘉樹が上海のアヘン利権に非常に深く、それも高い地位で関わっていたというのは恐らく間違い無いし、その「程度」は判然としないものの、アメリカのキリスト教会が「アヘンビジネス」に関わっていたというのも、恐らく間違い無いと考えている。&lt;/span&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;その辺の事に関しては、話を進めて行く上で触れる事になるだろう。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;次回から、宋嘉樹が孫文に接近してからの話に戻る。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/zombiepart6/55403471.html</link>
			<pubDate>Mon, 01 Jun 2015 22:29:24 +0900</pubDate>
			<category>倫理学</category>
		</item>
		<item>
			<title>フィクション（２４）</title>
			<description>今書いているのは、単なる「フィクション」だ。
&lt;div&gt;実在の人物や団体、事件などと関連している様に感じられても、それは偶然に過ぎない。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;イギリス東インド会社による清への「アヘン」輸出は、１７７０年代の半ば頃に始められた様だ。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;で・・・このイギリスによる「アヘン輸出」に関して、「密輸」という書き方が為されている場合がある。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;記録に残っている範囲では、シナに最初にアヘンが入って来たのは宋の時代、&lt;span style=&quot;line-height:1.4;&quot;&gt;海路を使ってシナ南部にまで商圏を拡大していたイスラム商人達によって持ち込まれたらしい。&lt;/span&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;１５世紀にポルトガルがインド洋に出て来てイスラム商人を駆逐し、それによって一旦はアヘンの流入は途絶した様だが、後にポルトガル船が改めてシナにアヘンを持ち込む様になり、明末頃の混乱期に、民心の荒廃に連れて、シナでのアヘン吸引の習慣は一気に広まって行った様だ。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;span style=&quot;line-height:1.4;&quot;&gt;その後、清朝が成立して以降も、一旦広まってしまったアヘン吸引の習慣は途絶えなかった。&lt;/span&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;span style=&quot;line-height:1.4;&quot;&gt;&lt;br&gt;
&lt;/span&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;・・・清朝成立後にもアヘン吸引の習慣が途絶えなかったという事は、その間にもアヘンの流入は続いていたという事であり・・・恐らくは中央アジア経由の、陸路での流入ルートが有ったんだろうね。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;海上貿易を独占していたオランダの縄張りには、アヘンの産地は無いから。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;まぁ、&lt;span style=&quot;line-height:1.4;&quot;&gt;その様な経緯で、清朝では建国前からアヘン吸引の習慣が広まっていて、それに対して政府は何度もアヘン禁止令を出してはいたのよ、事実として。&lt;/span&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;span style=&quot;line-height:1.4;&quot;&gt;だから、「イギリスによるアヘン輸出」を「密輸」と書くのは、記述としては嘘でも間違いでもない。&lt;/span&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;span style=&quot;line-height:1.4;&quot;&gt;&lt;br&gt;
&lt;/span&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;span style=&quot;line-height:1.4;&quot;&gt;しかし・・・清朝に於いて、アヘンの売買や使用が「法律上は禁止という&lt;/span&gt;&lt;span style=&quot;line-height:1.4;&quot;&gt;事になっていた」というのは事実なんだが、その「禁止」には全く実態が無かったのよ。&lt;/span&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;つまり、それに基づいた取締まりなんか、誰もやっていなかったのね。&lt;span style=&quot;line-height:1.4;&quot;&gt;取締には労力が掛かるし、その割に実益は乏しいし、放置しておいても実害は殆ど無いし・・・という事で、放置されていた訳。&lt;/span&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;span style=&quot;line-height:1.4;&quot;&gt;&lt;br&gt;
&lt;/span&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;span style=&quot;line-height:1.4;&quot;&gt;清朝の、特に現場のアヘンに対する姿勢というのは全般的にそういう感じで、基本的にアヘンというものを問題視していなかったんだわ。で、役人が放置するから、民衆も問題視しなかったのよ。&lt;/span&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;勿論、問題視する者も居たのよ。だから、禁止令が何度も出されている訳で。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;清朝に於けるアヘンに対する一般的な認識がそんな感じだった所に持って来て、アヘン取引となると、関連部署の役人なんかにとっては、賄賂的方面での「実入り」の問題が絡んで来る事になる。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;それを取締ると、自分の「実入り」が減る、と。&lt;span style=&quot;line-height:1.4;&quot;&gt;そうなると、シナ人の脳ミソが出す結論は一つだ。&lt;/span&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;「取締る意味が分らん」&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;そういう様な訳で、イギリスは１７７０年代からアヘン輸出を始めたんだが、清朝側の誰も取締りもしないし、実質的には問題視すらされなかった。公然とやっていたのよ。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;span style=&quot;line-height:1.4;&quot;&gt;だから、ワシなんかは「イギリスのアヘン輸出」に関して「密輸」という記述を目にすると、&lt;/span&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;「まぁ、確かに密輸といえば密輸なんだけどさぁ・・・」&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;という様な感じになってしまうのだが、&lt;span style=&quot;line-height:1.4;&quot;&gt;まぁ、それはそれとして・・・&lt;/span&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;span style=&quot;line-height:1.4;&quot;&gt;&lt;br&gt;
&lt;/span&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;span style=&quot;line-height:1.4;&quot;&gt;１７７０年代に始まった清へのアヘン輸出は順調に拡大して行き、１８世紀末には清ーイギリス間の輸出入の額が拮抗、１９世紀に入った頃には逆転して、清からイギリスへ銀が流出し始めた。&lt;/span&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;span style=&quot;line-height:1.4;&quot;&gt;その結果、何が起こったかというと・・・清での銀の価格が上り始めたのね。&lt;/span&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;で、問題は、清朝の貨幣制度と税制の基盤が「銀本位制」だったという事なんだわ。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;要するに・・・清で一般的に貨幣として流通していたのは、銅銭だったのよ。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;しかし、税金は銀で納めなくてはならなかったのね。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;だから、税金を払う時には銭で銀を買って、それを納めていた訳。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;span style=&quot;line-height:1.4;&quot;&gt;その銀の価格が上ったのよ。&lt;/span&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;１８世紀の後半辺りに「銀一両＝銭７００～８００文」くらいのレートだったのが、１９世紀に入る頃には「銀一両＝銭１０００文」、１８３０年代頃には「銀一両＝銭２０００文」くらいにまで上った、と。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;コレがどういう事かというと、&lt;span style=&quot;line-height:1.4;&quot;&gt;銭換算での税金が「爆上げ」になったという事だ。&lt;/span&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;span style=&quot;line-height:1.4;&quot;&gt;更には、貨幣価値が下落した事によって国内がインフレになり&lt;/span&gt;&lt;span style=&quot;line-height:1.4;&quot;&gt;、それによって国内の済状況が悪化して、政府の税収まで落ち始めたのよ。&lt;/span&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;これが、１８３０年代後半になって、清朝政府がアヘンを強硬に取締る方向に動いた理由なのね。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;span style=&quot;line-height:1.4;&quot;&gt;それが強硬過ぎた事もあってイギリスとの間で勃発したのが、所謂「アヘン戦争」で・・・清朝はこれに惨敗し、講和条約として&lt;/span&gt;&lt;span style=&quot;line-height:1.4;&quot;&gt;南京条約が締結された。&lt;/span&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;span style=&quot;line-height:1.4;&quot;&gt;&lt;br&gt;
&lt;/span&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;span style=&quot;line-height:1.4;&quot;&gt;その南京条約で、イギリスは広州以外に新たに四つの港を開港させた。&lt;/span&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;その内の一つが、上海だ。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;次回で、何とか宋嘉樹の話に繋がる・・・んじゃないかと思う。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/zombiepart6/55399881.html</link>
			<pubDate>Sat, 30 May 2015 21:45:18 +0900</pubDate>
			<category>倫理学</category>
		</item>
		<item>
			<title>フィクション（２３）</title>
			<description>今書いているのは、単なる「フィクション」だ。
&lt;div&gt;実在の人物や団体、事件等と関連している様に感じられる部分が有ったとしても、それは偶然に過ぎない。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;１７世紀初頭からイギリスやオランダのアジア方面への進出が始まったんだが、その際にイギリスやオランダが目的としていたのは前回も書いた様に、純粋に「貿易のみ」だった。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;貿易で利益を上げて、それによって国力を強める事を企図していたのであって、「海外領土の獲得」なんて意図は全く無かったのよ、元々は。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;１７世紀、イギリスがインド方面に進出し始めた頃、インドを支配していたのはムガール帝国だった。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;まぁ、支配していたと言っても、インド全域を統一できていたという訳ではないんだけどね。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;イギリス東インド会社はそのムガール帝国と交渉して協定を結び、貿易を開始した。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;インドネシアをオランダに取られた事で、当初の目的であった「香辛料利権の確保」には失敗したけれども、その代りに縄張りとして囲い込みを図ったインドには特産品として綿布があり、それをヨーロッパに持って帰ったら結構な大当たり商品となって、イギリス東インド会社によるインド貿易は順調に拡大して行った。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;ムガール側としても、自国の産品をイギリスにガンガン買って貰えれば自国が経済的に潤う訳で、イギリスとの貿易は大歓迎だったのね。ｗｉｎ－ｗｉｎの関係だった訳。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;１７世紀中、イギリスとムガールとは非常に良好な関係を築いていた。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;span style=&quot;line-height:1.4;&quot;&gt;しかし１７世紀の後半辺りから、その状況に色々と齟齬が発生し始めたのよ。&lt;/span&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;推移を追って細かく書くと果てが無いので、ザックリ書くと・・・&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;まず・・・１７世紀後半からフランスが本気でアジア進出に乗り出し、出遅れを取り戻さねばという意識も有ったのだろう、激しくインドへの食い込みを図り始めたのよ。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;その結果、１８世紀の半ば頃にはフランスは、インドの南半分にかなりの政治的影響力を持つ様になった。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;そういう状況の中、１８世紀に入ってからムガール帝国の威信が様々な要因によって低下し、地方の有力者達が次々と「独立国化」して、ムガール帝国が分裂状態になっていったのね。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;その結果、ムガール帝国の領域内に数多くの政治勢力が乱立する様になり、それらが互いに対立したり抗争したりするもんだから・・・そうした勢力との関わりを持っているイギリスやフランスも、自分達の貿易利権を守る為にも、そうした争いに関わらざるを得なくなって行ったのよ。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;更にはそこへ持って来て、ヨーロッパで神聖ローマ帝国皇帝の跡継ぎ問題を発端とする「オーストリア継承戦争」というのが起きて、イギリスとフランスが戦争になった。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;その本国同士の戦争がインドに飛び火したというか・・・まぁ、上に書いた様な事情で元から小競り合いはあったんだけど、本国が戦争になったのを機にそれが激化して行き、本格的な「英仏間の抗争」になったのよ。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;その結果、１８世紀の中頃のインドでは、現地の各種政治勢力にイギリス、フランスを交えた複雑怪奇な戦乱状況に陥った。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;そして、その戦乱を経て・・・最終的にイギリスが、覇者として勝ち残ってしまったのよ。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;イギリスと闘った勢力は、講和の条件として様々な利権をイギリス東インド会社に譲渡する事となり、&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;ムガール帝国は滅びはしなかったものの、その過程で政治的影響力を完全に失って弱小勢力となり、&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;フランスは貿易は継続できる事になったものの、インドへの政治的影響力は完全に喪失した。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;で・・・だ。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;１８世紀中葉のインドの戦乱を勝ち残り、インド全域に多くの領地や利権を手に入れ、インドの実質的な覇者となったイギリス東インド会社は・・・その結果、赤字化したんだわ。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;コレ、要因は色々あるんだけど、根本的には「統治にはコストが掛かる」という話で・・・&lt;span style=&quot;line-height:1.4;&quot;&gt;徴税権を得たって実際に徴税をするには人を雇わねばならんし、領地を得たら得たでそれを守る為に軍隊を置かねばならん訳で・・・そうした事に莫大な費用が掛かる様になった訳。&lt;/span&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;そこへ持って来て、更に飢饉やら何やらトラブルが続いて、東インド会社では手に負えなくなったのね。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;その様な事情で・・・イギリス東インド会社がインドの実質的な覇者となったのは１７６５年（１７５７年という解釈もある）の事だが、１７７０年代には東インド会社に対してイギリス政府の梃入れが入る様になったのよ。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;まぁ、「梃入れ」と言うよりも、「イギリス政府の管理下に入った」と言った方が良いかも知れない。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;それ以降、イギリス東インド会社はアジア方面に於ける「イギリス政府の出先機関」になった。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;で・・・だ。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;ヨーロッパで最初にシナとの貿易を始めたのはポルトガルで、その後、オランダが取って代り、１７世紀前半は対シナ貿易は、ほぼオランダの独占（ポルトガルのマカオ経由の貿易は継続していた）状態だった。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;その後、英蘭戦争などでオランダ本国が衰退して独占状態を維持できなくなり、１７世紀末頃から、インドでの権益固めに粗方の目処が付いていたイギリス東インド会社が対清貿易に乗り出し、&lt;span style=&quot;line-height:1.4;&quot;&gt;インドでゴタゴタしている間にも、順調に業績を伸ばし続けていたんだわ。&lt;/span&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;span style=&quot;line-height:1.4;&quot;&gt;で、１８世紀の半ば頃から、中米の植民地で生産された砂糖がヨーロッパに安く出回り始め、その影響で特にイギリスで茶の需要が爆発的に伸びだしたのね。&lt;/span&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;その結果、その頃から対清貿易は、猛烈な勢いで拡大して行ったのよ。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;それ自体は、非常に結構な話だったんだが・・・しかし、一つだけ、大問題が有ったんだわ。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;span style=&quot;line-height:1.4;&quot;&gt;&lt;br&gt;
&lt;/span&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;span style=&quot;line-height:1.4;&quot;&gt;それは、イギリス側に「清に対して売れる物が無い」という事だ。&lt;/span&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;コレ、対清貿易で発生した話ではなくて、実際には対印貿易の時から問題になっていたんだけどね。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;当時のイギリスで作っていた物の中で、輸出に回せる物なんてのは毛織物くらいしか無かったのよ。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;しかし毛織物なんか、寒冷地では重宝するけど、そうでない地域では需要が無い訳。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;だから当然の事として、インドでもシナでも、全く売れなかったのね。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;まぁ、他に、望遠鏡とか時計なんかを売ろうとはしていたんだけど、当時は大量生産が出来るものでもなく、それだけに高価でもあって、そうそうは売れるものでもない訳で・・・&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;だから、イギリス東インド会社の行っていた対清貿易というのは、事実上、一方的に「買うだけ」だった。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;それが何を発生させるか？&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;言うまでも無い。「貿易赤字」だ。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;対清貿易の拡大に連れて、イギリス側の清に対する貿易赤字が猛烈に嵩んで行ったのよ。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;具体的に言えば、イギリスから清へ「銀」が凄まじい勢いで流出する様になったのね。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;イギリス政府が東インド会社の経営を実質的に監督する様になったのは１７７２年なんだが・・・その直ぐ後にアメリカで独立戦争が始まり、その戦費を確保する必要があったのと、更には産業革命の真っ最中で、国内への産業投資に大量の資金が必要だったという事もあって、イギリス政府は「イギリスからの銀の流出」を抑制すべしという方針を採ったのね。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;イギリス政府の採ったこの方針は、当然、監督下にある東インド会社の経営にも影響した。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;東インド会社としては、対清貿易での「銀の流出」を抑制する必要に迫られた訳。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;しかし、「銀の流出」を抑えると言っても、イギリス本国での茶の需要から考えても、東インド会社自体の経営から考えても、対清貿易の停止とか縮小なんて方策は絶対に採れない訳で・・・&lt;span style=&quot;line-height:1.4;&quot;&gt;その上で「銀の流出」を抑えようとするのであれば、清側に何とかして「何か」を売って、その代金で支払いを相殺するしかない。&lt;/span&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;で、イギリス東インド会社は清に対して・・・「アヘン」を売り始めた。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;次回辺りで何とか、上海を開港させる事ができると思う。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/zombiepart6/55397121.html</link>
			<pubDate>Fri, 29 May 2015 00:28:50 +0900</pubDate>
			<category>練習用</category>
		</item>
		<item>
			<title>フィクション（２２）</title>
			<description>今書いているのは、単なる「フィクション」だ。
&lt;div&gt;実在の人物や団体、事件などと関連している様に感じられても、それは偶然に過ぎない。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;一般的に、１５世紀末から所謂「大航海時代」が始まり、それ以降、ヨーロッパ勢がこぞって世界中に進出し、「植民地獲得競争」を繰り広げた・・・という様な感じで語られている。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;大雑把に言うのであれば、その認識でも構わんと言えば構わん（世界の大半がヨーロッパ諸国によって「結果的に植民地化」されたのというのは事実だし）のだけど、事を正確に捉えようとするのであれば、その認識はちょっと違うんだわ。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;１５世紀末からのスペイン、ポルトガルによる世界進出と、１７世紀からのオランダ、イングランドが中心となったアジア方面への進出は、「質」と言うか、それを支えていた「意識」が全く違うのよ。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;イベリア半島は、中世以降のキリスト教ヨーロッパとイスラムとの角逐の中で、北アフリカ、現在のモロッコからリビア辺りのイスラム勢力によって侵略、占領されていて・・・それを、キリスト教徒が長年に亘る血みどろの戦いの末に駆逐して、それで建国されたのがイスパニア、現在のスペインだ。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;そうした、イスラムという「異教徒」との戦いの末に建国されたという経緯からか、特にスペインでは「異教徒」を・・・日本的な言い方をするなら、「調伏すべき対象」と看做す傾向が非常に強かった様でね。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;１５世紀末から最初に「大航海」に乗り出したのはスペイン、ポルトガルの二国なのだが、この二国が「大航海」に乗り出した際に、「香辛料の獲得」と共に「キリスト教布教」を目的として掲げていたのよ。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;そして、スペインなんかではその為の艦隊派遣の事を、「コンキスタ」と呼んでいたんだわ。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;「コンキスタ」というのは、「征服」という意味だ。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;スペインやポルトガル、特にスペインは明確に「異教徒征服」という意識を持って行動していたのよ。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;つまり、スペイン、ポルトガルの「大航海」には、「キリスト教徒による異教徒征伐」「キリスト教領土の拡大」という意味、意図が、ハッキリと有った訳。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;だから、特に南北アメリカのスペイン人が入り込んだ所なんかは、所謂「コンキスタドール」達によって征服、占領され、その「コンキスタドール」というのが全て一攫千金を夢見るヤマ師とゴロツキの集まりだった事も手伝って、略奪、虐殺、奴隷化によって、凄まじく悲惨な状況になったのね。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;それに対して、オランダ、イギリスが中心となった１７世紀からの「アジア進出」は、少なくとも当初は、単純に「商業的利権の確保」だけが目的だった。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;ただ、アジア方面はヨーロッパからは東回りでも西回りでも非常に遠くて、その為、交易はそれ自体が大変にコストの掛かる事業であり、高利潤を維持しなくてはならなかったのよ。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;その為に、商品の販売権を独占する必要があったのね。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;「競争原理」が入り込むと、仕入れ値の高騰を招いて利益率の低下に繋がるから。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;ちなみに、オランダ東インド会社が設立されたのは、それが原因なのよ。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;１５９６年にオランダ船が現在のインドネシアに最初に到達して以降、オランダで香辛料で一山当てようと考える人間が続出し、多くの商人がインドネシアを目指して船を出し、香辛料の買い付けに動いた。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;その結果、現地での香辛料の仕入れ値が暴騰し、それでは拙いという事で、アジア貿易を一本化する為に、東インド会社が設立されたのね。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;で・・・これまでしつこく書いて来た様に、その頃のヨーロッパ商人がアジアで確保しようとしていたのは主として香辛料であり、その主産地は現在のインドネシア一帯だった。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;だからオランダは、現在のインドネシア一帯の利権の独占を目論んだ。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;そこへ、少し遅れてやって来たイングランドが入り込もうとしたのだが・・・最終的には、当時のオランダ総督がイングランドの商館の人間を皆殺しにするという超強硬手段に出て（「アンボイナ事件」という）イングランド勢を追い出し、インドネシア一帯の交易権の独占に成功した。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;その後、オランダは東方への更なる進出を目指し、台湾、日本にまで到る交易路を確立した。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;１６３９年から江戸幕府は所謂「鎖国政策」を採ったんだが・・・コレ、実の所、江戸幕府の判断というよりも、多分、オランダによる交易独占工作の産物なのではないかと思う。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;・・・交易が許可されたのがオランダだけってのが、奇妙でしょ？&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;「スペインやポルトガルのカソリック連中はヤバいから、今の内に追い出した方が良いっすよ？・・・あぁ、それから、イングランドの連中も碌なモンじゃないんで、ついでに追い出しといた方が良いかも知れないっす。」&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;ってな感じの働き掛けを、オランダがやったんじゃないか、と。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;まぁ、その話は置いといて・・・１７世紀初頭から暫くはアジア方面との貿易はオランダが主導し、それによってオランダは繁栄していたのだが、１７世紀中期以降、フランスやイギリスとの戦争等で、本国が衰退したのよ。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;更に、１８世紀辺りから各種の香辛料が栽培される様になり、オランダが押さえていた香辛料のヨーロッパでの経済的価値が、それ程圧倒的なものではなくなって行ったんだわ。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;それやこれやで１７世紀後半辺りには、アジア方面でのオランダの立場は、主導的ではなくなっていったのね。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;と言うか・・・アジア方面との「貿易」が、それ自体でヨーロッパでの覇権を左右する程の重要性を失ったと理解した方が良いのかも知れない。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;で・・・ヨーロッパ諸国による所謂「植民地経営」というのが始まったのは、それからなのよ。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;勿論、それ以前にスペインの「コンキスタドール」達が、主目的が黄金だった事もあって、中南米で現地人を奴隷化して鉱山開発なんかをやっていたんだけど・・・それ以外、特にアジア方面との「貿易」というのは、現地で香辛料を中心とした産品を買い付けて、それをヨーロッパに運んで売るというビジネスモデルだったのね。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;それが１８世紀頃からは諸条件の変化に伴って、ヨーロッパ諸国がそれぞれが海外に確保していた縄張りで、ヨーロッパ市場で需要のあるモノを「作る（作らせる）」という方向に変化した、という事。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;その流れの中で台頭したのが、イングランドなんだわ。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;次回で「上海の成り立ち」まで行けるかなぁ・・・。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/zombiepart6/55377396.html</link>
			<pubDate>Sun, 17 May 2015 06:03:33 +0900</pubDate>
			<category>倫理学</category>
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