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野生動物への餌付けが、しばしば問題になる。
栄養価の高いエサは、多くの野生動物にとって、のどから手が出るほど欲しいものだ。
いいエサを食べて栄養状態が高まると、個体も大きく丈夫に育ち、病気や競争に打ち勝てるようになる。
また、繁殖もうまくいくようになる。
一族の盛衰が、エサの確保にかかっているといってもよい。
ただ、自然界では栄養価の高いエサが無尽蔵にあるわけではない。質も量も上限がある。
だから、その有限のエサで支えられるだけの数までしか増えられない。
それ以上に増えようものなら、エサは枯渇、動物の個体は飢餓に陥り、破綻していく。
餌資源の量も、いわゆる環境収容力といわれるもののパラメータのひとつだ。
さて、野生動物は、人間とは距離を置いて過ごしているものもいるが、人間が持っているエサの魅力にはなかなか抗いがたいところがある。
人間が自分たちを攻める意図を持っていないと判断すると、人間との距離を縮めてくるものも多い。
かくして野生動物は、意外にもすぐに餌付いてしまう。
そうすると、人のばら撒くエサが大量であれば、本来の環境収容力を超えて成長、繁殖することができるようにもなる。つまり増えすぎる可能性、過密になる可能性も出てくる。
それから、人の生活圏の近くにいたほうが得だ、と動物に思わせることになる。行くとこまで行くと、野性味をまったく失ってしまって、人に依存するようになってしまう。
自然破壊などとはまた別の側面で、野生動物の生き様を乱してしまうわけだ。
それっていいのか?という議論も当然出てくる。
なぜ人は、餌付けをしたがるのか。
なんだかんだ言っても、餌付けは快楽なのだ。
飯を食うのは快楽だ。自分の命を支える行為であるのだから。
飯を食わせるのはどうか。
子育てをする動物は、わが子にエサを食わせる。それがもし苦痛ならば、子育て放棄が続出しそうだ。
わが子にエサを食わせる行為は、ある種の快感を得ているはずだ。快感という言葉に違和感があるのなら、達成感でも母性本能の充足でも情愛でも、好きなように言い換えればいい。要は気分が優れる感じのものだ。
ヒトの場合、わが子以外にも相当手広く、その感情を抱ける。
親でも、先輩でも後輩でも、彼女でも彼氏でも、自分の用意した食い物を旨そうに食ってもらえれば、それは快感だ。
犬でも、猫でも、金魚でも、コオロギでも、やったエサを旨そうに食ってくれると、結構気分がよいのである。
そこには、必ずしも、論理的な思考があるわけではない。
動物園の動物にエサをやりたいなどと思う人は結構多い。
しかし来園者がエサをやる意義、意味は特に無い。よく考えてみれば、動物園の動物は、来園者にエサなどもらわずとも、あとで飼育員に必要な分量をもらえるのだ。そうはわかっていてもやりたい。エサをあげたい欲求というのは、理屈じゃないのだ。
動物園はそういうところに対して、エサやり体験という形で商売のネタにしたりする。あるいは、てめえの勝手な快楽に動物を付き合わさせるんじゃねぇ!と、エサやり禁止の看板を出したりする。
また、餌付けの動機として、たくさんの動物にいてほしいという願望がある。
野生動物がたくさんいると、なんだか自然豊かな感じがする。それが観光資源なんかに結びつくと、エスカレートしていくこともある。
しょぼくれた池に、明らかにその池の環境収容力を超えるようなガンカモ類がいたりする。何かと思えば、パンを撒きまくっている。そんなことが結構あっちこっちでみられる。
この手の問題で心配なのは、野生動物への影響ももちろんだが、エサさえ撒けば動物の生息を支えられると思う人が増えちゃうんじゃないか?ということだ。
そして、そういう状態を「自然が豊か」と勘違いしてしまうことだ。
自然に近い状態で野生動物を多数生息させようとすれば、相応の質と広さを持った環境が必要なはずだ。
野生動物にとってよい環境は、植物なり菌類なり、さまざまな生物にとってもいい環境で、さらに人間にとってもいいもの。だから、よい自然環境を守りたいですね、てな話になるわけだ。そういうセンスが、自然環境保全の根幹にある。
しかしエサをばら撒けば、餌付けスポットでは動物が増えていく。
なーんだ、自然環境なんて大したもんが無くっても、エサさえ撒けば、生きものは幸せに、たくさん暮らせるじゃん。そう思われたが最後、自然保護の理念が吹っ飛んでしまう可能性があるわけだ。
そしてもうひとつ、難しい問題が絡んでくる。動物愛護という考え方だ。
たとえば、天候不順などで野生植物のつける実や葉っぱの量が減ったとする。
当然、それらをエサにしている動物は飢える。痩せる。死ぬやつは死ぬ。
それが自然の、野生の掟だ。良いも悪いも無い、ただただ、そういうものだ。
しかし、アバラが浮いてフラフラしているような獣が眼前にいると、なんか助けたくなってしまう。
で、エサをやってしまうのだ。
もしその種が超希少種で、1匹たりとも減らせない、というならば、百歩譲って黙認するもやむを得ず、と思う。
しかし、ある程度は淘汰されても、絶滅することなくやっていけるだろう、という場合は、手出しをしないほうがよいと思う。それが自然だろ、ってことで。
でもこのあたりの話は、決着しないものだ。
動物愛護は、個体に重きを置いて、その個体が健康に天寿を全うするか否か、という観点で考える。
生態学をベースにした自然保護とか野生動物管理の立場に立つと、種とか個体群とか、動物の集団としての存在に重きを置いて、その存続が可能か、他の生物との関連性はどうかというような観点で考える。
思考の出発点がちょっと違うのだ。議論をすると、往々にして平行線のままだ。
と、ここまで書いてきたようなことが、グルグルと渦巻いているのが野生動物への餌付け問題がスカッと解決しない理由なんだろうなと思う。
ちょっと前に広島県の宮島に行ったとき、ふとそのように思った。
宮島では、かつてシカに餌付けをしていた。
今は、シカはやはり野生の生きものだから、無闇やたらと餌付けしたりせず、適度に距離を置こうという方向にシフトしている。個人的にはこれに賛成だ。
だけど、人にエサをもらえなくなり、痩せていく個体がいる。それを見過ごせなくて、餌付けを進める方々がいる。
それでは、シカはいつまでたっても人への依存を絶てない。餌付け量が増えればシカは増える。増えたシカを養うために、もっと餌付けすることになるだろう。そしてエンドレスでエスカレートしていくわけだ。
あまりに増えれば、害獣扱いで駆除される、ということにもなりかねない。無駄に増やして無駄に狩る、というのも切ない話だ。
心は痛むかもしれないが、ここは野性の掟に任せましょう、そう思い切るのが現実的かと思ったり。
ところで野生動物は、
おなかいっぱい食べられるけど子孫を残す能力を失った状態と、
ひもじいけれど繁殖能力自体は持ったままの状態と、
どちらが幸福だろうか。
宮島のシカ個体数が増えることを避けるため、シカに避妊手術をしてはどうかと提案している団体さんがいるそうだ。
餌付けをやめれば自然に数は減っていくと思うが、それでは痩せる個体が出てきてかわいそうだ、エサをやりながらも増えないように避妊処置をするのがベストだ、と主張なさっているそうだ。
個人的には、野生動物としては、個体の存続よりも種の存続の可能性を優先するのではないかと。
そこらへんをベースに想像すれば、繁殖能力を失ってのうのうと暮らすよりは、多少ひもじくても、次世代を残す能力を有しているほうが幸福なのではないかと思っている。
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愚痴・備忘録
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シカが林縁の動物なら、林縁を意図的に作ってそこに留まってもらい、そこで個体数調整をする。
森の奥にはカモシカやクマにひっそり暮らしてもらう。
机上の空論だと、そういうのが一番都合がよさそう。
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カモシカはかつて、狩猟対象獣だった。乱獲が進むなどして、大正14年に旧狩猟法で捕獲規制、昭和9年に旧史跡名勝天然記念物法で天然記念物になり、その後、文化財保護法のもとで昭和30年に特別天然記念物になった。手厚い保護と、森林植生の変化もカモシカの生息を支えたようで、だんだん増えていく。農林業被害も見られるようになる。
1979年、林野庁・文化庁・環境庁は、カモシカについて2つの方向性に合意した。
ひとつは全国一律の保護施策をやめ、地域指定の天然記念物にしていこうというもの。これはまだ実現していない。
全国で15か所(下北半島、朝日・飯豊山系、北奥羽山系、北上山地、南奥羽山系、北アルプス、南アルプス、越後・日光・三国、関東山地、紀伊山地、鈴鹿山地、白山、伊吹・比良山地、四国山地、九州山地)の保護地域が予定されたが、四国と九州では設定が完了してなくて、まだ全国的な足並みがそろわないからだ。しかし四国は平成22〜23、九州は平成23〜24で特別調査が入っていて、何にもしてないわけではない。十分な情報と地元の賛意が揃えば、いずれ設定がなされるだろう。なお、四国と九州以外の保護地域設定はかなり早く、平成元年までに済んでいる。
もう一つは、被害防除などで必要な場合は、捕獲を認めようというもの。これは実現している。
平成11年の鳥獣法改正でいわゆる特定鳥獣保護管理計画の制度が出来て、これに沿ってカモシカの特定計画を策定し、ある程度科学的な・計画的な個体数調整を行おうという自治体もぼちぼち増えてきている。
しかし、パラポックスウイルス症のような感染症、ニホンジカとの生息場所のバッティングなどで、個体数の自然減が生じる地域も増えてきている。シカに山を追われ、低地に出没する個体もいる。
保護する地域とそうでない地域のメリハリ、保護すべき状況と駆除すべき状況の判断、シカとはまた違った難しさがあるような。
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直前の記事を簡単にまとめると、こんな感じ。
シカは本来、森の中だけで生きる動物ではなく、林縁の動物である。
シカはある程度の死亡率の高さを前提に生きている。
今の社会状況の中では、シカを森の奥に、山奥に閉じ込めておくということしかできそうにない。
しかし、奥まった森とシカは、そもそもミスマッチ。アンバランス。森が耐えられない。
立派な森とシカの存在を両立するには、シカの個体数増加を抑制する要因が必要。
しかし、個体数を抑える要因である厳冬・多雪と人間も含めた捕食者の存在は、最近調子が芳しくない。
だから森も荒れるし、森では収まりきれなくて、再び低地に降りようとするシカも出てくるというような、現在のシカ問題が生じている。
そんな感じ?
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ニホンジカは森林棲の動物ではなく、林縁棲の動物だと考えるべきだという話がある。
奥まった山に住むのでなく、もっと手前の方が本拠地なんだと。
シカは植食性の動物だ。草本やササ類などをよく食べる。
極相に至ったような森林では、林床にはそこまで多くの植物は無い。安定した環境だが、林床まで届く光は少なくて、多くの草本や低木が次から次へと生えまくる、とはいかない。比較的餌資源に乏しい。
一方、森林の外側は、高木による日射の遮りが無いから、草や低木にとっては条件がよく、たくさん生えてくる。
エサをたくさん得たいなら、そっちの方に行った方がいい。
しかし、草地の真っただ中に立ちっぱなしでは、いざという時、天敵から身を隠しにくかったり、厳しい風雨に晒され続けることになったりして、これも厳しい。
そうすると、餌がたくさんある所に簡単に出向けて、いざという時に森に逃げ込める、という立地が一番都合がいい。
そういう立地こそが、林縁だ、ということになる。
日本に棲む植食性の大型獣としては、ニホンジカの他に、ニホンカモシカがいる。
エサはニホンジカと大差ない。ニホンジカほど悪食ではないという話も聞く。
だったらニホンジカも、林縁にいた方が都合が良いように思う。
しかしカモシカは、まあ、森林棲の動物、山奥の動物として認識されている。
急傾斜でもガシガシ動けたりと、体のつくりも山に向いている。
ニホンカモシカはニホンジカと違って群れを形成せず、一定の縄張りを持つ。
ある程度増えてしまっても、縄張りがあるから、余剰個体は追い出されてしまい、個体密度にセーブがかけられることになる。
これを、少ない餌資源を持続的に利用出来るよう、つまり多数が寄ってたかって林床の植物を食いつくさないようにするためのシステムだと解釈すれば、合点がいく。
山の奥ではカモシカが単独に近いかたちでひっそり暮らす。林縁付近ではシカが群れでワイワイやってる。そういうすみ分けが本来の姿だと考えるのは、そう無理のある話ではなさそうだ。
逆に言えば、両種が同所的に生きていくのはお互いのためにならない。エサを巡って競合してしまう。
現に、四国の剣山など、カモシカとシカが同所的に棲むことになっちゃったわけだが、シカは増加する一方、カモシカの姿を見かけなくなった地域もある。種としては、シカの方が競争力が強そうだ。
ちょっと脱線した。
ところで自然の状態で、森林に縁なんてできるのか?
標高のかなり高いところは、比較的明確な縁がある。気温も低い、風も強いということになると、大型の木本は育たない。
森林限界というやつだ。そこから先はハイマツのようなちょっと変わった低木や、真の高山植物の天下となる。
しかし、たしかに林縁はできるんだけど、シカが定住するには環境が厳しすぎる。(←最近は進出してきてるが…)
じゃ、標高の低い方はどうなんだ?
海沿いまで森林が成立できるじゃないか。
低地側の林縁は、森林と海の境界ではないか。
シカが海に飛び込んで、ワカメばっかり食うのか。
その通りだ。
というのはウソだ。
出水でよく攪乱されるとか、理由は何でもいいが、大木が安定して育つには厳しい条件の場所はそれなりにある。
だから標高が低い場所でも、ちゃんと森になる所と、そうではないところの二つが存在する。つまり林縁はできる。
海に近い貝塚でもシカの骨はたくさん見つかる。ご先祖様が、わざわざ何十キロも離れた山にシカを狩りに行くとも思えず、低地にもシカが多数いたのだろうと思う。樹林と氾濫原が混じりあうような川沿いの低地なんか、結構シカがいたんじゃないか。というか、むしろそういうところが本拠地だったような気もする。
太古の昔は、そんなところでオオカミや人間に追いかけられながら、暮らしていたんでしょうかね。
雪深い年も今より多かっただろうから、越冬できず死ぬ個体も多かっただろう。
林縁で、ある程度の死亡率も織り込み済みで生きていく。それがシカ。ってことか。
そんなイメージを絵にしてみると、こんな感じ?
(青はシカ。赤はシカの生息を制限する要素、捕獲者や雪ね。地形や植物は、見た通りの感じで)
しかし、農業が盛んになってくると、そういう場所はどんどん田畑に、集落に、「里」に変わっていく。
さすがのシカも、人間とバッティングしたくない。既に人間のテリトリーになってしまった場所をのうのうと歩いていてはまずい。
そうすると、生息の拠点を人のあまりいない山の方に移して行くしかない。
山の方は山の方で、昔のままではない。人為によって生産性が高い二次植生も広がっていく。薪炭林もあれば、肥料や家畜の飼料に活用するための草地もあった。シカの好みそうな林縁環境が山の上の方にも用意された。林業で発生する伐採跡地もある。シカはそこでとりあえず暮らしていける。
あわよくば、隙を見て里に出て、大根でも齧ってやろう。そんなシカもいただろう。
しかし、そこは、勘弁してもらえなかった。
カカシやシシ脅しでびっくりさせられる。
シカを捕獲せんと人間が追手として迫る。
人間にとっては農業被害を押さえつつ、蛋白源や皮革素材の確保もできる、一石二鳥のシカ狩りだ。
大人数での巻狩りは、地域の連帯感を生んだり、あるいは血気盛んな若者にはよいレクリエーションにもなっていたかもしれない。
かくしてシカは低地にいられず、人目を忍んで山に暮らすようになる。人による捕獲もだんだん進んで、個体数も下がってくる。
しかし時代が進むと、また様子は変わってくる。
低地では相変わらず人が生活している。
山は、かつて二次林や草地だったところが、どんどん鬱蒼とした森に遷移していく。
雪は減った。オオカミもいない。野山に分け入ってシカを獲るハンターも減った。
しかし、低地に降りるには至らず、シカは森林の中で徐々に増えていく。
さて、シカは林縁の動物のようだ。
生産性の高いところで、ある程度の集団でわっしわっしと植物を食う。それが本分のようだ。
でも、森林の内部に追いやられた。
次から次へと料理が出てくる食べ放題のビュッフェに通っていた大食漢が、急に、食糧に乏しい避難所生活を始めさせられたようなもんだ。
今までのノリで食いまくると、すぐに食料は底をつくのだ。
シカが森のみに依存して生息するというのは、無理があった。
遅かれ早かれ、餌資源となる林床植物の枯渇を招き、いずれ森林を衰退させるものだった。
強い捕獲圧、越冬を困難にさせるほどの厳冬・多雪など、色んな要因がシカの数をある程度セーブしてきたから、これまでは何とかなっていた。
いまやそういった要因が無くなったり、消えつつあったりする。
そんなふうに考えてみると、森林が大きな影響を受ける例が増えてきたのも、納得。
もっと餌をよこせと、人里に下りてきて、農作物を食す例が増えてきたのも、道理。
鳥獣被害の激化で営農意欲を失い、中山間の衰退も加速する。
そんな現状を描いてみるとこんな感じになるのかな。
腑に落ちないところもまだまだあるけど、大筋としてはそんな感じなのかな〜と思い始めた。
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