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1725年、将軍が吉宗だった時代に、初回の大規模なシカ狩りが行われた。
御鹿狩と言われているもの。
なぜそんなことをしたかというと、示威、軍事演習などを目的とする一方、
地域住民からの鳥獣被害対策の要望に応じるという側面もあったそうだ。
江戸の東方、今でいう千葉県松戸のあたりには、馬を育成するための牧場が
幾つかあった。
その総称を小金牧といって、そのなかに中野牧という牧場があった。
江戸時代の図面を見ると、木が方々に描かれていて、ただ草地が広がるだけ
でなく、樹林もそれなりにあったようだ。松の木のような感じの絵なので、
アカマツの二次林などがあったのかも。
その中野牧の大きさは、いくつかの復元図?を見ると、概ね北は常磐線、
東は東部野田線、南は北総線、西は武蔵野線、この四路線に囲まれた範囲
よりちょっと小さいくらいだ。概ね30平方キロくらいといったところ。
そんな立地で、将軍自らが多くの人を引き連れて、シカ狩りを行ったわけ。
たくさんの勢子(追手)を配置して、仕留め易い場所に獣をうまく追い出す
やり方で、いわゆる巻狩りというやつの大規模なもの。
で、どれだけの獲物が取れたかというと、シカが826、イノシシが5、オオ
カミが1だと。シカの数など、かなり目を見張るものだ。
初回の御鹿狩では、地域外からわんさかと獣を持ち込んで、成果を水増し
しようということはなかったみたい。
撃ち漏らしなどは当然あっただろうが、まあここは、そこにいる獣を概ね
獲りつくしたと考えることにしよう。
だから、捕獲できた数=中野牧:30平方キロの中に生息していた獣の数、
ということで仮定してしまおう。
そうすると中野牧のシカの生息密度は、約28頭/平方キロとなる。
植生に著しい影響を与えないであろうシカの頭数や、近隣で鳥獣被害を
発生させない頭数、これを適正頭数と呼んだりする人もいるが、それは
立地や植生、目指すべき状況によって違いなどはあるが、1頭〜5頭/平方
キロとか、だいたい一桁台に留まるところだと考えられている。
ここは牧場だったので、シカにとってエサとなる草本が豊富だっただろう
から、そりゃまあ、シカが多く育つんだろうけど…
鳥獣害を何とかしてくれという地域住民の声があがったとしても、それは
おかしいことでもない生息密度だったようだ。
見逃してはいけないのはオオカミだ。1頭獲れている。千葉にもオオカミが
いたのだなと、妙な感動を覚える。
翌年、吉宗は同じところでまた、御鹿狩を行う。
成果は、シカ470、イノシシ12、オオカミ1だったそうだ。
鹿は半減に近い感じだ。
注目すべきことに、オオカミもまたつかまっている。
初回の1頭は、イレギュラーなものではない気がしてくる。
オオカミは群れでいるはずで、行動範囲ももっと広いはずなので、実際は
中野牧を含むもっと広いエリアを、複数頭のオオカミが行ったり来たりして
いたんだろうと想像できる。
ここで考えてみる。
オオカミはコンスタントにいたようだ。
捕獲数が1なので、密度がどのくらいかを算出するのも憚られるが、まあ、
そこは開き直ろう。
密度を単純に計算すると、生息密度は0.03頭/平方キロとなる。
現代のポーランドで、オオカミ猟をしていない、つまりオオカミにとって
それなりに好条件な地域では、0.027〜0.032頭/平方キロという密度だそうだ。
江戸時代の中野牧のオオカミ生息密度は、これとあまり変わらない。
ちょっと乱暴だけど、オオカミはそれなりに多く生息していた、と考えられ
そうだ。
それでも、シカは高密度に生息していたわけ。
人や馬が往来する牧場だから、オオカミも気が引けてシカを捕える気が失せた
のかもしれない。
オオカミにとってはただの移動経路で、狩りをする場所ではなかったのかも
しれない。
シカに対するイノシシの少なさを見るに、シカよりもイノシシをお好みだった
のかもしれない。キジなど、他の小型鳥獣で満足したかもしれない。
理由はよく分からないが、どうも江戸時代の中野牧では、オオカミはシカの
抑止力としてはちょっと力不足だった感じがしてくる。
これをもって、オオカミはシカのコントロールには全くもって役立たずだと
言い切ることはできない。
が、いつでもシカの個体数を低レベルに抑えてくれるわけじゃないかもよ、
ということにはなりそうな予感。。。
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